第8話:ライバルの名はフェリクス

 錬金術師ギルドの試験会場は、緊張した空気に包まれていた。

 一週間前の屈辱的な対応の後、エルミナが商人ギルドのコネクションを駆使して、なんとか登録試験の機会を取り付けてくれたのだ。リリアナは、その恩に報いるためにも、絶対に合格しなければならない。

 試験会場となった大きな部屋には、十の作業台が等間隔に並べられている。それぞれの台には、基本的な錬金術具一式と、試験用の材料が用意されていた。

 リリアナは指定された三番の作業台に着席し、深呼吸をした。周りを見回すと、他の受験者たちは皆、自信に満ちた表情をしている。きっと、正式な錬金術師の元で長年修行を積んできた人たちなのだろう。

 その中で、リリアナだけが場違いな存在のように感じられた。

「皆さん、お疲れ様です」

 部屋の前方から、威厳のある声が響いた。

 現れたのは三人の試験官。中央に立つのは、白髭の老人で、その両脇に中年の男性と、そして見覚えのある金髪の青年が控えていた。

 フェリクス。

 あの時の青年が、試験官として参加している。

 リリアナの心臓が激しく鼓動した。一週間前の屈辱が蘇り、手のひらに汗が浮かぶ。

「本日は錬金術師ギルド正会員登録試験にお越しいただき、ありがとうございます」

 中央の老人が述べた。

「私は試験担当のアルベルト。こちらは副担当のハインリヒ、そしてフェリクス・ローレンツです」

 フェリクスの視線が、会場をゆっくりと見回している。そして、リリアナの姿を認めると、口元に冷笑を浮かべた。

 まるで、「やはり来たか」と言わんばかりの表情だった。

 *** 

「それでは、試験内容を説明いたします」

 アルベルトが続けた。

「本日の課題は、『金属純度の向上』です。皆さんの作業台に置かれている銅合金を、可能な限り純度の高い銅に精製してください」

 リリアナは作業台の銅合金を見つめた。くすんだ茶色をしたその金属塊には、明らかに不純物が混入している。

「制限時間は二時間。合格基準は純度八十五パーセント以上です」

 アルベルトの言葉に、リリアナの顔が青ざめた。

 金属の精製は、「理の錬金術」の基礎中の基礎。物質の分子構造を理解し、論理的に不純物を分離する技術だ。

 しかし、これこそがリリアナの最も苦手とする分野だった。

 彼女が得意とするのは、素材の「声」を聞き、感覚的に組み立てる「情の錬金術」。冷徹な論理による分解・再構築は、どうしても肌に合わない。

「それでは、開始してください」

 アルベルトの合図と共に、受験者たちが一斉に作業を始めた。

 リリアナも銅合金を手に取り、その感触を確かめる。しかし、どこから手をつけていいのか分からない。

 隣の受験者は、すでに分析用の薬品を使って不純物の特定に取りかかっている。向かいの女性は、複雑な術式を組み上げて、精密な分離作業を進めていた。

 皆、迷いなく作業を進めている。

 リリアナだけが、途方に暮れていた。

「どうしました、リリアナ・エルンフェルト」

 突然、耳元で声がした。

 振り返ると、フェリクスが立っていた。試験官として巡回しているのだが、その表情には明らかな嘲笑が浮かんでいる。

「あ……はい」

 リリアナは慌てた。

「まだ、分析が……」

「分析ですか」

 フェリクスは鼻で笑った。

「基礎中の基礎である金属精製に、分析が必要なのですか?」

 その皮肉めいた言葉に、リリアナは縮こまった。

「すみません……」

「謝る必要はありません」

 フェリクスは冷たく言った。

「ただ、これが錬金術師に求められる最低限の技術だということを、理解していただければ」

 彼は他の受験者の作業を指差した。

「ご覧なさい。皆さん、論理的な手順で着実に進んでいます。それが『理の錬金術』の正しい姿です」

 リリアナは他の受験者たちを見た。確かに、皆が同じような手順で、効率的に作業を進めている。

「一方で」

 フェリクスは続けた。

「感覚に頼った曖昧な手法では、このような精密な作業は不可能です」

 その言葉は、明らかにリリアナの錬金術を否定していた。

 *** 

 フェリクスが去った後、リリアナは一人で苦闘していた。

 教科書通りの手順を試してみるが、どうしてもうまくいかない。不純物を除去しようとすると、銅そのものまで損なってしまう。

 時間だけが無情に過ぎていく。

 一時間が経過した時点で、他の受験者たちは既に目に見える成果を上げていた。銅合金は美しい赤みを帯び始め、明らかに純度が向上している。

 しかし、リリアナの銅合金は、相変わらずくすんだままだった。

「このままでは……」

 焦りが心を支配する。このまま失敗すれば、エルミナに申し訳が立たない。そして何より、師匠テオの名前に泥を塗ることになってしまう。

 その時、テオの言葉が蘇った。

『パン窯の時のように、金属が喜ぶ顔を想像してみたら?』

 昨夜、試験のことを相談した時に、師匠がそう言ってくれたのだ。

「金属が……喜ぶ顔?」

 リリアナは銅合金を見つめた。

 最初は意味が分からなかった。金属に顔があるわけではない。喜ぶわけでもない。

 しかし、ふと気づいた。

 この銅は、不純物に苦しんでいるのではないか。本来の美しい姿になりたがっているのではないか。

 リリアナは、論理的な分析を忘れた。代わりに、銅の「声」に耳を澄ませてみる。

 すると、微かに感じられた。銅が訴えかけてくる声が。

『助けて』

『本当の姿に戻りたい』

『この重い不純物を取り除いて』

 リリアナの心に、銅の願いが響いてきた。

 彼女は手のひらを銅合金に当て、優しくマナを注ぎ込んだ。不純物を無理やり剥ぎ取るのではなく、銅自身が望む形に戻れるよう、そっと支援するように。

 すると、不思議なことが起こった。

 銅合金が、自然に分離を始めたのだ。不純物がまるで溶けるように剥がれ落ち、内側から美しい赤銅色が現れてくる。

 論理的な手順ではない。教科書にも載っていない方法だった。

 しかし、確実に純度が上がっている。

 *** 

「何ということだ……」

 フェリクスが、リリアナの作業台の前で立ち尽くしていた。

 彼の目の前で、銅合金が見る見るうちに美しい純銅に変わっていく。その輝きは、他のどの受験者の作品よりも美しかった。

「どのような術式を使っているのですか?」

 フェリクスは困惑していた。

 リリアナの手元には、複雑な魔法陣もなければ、分析用の薬品もない。ただ、手のひらを金属に当てて、静かにマナを注いでいるだけだった。

「術式は……使っていません」

 リリアナは集中したまま答えた。

「ただ、銅の声を聞いているだけです」

「銅の声?」

 フェリクスは眉をひそめた。

「そのような非科学的な手法が、錬金術と言えるのですか?」

「分かりません」

 リリアナは正直に答えた。

「でも、銅が喜んでいるのは感じられます」

 その瞬間、銅の精製が完了した。

 作業台の上には、見事な輝きを放つ純銅が置かれている。その純度は、明らかに合格基準を上回っていた。

 会場がざわめいた。他の受験者たちも、リリアナの作品に目を奪われている。

「測定を行います」

 アルベルトが駆け寄ってきた。

 精密な測定器での結果は、純度九十一パーセント。合格基準を大幅に上回る結果だった。

「素晴らしい」

 アルベルトは感嘆の声を上げた。

「このような手法は初めて見ました」

 しかし、フェリクスの表情は険しいままだった。

「まぐれです」

 彼は冷たく言い放った。

「あのような我流では、すぐに限界が来るでしょう」

 リリアナは振り返った。フェリクスの瞳には、明らかな敵意が宿っている。

「理論に基づかない錬金術など、錬金術ではありません」

「しかし、結果が……」

「結果だけが全てではない」

 フェリクスは断言した。

「正しい理論、正しい手順こそが、錬金術師の矜持です」

 その時、会場の扉が開いた。

 現れたのは、威厳に満ちた老人だった。白い髭を豊かに蓄え、高級な錬金術師の正装に身を包んでいる。その存在感は圧倒的で、会場の空気が一変した。

「師匠」

 フェリクスが深々と頭を下げた。

「マグヌス・フォン・ヴァイス様」

 ギルドマスター。リーフェンブルクの錬金術師ギルドを統べる最高責任者が、なぜか試験会場に現れたのだ。

 マグヌスの鋭い視線が、リリアナの作品を見つめている。そして、彼女自身をじっと観察した。

「なるほど」

 マグヌスは低い声で呟いた。

「これが、テオ・グライフの弟子か」

 その瞬間、リリアナは理解した。

 この試験は、単なる登録試験ではない。自分を試すため、あるいは師匠テオに関連した何かのために、仕組まれたものなのかもしれない。

 マグヌスとフェリクス。師弟のその表情には、共通した冷たさがあった。

 *** 

「合格です」

 アルベルトが宣言した。

「リリアナ・エルンフェルト、錬金術師ギルド正会員として登録いたします」

 会場に拍手が響いた。しかし、リリアナには素直に喜べない重い空気が漂っていた。

 マグヌスは何も言わずに会場を去っていく。フェリクスも、最後に一度だけリリアナを見つめてから、師匠の後を追った。

 その視線には、明確な挑戦の意志が込められていた。

「やったじゃない!」

 試験終了後、エルミナが駆け寄ってきた。

「見事な合格よ!」

「ありがとうございます……」

 リリアナの返事は、どこか上の空だった。

 確かに合格はした。しかし、同時に新たな敵を作ってしまったような気がする。

 フェリクス・ローレンツ。

 理の錬金術を信奉し、情の錬金術を否定する彼は、これからリリアナにとって大きな障壁となるだろう。

 そして、その背後には、さらに巨大な影がちらついていた。

 ギルドマスター、マグヌス・フォン・ヴァイス。

 師匠テオとどのような因縁があるのかは分からないが、決して友好的な関係ではなさそうだった。

 合格の喜びと共に、リリアナの心には新たな不安が芽生えていた。

 錬金術師としての道は、思っていたよりもずっと険しいものになりそうだった。

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