第2章:広がる波紋と立ちはだかる壁

第21話:クローバー工房、大忙し

 朝の陽光が工房の窓を照らす頃、リリアナはすでに作業台の前に立っていた。目の前には、昨夜のうちに積み上がった注文書の山。冒険者ギルドからの「絆のコンパス」の大量発注が決まってから、クローバー工房は文字通り息つく暇もない忙しさに包まれていた。

「リリー、おはよう!」

 扉が勢いよく開かれ、赤毛をポニーテールに結んだエルミナが飛び込んできた。両手には分厚い台帳と、湯気を立てる紅茶のカップを持っている。

「あ、エルミナさん、おはようございます」

 リリアナは顔を上げ、小さく頭を下げた。以前なら人が来ただけで緊張で手が震えていただろうが、今は自然な笑顔を浮かべることができる。この変化に、彼女自身も気づいていた。

「相変わらず早いのね。でも無理は禁物よ? 今日も注文が三件追加で入ってるから」

 エルミナは台帳をテーブルに置きながら、心配そうにリリアナを見つめた。

「大丈夫です。むしろ、こんなにたくさんの人が私の道具を必要としてくれているなんて……」

 リリアナの頬がほんのりと赤らむ。師匠テオから教わった「第二の指針」──完成図を心に描くこと──を実践し、彼女は一つ一つの依頼の向こうにいる人々の笑顔を思い浮かべていた。

 *** 

 昼過ぎ、工房の扉を荒々しくノックする音が響いた。

「おい、リリアナ。今日の分の部品、持ってきたぞ」

 現れたのは、いつものように無精髭を生やしたヴォルフだった。彼の手には、精密に加工された金属部品の入った木箱が抱えられている。

「ヴォルフさん、ありがとうございます!」

 リリアナは嬉しそうに駆け寄った。箱の中身を確認すると、その完璧な仕上がりに目を見張る。

「相変わらず、素晴らしい技術ですね」

「フン、当たり前だ。職人舐めんな」

 ヴォルフは照れたように鼻を鳴らしたが、その表情はどこか満足げだった。彼にとって、リリアナの繊細な要求に応えることは、新たな技術への挑戦でもあったのだ。

「ねえ、ヴォルフ」

 エルミナが台帳から顔を上げた。

「アタシたち、正式にパートナーシップを結ばない? これだけ注文が増えたら、あなたの技術は欠かせないわ。利益の分配も、きちんと話し合いましょう」

 ヴォルフは少し驚いたような顔をした。これまで彼は「手伝い」という形で工房に関わってきたが、正式なパートナーとして迎え入れられるとは思っていなかった。

「……いいのか? 俺なんかが」

「何言ってるの」

 リリアナが首を振る。

「私一人では、こんなに多くの依頼をこなすことはできませんでした。エルミナさんの商売の知識と、ヴォルフさんの技術があったからこそです」

 彼女の言葉に、師匠の「第四の指針」──共に豊かになる道を探すこと──の教えが込められていることを、エルミナは敏感に感じ取った。

「決まりね! それじゃあ今夜は、新しいパートナーシップのお祝いをしましょう」

 *** 

 夕暮れ時、三人は工房の奥の小さな居住スペースに集まっていた。テーブルには、近所のパン屋ハンスが差し入れてくれた焼きたてのパンと、宿屋「せせらぎ亭」のクララが持参してくれた温かいシチューが並んでいる。

「クローバー工房の成功を祝って!」

 エルミナが手製のリンゴ酒の入ったカップを掲げた。

「私たちの友情と、これからの未来に乾杯!」

 三人のカップが触れ合い、澄んだ音が響く。

「一人ではできなかった」

 リリアナがしみじみと呟いた。

「最初は、人と話すのも怖くて、注文を受けるだけで手が震えていました。でも、エルミナさんが商売のことを教えてくれて、ヴォルフさんが技術で支えてくれて……」

「お前だからできたんだ」

 ヴォルフがぶっきらぼうに割り込む。

「俺は親父のように、一人でなんでもできる職人じゃねえ。だが、お前の変な道具を作ってると、なんだか新しい可能性が見えてくる。そういうもんだ」

「そうそう! アタシも一人じゃ、こんなに面白いビジネスは思いつかなかったわ」

 エルミナが嬉しそうに笑う。

「リリーの技術と心があって、ヴォルフの職人魂があって、そしてアタシの商才があって……三人が合わさると、一人の時の何倍もの力になるのよね」

 師匠の「第六の指針」──力を合わせ、新たな価値を生むこと──が、まさにここに体現されていた。シナジー。一人ひとりの力が掛け合わされ、想像を超える成果を生み出す奇跡。

 リリアナは温かいシチューを口に運びながら、胸の奥に湧き上がる幸福感に包まれていた。人見知りで引っ込み思案だった自分が、こんなにも素晴らしい仲間に恵まれるなんて。

「ねえ、みんな」

 リリアナが静かに口を開いた。

「これからも、よろしくお願いします」

 その言葉には、以前のような遠慮がちな響きはなかった。仲間として、対等な立場で協力していこうという、確かな意志が込められていた。

「こちらこそ!」

 エルミナとヴォルフが同時に答え、三人は再び笑い合った。

 *** 

 同じ頃、街の中心部にそびえる錬金術師ギルドの建物では、ギルドマスターのマグヌス・フォン・ヴァイスが、執務室の窓から夜の街を見下ろしていた。

「マスター、例の件の報告が」

 弟子のフェリクスが部屋に入ってきた。その手には、街の情勢をまとめた報告書がある。

「クローバー工房の評判は、ますます高まっています。冒険者だけでなく、一般市民からの支持も厚く……」

「野良犬が、我々の庭を荒らしているようだな」

 マグヌスの声は、氷のように冷たかった。彼の顔には、明らかな不快感が浮かんでいる。

「しかし、マスター。彼女の技術は確かに……」

「技術?」

 マグヌスがゆっくりと振り返る。その瞳には、軽蔑の色が宿っていた。

「あのような生活雑貨の製作が、果たして錬金術と呼べるものかね。我々が守り続けてきた学問の威厳を、あの小娘は泥にまみれさせておる」

 彼は机の上に置かれた古い錬金術の教本に手を置いた。それは「理の錬金術」の至高の叡智を記した、由緒ある書物だった。

「秩序を乱す者は、相応の報いを受ける」

 マグヌスの呟きが、静まり返った部屋に響いた。

 その声には、これまでの軽い苛立ちとは明らかに異なる、深い悪意が込められていた。

 *** 

 クローバー工房の温かい灯りと、錬金術師ギルドの冷たい陰謀。二つの光と影が、静かに対比を成していた。

 しかし、三人の絆に支えられた工房の明日は、まだ希望に満ちている。彼らはまだ知らない──自分たちの成功が、どれほど大きな嵐を呼び寄せようとしているのかを。

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