第37話:揺らぐ天秤

 錬金術師ギルドの最上階に位置するギルドマスターの執務室は、夜の闇に包まれていた。

 重厚な机の向こうに座るマグヌス・フォン・ヴァイスの顔は、蝋燭の炎に照らされて鬼気迫る表情を見せている。彼の向かい側には、金獅子商会のゲルハルトが、薄笑いを浮かべて座っていた。

 フェリクスは執務室の扉の影で、息を殺して二人の密談を聞いていた。

「計画は順調ですな、マグヌス様」

 ゲルハルトの油っこい声が、静寂を破った。

「市民の感情は完全にあの小娘に敵対している。公聴会では、我々の思うままに事を運べるでしょう」

 マグヌスが頷いた。

「うむ。リリアナ・エルンフェルトという癌を、この街から完全に取り除く」

 フェリクスの心臓が、激しく鼓動した。

  *** 

「しかし、問題もありますな」

 ゲルハルトが苦い表情を見せた。

「職人協同組合が結束し始めている。あの鍛冶師ヴォルフを中心に、模倣品の分析を進めているようです」

「心配は無用だ」

 マグヌスが冷たく笑った。

「所詮は小さな工房の集まり。我々の権力の前では、蟻のようなものだ」

「それでも、物的証拠を突きつけられては…」

「だからこそ、公聴会で完膚なきまでに叩き潰すのだ」

 マグヌスが立ち上がると、窓の外のリーフェンブルクの夜景を見下ろした。

「あの小娘が消えれば、この街の錬金術は完全に我々の支配下に入る。生活魔道具という愚かしい流行も終わり、真の錬金術が復活する」

  *** 

 ゲルハルトが身を乗り出した。

「それで、例の件はいかがですか?」

「例の件?」

「セレナ川上流の土地の件です。あそこに新しい工場を建設すれば、金獅子商会の利益は三倍になります」

 フェリクスの眉がひそめられた。セレナ川上流といえば、街の水源地だ。そこに工場を建てるなど、環境への影響は計り知れない。

「問題ない」

 マグヌスが事もなげに答えた。

「市議会には、すでに話を通してある。リリアナの件が片付けば、反対する者もいなくなるだろう」

「素晴らしい。やはりマグヌス様は話が分かる」

 ゲルハルトが下品に笑った。

「この街の未来は、我々が決めるということですな」

  *** 

 フェリクスは扉の影で、拳を握りしめた。

 今聞いた会話は、単なるリリアナ排斥ではなかった。これは街の利権を巡る、巨大な陰謀だった。錬金術の純粋性など、どこにもない。あるのは権力と金への欲望だけだった。

「我々の錬金術は…」

 フェリクスの心の中で、疑問がもたげてきた。

 彼がギルドに入ったのは、真理の探究のためだった。錬金術という崇高な学問を極め、世界の理を解き明かしたかった。そのためにマグヌスの弟子となり、厳しい修行に耐えてきた。

 しかし、師の口から出るのは、権謀術数ばかり。錬金術への愛など、微塵も感じられない。

「これで良いのか…」

 フェリクスの価値観が、根底から揺らぎ始めていた。

  *** 

 密談が終わり、ゲルハルトが帰っていく。フェリクスは慌てて身を隠したが、心は混乱していた。

 執務室に戻ったマグヌスが、書類に目を通している。フェリクスは意を決して、扉をノックした。

「入れ」

 マグヌスの声に応じて、フェリクスは執務室に足を踏み入れた。

「師匠、お話があります」

「何だ、フェリクス」

 マグヌスは書類から目を上げずに答えた。

「今のお話を、聞かせていただきました」

 その瞬間、マグヌスの手が止まった。鋭い視線がフェリクスを射抜く。

「聞いていたのか」

「はい。師匠、お聞きします」

 フェリクスは震え声で続けた。

「我々の錬金術は、真理の探究のためではなかったのですか!」

  *** 

 マグヌスの表情が、一変した。

「何を言っている」

「師匠がゲルハルト氏と話していたのは、錬金術のことではありません。利権と権力の話ばかりでした!」

 フェリクスの声が震えた。

「これでは、我々は学者ではなく、ただの政治屋ではありませんか!」

 マグヌスが立ち上がった。その顔には、冷たい怒りが宿っている。

「青臭い理想論だ」

 一言で、フェリクスの訴えを切り捨てた。

「フェリクス、お前はまだ分かっていない。錬金術とは力だ。そして力とは、使うものが決めるものだ」

「しかし…」

「現実を見ろ」

 マグヌスがフェリクスに歩み寄った。

「理想だけでは何も変わらない。この世界を動かすのは、金と権力だけだ」

  *** 

 フェリクスは後ずさりした。

 目の前にいるのは、自分が尊敬していた師匠だった。錬金術の大家として、ギルドの頂点に立つ偉大な人物だった。

 しかし、今のマグヌスからは、錬金術への愛も、真理への渇望も感じられない。あるのは、冷たい計算と支配欲だけだった。

「師匠…あなたは、なぜ錬金術師になったのですか?」

 フェリクスの最後の問いかけに、マグヌスは鼻で笑った。

「力を得るためだ。他に理由があるか?」

 その瞬間、フェリクスの心の中で何かが崩れ落ちた。

 自分が信じてきた正義が、音を立てて瓦解していく。錬金術師としての誇りが、粉々に砕け散った。

「私は…間違っていたのですね」

 フェリクスは深く頭を下げた。

「失礼いたします」

  *** 

 執務室を出たフェリクスは、ギルドの廊下をふらつきながら歩いた。

 頭の中で、様々な記憶がよみがえってくる。

 リリアナが作った温度調整器を見た時の驚き。街の人々が彼女の魔道具を喜んで使っている光景。そして、自分が模倣品を作って彼女を陥れようとした、あの卑劣な行為。

「私は…何をやっていたんだ」

 フェリクスは壁にもたれかかった。

 リリアナの錬金術には、確かに温かい心があった。使う者のことを真剣に考え、その幸せを願う純粋な想いがあった。

 それに対して、自分の錬金術は何だったのか。師匠の権威を振りかざし、相手を見下すためだけの道具だったのではないか。

「本当の錬金術とは…」

 フェリクスの心に、一つの決意が芽生えた。

  *** 

 深夜、フェリクスは自分の研究室で、ある書類をまとめていた。

 それは、金獅子商会の内部資料だった。マグヌスとゲルハルトの癒着を示す証拠の数々。密談の内容を記した詳細な記録。

 すべてを白日の下に晒すには、まだ足りない。しかし、調査の糸口としては充分だった。

 フェリクスは書類を封筒に入れると、外套を羽織った。

 エルミナの事務所へ向かうためだ。

 自分の名前は出せない。師匠への裏切りとなり、ギルドでの立場を失うことになる。

 しかし、それでも構わなかった。

 もはや自分に、ギルドに留まる価値などないのだから。

  *** 

 商業地区の夜道は、人影もまばらだった。

 フェリクスはエルミナの事務所の前に立つと、封筒をドアの隙間にそっと差し込んだ。

 振り返ることなく、夜の闇に消えていく。

 彼の心は、今まで感じたことのない軽やかさに満ちていた。

 ようやく、錬金術師としての誇りを取り戻せた気がした。

 真理は、権力者の都合で曲げられるものではない。

 それを証明するために、フェリクスは自分なりの戦いを始めたのだった。

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