第29話:赤く染まる夜
冬の到来と共に、リーフェンブルクに急激な冷え込みが訪れた。
昼間でも息が白くなり、夜ともなれば窓ガラスに氷の花が咲く。街の人々は暖炉に火を絶やすことなく、厚い毛布にくるまって寒さをしのいでいた。
このような時期に、金獅子商会が満を持して市場に投入したのが「太陽石の暖炉」だった。
「寒い冬も、これさえあれば安心!」
中央広場に設置された宣伝台で、マルクスが声高々と商品を紹介している。
「従来の暖炉の三倍の暖房効果! しかも燃料不要で、魔石一つで一晩中温かさが持続します!」
寒さに震える市民たちが、興味深そうに暖炉を見つめていた。
「そして何より、お値段はたったの五クラウン! この冬を乗り切るための必需品です!」
群衆の中から、次々と注文の声が上がった。
「一台お願いします!」
「うちにも!」
金獅子商会の「太陽石の暖炉」は、またもや飛ぶように売れていった。
***
居住地区の一角にある小さな民家で、織物職人のマーサは新しく購入した暖炉に満足していた。
「これは素晴らしいわ」
暖炉から放たれる熱は確かに強く、小さな家全体がポカポカと温まっている。
「これまで薪代にどれだけお金をかけていたことか。これなら経済的だし、何より楽ちんよ」
マーサは安心して、夜の繕い物に取りかかった。
しかし、それから二時間が経った頃。
「あら? なんだか熱すぎるような……」
暖炉の熱量が、明らかに設定を超えて上昇していた。部屋の温度は上がり続け、汗ばむほどになっている。
「おかしいわね……」
マーサが制御装置を操作しようとしたが、つまみが全く反応しない。それどころか、装置そのものが異常に熱を帯び、触ることもできなかった。
「まさか……」
その時、暖炉の魔石が不気味な赤い光を放ち始めた。
***
暖炉の周囲の木製の床板が、じわじわと焦げ始めた。
「火事よ! 火事!」
マーサの悲鳴が夜の静寂を破った。
しかし、彼女の叫びもむなしく、炎は乾燥した木材に瞬く間に燃え移っていく。冬の乾燥した空気が、火勢をさらに勢いづかせた。
隣家の住人たちが駆けつけた時には、既に炎は一階全体を包み込んでいた。
「水を! 早く水を!」
「消火隊を呼べ!」
人々は必死に消火活動を行ったが、火の勢いは止まらない。それどころか、強い風にあおられて、炎は隣の家へと燃え移り始めた。
「だめだ、手に負えない!」
見る見るうちに、火災は街区全体に広がっていった。
***
クローバー工房でも、外の騒ぎに気づいたリリアナが窓の外を見て愕然とした。
「あれは……火事!」
居住地区の方角が、赤々と燃え上がっている。炎は既に数軒の家を呑み込み、風に煽られてさらに拡大しようとしていた。
「大変だ!」
ヴォルフが工房に駆け込んできた。
「居住地区で大火事だ! 原因は金獅子商会の暖炉らしい!」
リリアナの顔が青ざめた。またしても、粗悪な模倣品が人々を危険にさらしている。
「皆さんは無事ですか?」
「まだ分からない。消火隊も出動してるが、火の回りが早すぎる」
エルミナが決然と立ち上がった。
「行きましょう。アタシたちにも、何かできることがあるはず」
リリアナは一瞬躊躇したが、師匠の言葉を思い出した。
『技術に心が伴わねば、それはただの暴力になる』
今こそ、自分の技術で人々を守る時だ。
「はい。行きましょう」
***
火災現場は、まさに地獄絵図と化していた。
赤い炎が夜空を焦がし、黒い煙が街全体を覆っている。人々は家財道具を抱えて右往左往し、消火隊は必死に放水を続けているが、焼け石に水の状態だった。
「こっちだ! まだ人が残ってる!」
ヴォルフは人々の避難誘導に駆け回った。その逞しい腕で、逃げ遅れた老人や子供たちを次々と安全な場所へ運んでいく。
「アタシは避難所の手配をするわ!」
エルミナは商人としてのネットワークを駆使し、近隣の宿屋や公民館と交渉して、被災者の一時避難場所を確保していく。
そして、リリアナは。
「延焼を防がなければ……」
彼女は火災の最前線に向かい、持参した錬金術の道具を取り出した。
***
リリアナが作り出したのは、簡易な冷却装置だった。
空気中の水分を急速に冷却し、氷の壁を作り出すことで、炎の進行を食い止めようという試みだった。
「どうか、間に合って……」
彼女は全身のマナを注ぎ込み、錬成陣を描いた。青白い光が立ち上がり、熱風の中に冷たい壁が出現する。
炎は一瞬ひるんだが、すぐに勢いを取り戻した。
「まだ足りない……」
リリアナは歯を食いしばり、さらに錬成を続けた。汗が頬を流れ落ち、呼吸が荒くなっている。
それでも、彼女は止まらなかった。
目の前で苦しむ人々を見て、自分だけが何もしないでいることなどできなかった。
「リリー、危険よ!」
エルミナが叫んだが、リリアナは聞こえていなかった。
意識が朦朧とする中、彼女は仲間たちの顔を、街の人々の笑顔を思い浮かべていた。
そして、その想いが力となって。
***
突然、巨大な氷の壁が立ち上がった。
それは延焼を完全に遮断し、炎の進行を停止させるに十分な規模だった。
消火隊はその隙に集中的な放水を行い、ついに火災を鎮圧することに成功した。
夜が明ける頃、火災は完全に鎮火していた。
しかし、街には深い爪痕が残されていた。
十数軒の家屋が全焼し、多くの人々が住む場所を失った。幸い死者は出なかったものの、怪我人は数十人に上った。
そして、火災の原因が金獅子商会の「太陽石の暖炉」であることは、もはや誰の目にも明らかだった。
***
倒れ込んだリリアナを、ヴォルフが支えていた。
彼女は全てのマナを使い果たし、意識を失いそうになっている。
「よく頑張った」
ヴォルフの声が優しかった。
「お前がいなかったら、もっと被害が広がっていた」
避難所では、被災者たちがリリアナたちに感謝の言葉をかけていた。
「ありがとう、本当にありがとう」
「あなたたちのおかげで、命が助かった」
しかし、リリアナの胸には複雑な思いが渦巻いていた。
確かに今夜は人々を助けることができた。
しかし、そもそもこの火災の原因は、自分の技術を模倣した粗悪品だった。
間接的とはいえ、自分にも責任があるのではないか。
そんな自責の念が、彼女の心を重く押しつぶそうとしていた。
***
一方、錬金術師ギルドの最上階では、マグヌスがこの夜の出来事を冷静に分析していた。
「ついに決定的な事件が起こったな」
フェリクスが恐る恐る報告する。
「はい……金獅子商会の暖炉が原因での大火災。幸い死者は出ませんでしたが……」
「死者が出なかったのは残念だが」
マグヌスの口から、冷酷な言葉が漏れた。
「これで市民の不安は頂点に達するだろう。生活に錬金術を持ち込んだ結果がこの惨事だと」
彼の瞳に、勝利の光が宿っていた。
「明日、市議会に正式な要請を行う。『リリアナ・エルンフェルトの危険な錬金術に関する公聴会』の開催をな」
街が燃えた夜。
それは、リリアナにとって最も暗い夜の始まりでもあった。
しかし、彼女はまだ知らない。
この災いが、彼女と街の人々をより深く結びつけることになるということを。
そして、真の試練は、これからが本番だということを。
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