第7話:錬金術師ギルドの高い壁

 リーフェンブルクの商業地区の中心に、その建物は威厳を誇って聳え立っていた。

 錬金術師ギルド本部。

 白い大理石で築かれた三階建ての建物は、古典的な円柱と精緻な彫刻で装飾され、まるで神殿のような荘厳さを放っている。正面には巨大な扉があり、その上には錬金術の象徴である「賢者の石」を模した紋章が金色に輝いていた。

 リリアナは、その建物を見上げて立ち尽くしていた。

「すごい……立派な建物ですね」

 彼女の声は、緊張で震えている。故郷の小さな村では、想像もできないような規模の建築物だった。

「確かに立派ね」

 隣に立つエルミナは、建物よりもリリアナの様子が気になっていた。

「でも、建物が立派だからって、中にいる人まで立派とは限らないわよ」

「そんなこと言ったら……」

「大丈夫よ」

 エルミナは力強く言った。

「あなたの技術は本物なんだから、堂々としてなさい」

 リリアナは深呼吸をした。師匠の第一の指針を思い出す。自らの意志で選択する。ここに来ることを決めたのは、自分だ。

「行きましょう」

 二人は、重厚な扉を押し開けた。

 *** 

 ギルドの内部は、外観以上に圧倒的だった。

 高い天井には、錬金術の歴史を描いた壮大なフレスコ画が描かれている。床には複雑な魔法陣が象嵌細工で施され、壁際には歴代の偉大な錬金術師たちの肖像画がずらりと並んでいた。

 そして何より、建物全体に漂う重厚な雰囲気が、訪れる者を圧倒する。まるで、「ここは選ばれた者だけが足を踏み入れることを許される聖域である」と宣言しているかのようだった。

 受付カウンターの向こうには、一人の中年女性が座っていた。

 ヘルガ。

 髪をきっちりと後ろで束ね、鋭い眼鏡をかけた彼女の表情は、常に不機嫌そうに見える。手元の書類に視線を落としたまま、来訪者を一瞥すらしない。

「あの……」

 リリアナが恐る恐る声をかけた。

「錬金術師としての登録について、お伺いしたいのですが……」

 ヘルガは顔も上げずに答えた。

「登録申請は、正式な師匠からの推薦状が必要です。どちらの工房の所属でいらっしゃいますか?」

「テオ・グライフ工房の……」

 その瞬間、ヘルガの手が止まった。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、リリアナを見据えた。その表情には、明らかな嫌悪感が浮かんでいる。

「テオ・グライフ、ですって?」

「はい……」

 リリアナは戸惑った。まるで、禁句を口にしてしまったような反応だった。

「あの男の弟子……」

 ヘルガは忌々しそうに呟いた。

「で、どのような錬金術をお学びで?」

「生活に役立つ魔道具を……」

「魔道具?」

 ヘルガの眉がさらに険しくなった。

「錬金術とは、物質の根源的な法則を解明し、世界の真理に迫る崇高な学問です。『生活に役立つ』などという俗な用途のために学ぶものではありません」

 その冷たい言葉に、リリアナは言い返すことができなかった。

「それに」

 ヘルガは続けた。

「テオ・グライフという男は、かつて王都の錬金術師ギルドを混乱させ、職を捨てて逃げ出した男です。そのような人物に師事した者が、正式な錬金術師として認められると思っているのですか?」

 リリアナの顔が青ざめた。師匠のテオが、そんな過去を持っているなんて……

「ちょっと待ちなさい」

 その時、エルミナが割って入った。

「あなた、今とんでもないことを言ったわよね」

「私は事実を述べただけです」

 ヘルガは冷然と答えた。

「商人風情が、口を挟む問題ではありません」

「商人風情ですって?」

 エルミナの目が鋭く光った。

「いいわ、それなら商人として言わせてもらうわ。この街で今、一番話題になってる魔道具が何か知ってる?」

「知りません。興味もありません」

「パン屋のハンスさんところの温度調整器よ」

 エルミナは胸を張った。

「それを作ったのが、この人よ。たった一つの魔道具で、ハンスさんの人生を変えたの」

「低俗な細工に過ぎません」

 ヘルガは鼻で笑った。

「真の錬金術とは、そのような小手先の技術ではありません」

「小手先ですって?」

 エルミナの声が大きくなった。

「人を幸せにすることの、どこが小手先なのよ!」

 受付カウンター越しの口論に、ギルド内の空気が緊張した。他の職員たちも、事態を見守っている。

「落ち着きなさい」

 ヘルガは氷のような声で言った。

「このような騒ぎを起こすような方々に、ギルドの門戸を開くわけにはいきません」

 彼女は書類の束を取り出した。

「登録申請は受け付けられません。お引き取りください」

 *** 

 リリアナは完全に萎縮してしまった。

 ヘルガの威圧的な態度と、師匠テオに対する中傷に、どう反応していいか分からない。

「すみません、騒がせてしまって……」

 彼女は小さな声で謝った。

「引き返します……」

「ちょっと、リリアナ!」

 エルミナは驚いた。

「何で謝るのよ! 悪いのは向こうでしょう」

「でも……」

 リリアナは困惑していた。相手は権威ある錬金術師ギルドの職員。自分のような駆け出しが逆らっていいものではない。

 その時、ギルドの奥から足音が聞こえてきた。

 現れたのは、エリート然とした青年だった。金髪を整然と整え、高価な錬金術師の正装に身を包んでいる。年齢はリリアナよりも少し上で、自信に満ちた表情をしていた。

「どうしました、ヘルガさん」

 青年は受付に近づいてきた。

「何やら騒がしいようですが」

「フェリクス様」

 ヘルガの態度が一変した。

「申し訳ございません。不適格な申請者が参りまして……」

 フェリクス。この青年が、ギルドマスター・マグヌスの弟子だということを、リリアナはまだ知らない。

「不適格、ですか」

 フェリクスはリリアナたちを見回した。その視線は、品定めをするように冷たい。

「どのような不適格でしょうか?」

「テオ・グライフの弟子だそうです」

 ヘルガの言葉に、フェリクスの表情が変わった。

「ああ、あの……」

 彼は嘲るような笑みを浮かべた。

「落ちぶれた老人の弟子ですか。それは確かに、問題がありますね」

 その侮蔑的な態度に、エルミナの怒りが再び燃え上がった。

「何ですって! テオ・グライフさんがどれほど偉大な錬金術師か、あなたたちは知らないの?」

「偉大?」

 フェリクスは笑った。

「彼はただの逃亡者です。責任を放棄して、田舎に隠れ住んでいる卑怯者に過ぎません」

「そんな……」

 リリアナは震え声で言った。

「師匠は、そんな人じゃありません……」

「では、なぜ彼は王都から逃げ出したのでしょうね?」

 フェリクスの問いかけに、リリアナは答えることができなかった。師匠の過去について、詳しく聞いたことがなかったのだ。

「答えられませんか」

 フェリクスは満足そうに頷いた。

「それが答えです。あなたは、自分の師匠がどのような人物かさえ知らずに、弟子を名乗っているのです」

 その言葉が、リリアナの心に深く突き刺さった。

 確かに、テオの過去については何も知らない。なぜ王都を離れ、なぜこの街で小さな工房を営んでいるのか。

 もしかすると、本当に何か後ろ暗いことがあるのかもしれない。

「リリアナ!」

 エルミナが彼女の肩を揺さぶった。

「そんな顔しないで! あなたは何も悪くないのよ」

 しかし、リリアナの心はすでに折れかけていた。

「帰りましょう……」

 彼女は力なく呟いた。

「私には、無理だったんです……」

 *** 

 ギルドを出た二人は、しばらく無言で歩いていた。

 リリアナは下を向いたまま、とぼとぼと足を進めている。エルミナは、そんな彼女を心配そうに見つめていた。

「リリアナ……」

「エルミナさん」

 リリアナは立ち止まった。

「私、師匠のことを何も知りませんでした」

「それが何だっていうの?」

「もしかしたら、あの人たちの言う通りなのかもしれません」

 リリアナの声は震えていた。

「師匠は、本当は何か悪いことをして、王都から逃げてきたのかもしれません」

「ばかなこと言わないで」

 エルミナは強い口調で言った。

「テオさんがどんな人か、あなたが一番よく知ってるでしょう?」

「でも……」

「でもじゃないわよ」

 エルミナはリリアナの両肩を掴んだ。

「テオさんは、あなたに錬金術を教えてくれた。それも、人を幸せにするための錬金術を」

 彼女の瞳は真剣だった。

「そんな人が、悪い人なわけないじゃない」

 リリアナは涙ぐみながら言った。

「でも、あの人たちは錬金術師ギルドの人で……」

「だから何よ」

 エルミナは毅然と答えた。

「権威があるからって、その人たちが正しいとは限らない。あなたの目で見て、あなたの心で感じたことを信じなさい」

 その言葉に、リリアナの心が少し温かくなった。

「でも、これでもう登録は……」

「諦めるの?」

 エルミナは挑戦的に尋ねた。

「一度断られたくらいで?」

 リリアナは考えた。確かに、今回は失敗だった。でも、それで終わりにするのか。

 ハンスとミーナの笑顔。ヴォルフの不器用な優しさ。そして、師匠テオの温かい教え。

 これらすべてが、嘘だったということなのか。

「いえ」

 リリアナは顔を上げた。

「諦めません」

「その調子よ」

 エルミナは嬉しそうに微笑んだ。

「あたしたちには、確かな実績があるんだから」

 二人は再び歩き始めた。今度は、うつむくことなく、まっすぐ前を向いて。

 錬金術師ギルドという高い壁に阻まれたが、これで終わりではない。

 道はまだ、始まったばかりなのだから。

 *** 

 ギルドの建物の陰から、フェリクスがその様子を見つめていた。

 彼の口元には、冷笑が浮かんでいる。

「テオ・グライフの弟子か……」

 彼は呟いた。

「面白いことになりそうだ」

 フェリクスは建物に戻っていく。その表情には、何か企みを考えているような光が宿っていた。

 一方、リリアナとエルミナは工房への道を歩き続けている。

 今日の屈辱を乗り越えて、新たな挑戦に向かうために。

 夕日が二人の影を長く伸ばしていた。明日への希望を胸に抱いて、彼女たちの歩みは続いていく。

 錬金術師ギルドの壁は高かった。しかし、それを乗り越える方法は、必ずあるはずだ。

 リリアナの戦いは、これからが本番だった。

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