第22話:見えざる圧力

 錬金術師ギルドの荘厳な執務室に、重苦しい沈黙が漂っていた。マグヌス・フォン・ヴァイスは、古い革張りの椅子に深く腰を下ろし、机の向こうに立つ弟子フェリクスを冷たい視線で見つめている。

「で、あの小娘の件はどうなった」

 マグヌスの声は、凍てつく冬の風のように冷たかった。

「申し訳ありません、マスター。私の計画は……失敗に終わりました」

 フェリクスは頭を深く下げた。先日のリリアナとの対決で、自分の不正が暴かれた屈辱が、まだ胸の奥で燻っている。

「失敗?」

 マグヌスがゆっくりと立ち上がった。その威圧的な姿に、フェリクスの肩が小刻みに震える。

「貴様は、この由緒あるギルドの名誉を汚したのだ。そして今度は、野良犬一匹満足に始末できぬと?」

「しかし、マスター。あの娘の周りには、商人や鍛冶師が……」

「言い訳はよい」

 マグヌスが手を振ると、フェリクスの言葉は途中で途切れた。

「どうやら、この老いぼれが直接手を下さねばならぬようだな」

 その瞳に宿った光は、これまでの軽い苛立ちとは明らかに異質なものだった。深く、暗く、そして恐ろしいほどに冷静な悪意。

 *** 

 翌朝、リリアナは工房で素材の在庫を確認していた。「絆のコンパス」の大量発注に応えるため、いつもより多くの錬金触媒と魔石が必要だった。

「あれ……思ったより少ないですね」

 彼女は首をかしげた。高純度の魔石は残り三個、錬金触媒に至っては一瓶しか残っていない。

「おはよう、リリー! 今日も元気に……あら、どうしたの?」

 エルミナが工房に飛び込んできたが、リリアナの困惑した表情を見て足を止めた。

「素材が足りないんです。いつもお世話になっている問屋さんに注文をお願いしようと思うのですが……」

「それなら任せて! アタシが行ってくるわ」

 エルミナは親指を立てて見せた。彼女の商人としての人脈なら、きっと良い条件で素材を調達してくれるだろう。

 *** 

 しかし、エルミナが戻ってきたのは夕暮れ時。その表情は、朝の明るさとは打って変わって、困惑と怒りに満ちていた。

「信じられない……」

 エルミナは工房の椅子に崩れ込むように座った。

「どうしたんですか?」

 リリアナが心配そうに駆け寄る。

「どの問屋も、素材を売ってくれないのよ。『ギルド認定工房以外への販売は控えるように』って、上からお達しが出てるんですって」

「ギルド認定工房……?」

 リリアナの顔が青ざめた。クローバー工房は、錬金術師ギルドに所属こそしているものの、マグヌスたちから「認定」を受けたことはない。

「そんな……急に、どうして」

「決まってるじゃない! あのマグヌスが仕組んだのよ」

 エルミナの拳がテーブルを叩いた。

「ギルドマスターの権限を使って、リリーの工房を締め上げるつもりなのよ。なんて卑劣な……」

 その時、工房の扉が静かに開いた。現れたのは師匠のテオ。いつものパイプをくわえているが、その表情はいつになく険しかった。

「どうやら、動き出したようだな」

「師匠、ご存知だったんですか?」

「ワシも昔、似たような手を使われたことがある」

 テオは深くため息をついた。

「権力者が本気で潰しにかかった時、個人の力だけでは太刀打ちできぬものだ」

 *** 

 その夜、三人は暗い工房で向き合っていた。テーブルの上には、残り少ない素材がわびしく並んでいる。

「他の問屋を当たってみましょう」

 リリアナが震え声で提案した。

「無駄よ」

 エルミナが首を振る。

「アタシが知る限り、この街で錬金素材を扱う業者は全部回ったの。みんな同じことを言うのよ。『ギルドの方針に逆らえない』って」

「では、他の街から取り寄せることは……」

「それも難しいだろうな」

 テオが静かに答えた。

「錬金術師ギルドの影響力は、リーフェンブルクだけに留まらない。マグヌスが本気なら、近隣の都市にも圧力をかけているはずだ」

 リリアナの膝が、小刻みに震え始めた。これまで彼女が直面してきた困難は、全て自分の努力と仲間の助けで乗り越えることができた。人見知りも、技術不足も、ライバルの妨害も。

 しかし、今回は違う。

 圧倒的な権力の前に、個人の意志など蚊帳の外。どれほど良い製品を作ろうとも、どれほど人々に愛されようとも、素材がなければ何も作ることはできない。

「私のせいです……」

 リリアナの声が震えた。

「私が、ギルドの決まりを無視して、勝手なことをしたから……」

「何を言ってるの!」

 エルミナが立ち上がった。

「リリーは何も悪いことなんてしてないわ。人を幸せにする道具を作って、何が悪いって言うのよ」

「エルミナさんの言う通りだ」

 ヴォルフも拳を握りしめた。

「てめえの都合で街の人間を困らせやがって。あの爺さん、許せねえ」

 仲間たちの励ましは心強かった。しかし、リリアナの心を覆う絶望感は拭い去れなかった。

 これが、「社会の壁」というものなのか。

 個人がどれほど努力しようとも、どれほど正しいことをしようとも、権力者の一存で全てが覆される理不尽。

 初めて味わう、完全な無力感。

 リリアナは俯いたまま、じっと手を見つめていた。震える指先が、これまで数え切れないほどの道具を生み出してきた。しかし今、その手は何も作り出すことができない。

 工房に静寂が流れた。

 暖炉の火だけが、パチパチと音を立てて燃えている。その炎の影が壁に踊り、まるで嘲笑うかのように揺れていた。

 *** 

 同じ頃、錬金術師ギルドの最上階では、マグヌスが執務室の窓から街の灯を見下ろしていた。

「フェリクス」

「はい、マスター」

「明日、市議会に正式な要請書を提出する。『無認可工房による危険な錬金術の野放しについて』という件名でな」

 マグヌスの唇に、薄い笑みが浮かんだ。

「一匹の野良犬を始末するのに、これほど手間をかけるとは思わなかったが……まあよい。徹底的に潰してやろう」

 街の向こうで、クローバー工房の小さな灯りが弱々しく瞬いている。

 マグヌスには、それがもうすぐ消えゆく蝋燭の炎のように見えた。

 権力という名の嵐が、小さな工房を呑み込もうとしていた。

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