第28話:師の過去と灰色の災厄
工房に重い沈黙が流れていた。
リリアナは作業台に向かっているものの、その手は完全に止まっている。目の前にある錬金術の道具を見つめているだけで、何も作ろうとしない。
街の人々からの信頼を失い、自分の技術が疑いの目で見られている現実が、彼女の心を深く傷つけていた。
「リリー、何か食べなさい」
エルミナが温かいスープを持ってきたが、リリアナは首を振った。
「食欲がないんです……」
その時、工房の扉が静かに開いた。現れたのは師匠テオ。いつものパイプは手にしておらず、その表情は普段の穏やかさとは異なり、何か深い決意を秘めているように見えた。
「リリアナ、少し話をしよう」
テオの声は、いつもより低く、重みを帯びていた。
「師匠……」
「エルミナ嬢、申し訳ないが、少しの間、席を外していただけるかね」
エルミナは困惑したが、テオの真剣な表情を見て、静かに工房を出て行った。
***
テオは古い木箱を工房の奥から取り出すと、その中から一冊の本を取り出した。革の表紙は古く、ところどころ黒く焼け焦げている。
「これを見たことがあるかね?」
リリアナが顔を上げると、本のページの一部が炭化しているのが見えた。
「これは……」
「ワシが若い頃に書いた錬金術の研究書だ」
テオが本を開くと、複雑な錬成陣の図が描かれたページが現れた。しかし、その図の大部分は黒く焼けて、判読不可能になっている。
「師匠が書かれたものなんですか?」
「ああ。『理の錬金術』の究極形態を追求していた頃の、愚かな研究の記録だ」
テオの瞳に、深い悲しみが宿った。
「ワシも昔、良かれと思ってやったことが、大勢の人を不幸にした」
***
テオは静かに語り始めた。
「五百年前、『灰色の災厄』という大惨事があったことは知っているな?」
「はい……教科書で読みました。『理の錬金術』の暴走が原因で、大陸中央部が不毛の地になったと」
「その通りだ。だが、教科書には書かれていない真実がある」
テオがページをめくる。そこには、かつて美しい都市だったであろう場所が、灰色の荒野と化した光景が描かれていた。
「その災厄を引き起こしたのは、ワシを含む『理の錬金術』の研究者たちだった」
リリアナの顔が青ざめた。
「師匠が……?」
「我々は、物質の完全な分解と再構築を目指していた。『賢者の石』という究極の物質を作り出すことで、人類の全ての問題を解決できると信じていた」
テオの声が震えた。
「効率と論理を至上とし、時に人間性すら度外視した。技術の進歩こそが善であり、感情や心などは非効率な障害だと考えていたのだ」
***
「しかし、我々は致命的な見落としをしていた」
テオが焼け焦げたページを指差す。
「物質から『心』を完全に抜き取った時、何が起こるかということを」
「心を……抜き取る?」
「そうだ。我々は物質の完全な制御を目指すあまり、その物質が持つ『生命力』『自然の調和』といった見えない力を無視した。いや、邪魔なものとして排除しようとした」
リリアナは、金獅子商会の模倣品を思い出していた。あの道具もまた、機能だけを残して『心』を削ぎ落としたものだった。
「結果として、錬成した物質は制御を失い、周囲の全てを巻き込んで崩壊した。街も、森も、そこに住む人々も……全てが灰色の粉となって消え去った」
テオの手が、本のページに静かに置かれた。
「ワシの研究が、数万人の命を奪ったのだ」
***
工房に深い静寂が流れた。
リリアナは師匠の告白に衝撃を受けていたが、同時に一つのことに気づいていた。
「師匠……だから、私に『情の錬金術』を教えてくださったんですね」
「そうだ」
テオが顔を上げた。
「技術に心が伴わねば、それはただの暴力になる。君の道は、決して間違ってはいない」
彼の瞳に、強い確信の光が宿った。
「君が作る道具には、使う人への愛情と配慮が込められている。それこそが、真の錬金術なのだ」
「でも、今は皆さんが私の技術を疑って……」
「君は、金獅子商会の粗悪品と同じものを作っているのかね?」
テオの問いかけに、リリアナは首を振った。
「いえ、違います。私は……」
「そうだ。君の道具と、あの模倣品は全く別物だ。見た目は似ていても、そこに込められた想いは正反対だ」
***
テオは立ち上がり、工房の窓から外を眺めた。
「金獅子商会のやり方は、まさに昔のワシたちと同じだ。効率と利益だけを追求し、使う人の心を無視している」
「それで事故が起こったんですね」
「ああ。あの『自動調理鍋』は、小さな『災厄』だったのかもしれん」
テオが振り返る。
「だからこそ、君の技術がより一層重要になるのだ。人々が本当の技術と偽物の技術の違いを知る必要がある」
リリアナの胸に、わずかながら希望の光が差し込んだ。
「私に、何かできることがあるでしょうか?」
「ある」
テオの声に力がこもった。
「君の技術で、この街を、いや、世界を守るのだ。『灰色の災厄』を二度と起こさせないために」
***
その時、工房の扉が勢いよく開かれた。
「大変です!」
息を切らしながら駆け込んできたのは、職人協同組合のガルヴィンだった。
「街の向こうで、また事故が起こりました! 今度は『方向指示器』が暴走して……」
リリアナとテオは顔を見合わせた。
金獅子商会の粗悪品による被害は、まだ続いている。そして、それは間違いなく、リリアナたちの評判にも影響するだろう。
「師匠……」
リリアナが立ち上がった。その瞳に、迷いはなかった。
「私、戦います。正しい技術と間違った技術の違いを、皆さんに知ってもらうために」
テオが満足そうに頷く。
「それでこそ、ワシの弟子だ」
***
工房の外では、夕闇が迫っていた。
しかし、リリアナの心には新たな決意の炎が燃えている。
師匠の過去を知り、自分の技術の本当の意味を理解した今、彼女は迷うことなく前に進むことができる。
『灰色の災厄』を二度と起こさせない。
技術に心を込め、人々を本当の意味で幸せにする。
それが、師匠から託された使命であり、錬金術師としての誇りでもあった。
暗雲立ち込める街に、小さな光が再び灯ろうとしていた。
テオは静かに微笑みながら、古い本をそっと閉じた。
弟子は、もう一人で歩いていくことができる。
そんな確信が、彼の心を満たしていた。
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