第6話:赤毛の商人と第二の指針

 リーフェンブルクの朝市は、いつになく賑わっていた。

 商人たちの威勢の良い声が響き、荷馬車が石畳を軋ませながら往来する。セレナ川沿いの港には、各地から物資を運んできた商船が停泊し、街全体が活気に満ちていた。

 そんな喧騒の中、一際目を引く赤毛の少女が、軽やかな足取りで職人地区に向かっていた。

 エルミナ・ヴァルメル。二十歳の新進気鋭の商人である。

 赤毛をポニーテールにまとめ、動きやすい商人服に身を包んだ彼女は、常に新しい商機を探し求めていた。今日もまた、興味深い噂を聞きつけて、この足でやって来たのだ。

「パン屋のハンスさんところで、とんでもなく美味しいパンが焼けるようになったって話だけど……」

 エルミナは小さく呟きながら、情報収集で得た話を頭の中で整理していた。

「温度調整の魔道具を、隣の錬金術師の娘が作ったらしいのよね。これは面白そうじゃない」

 商人の血が騒いでいた。魔道具による品質向上。それは、新たな市場の可能性を示唆している。

 エルミナの足は、自然とテオ・グライフ工房に向かっていた。

 *** 

 工房の扉をノックする音が響いた。

 リリアナは錬金術の本から顔を上げ、テオと顔を見合わせた。昨日の温度調整器が成功してから、なんだか街の人々の視線が気になるようになっていた。

「誰でしょうか……」

「出てみればよい」

 テオは微笑んだ。

「きっと、君の仕事に興味を持った方じゃろう」

 リリアナは恐る恐る扉を開けた。

 そこに立っていたのは、見たことのない赤毛の少女だった。快活そうな笑顔を浮かべ、まっすぐにリリアナを見つめている。

「こんにちは! あなたがリリアナさんよね?」

 突然の馴れ馴れしい口調に、リリアナは面食らった。

「え……あの……はい、そうですが……」

「あたし、エルミナ・ヴァルメル! 商人をやってるの」

 エルミナは片手を腰に当て、自信満々に自己紹介した。

「あなたの作った温度調整器の話、街中で評判になってるのよ!」

「街中で……ですか?」

 リリアナは驚いた。たった一つの魔道具が、そんなに話題になっているなんて。

「そうよ! ハンスさんのパン、今朝食べてみたけど、今までとは比べ物にならないくらい美味しかったわ」

 エルミナの瞳が輝いている。

「で、あたし思ったのよね。あなたの技術、他の職人さんたちにも広められるんじゃないかって」

「他の……職人さんですか?」

 リリアナは戸惑った。エルミナの勢いに圧倒されて、話についていけない。

「そうよ! パン屋だけじゃなくて、肉屋さんの燻製窯、陶芸家さんの窯、鍛冶屋さんの炉……温度管理に困ってる職人さんなんて、街にいくらでもいるじゃない」

 エルミナは興奮気味に続けた。

「あなたの道具があれば、皆もっと良い仕事ができるようになる。つまり、もっと多くの人を幸せにできるってことよ!」

 その言葉に、リリアナの心が揺れた。確かに、自分の技術でもっと多くの人を助けられるなら……

 しかし、次の瞬間、不安が襲ってきた。

「でも、私はまだ駆け出しで……」

「駆け出しでも、結果が全てよ!」

 エルミナはぐいぐいと迫ってくる。

「ハンスさんの笑顔を見れば、あなたの技術が本物だってことは明らかじゃない」

 リリアナは後ずさりした。エルミナの積極性に、完全に気圧されてしまったのだ。

「あの……でも……」

 その時、テオが奥から現れた。

「客人をお迎えするのじゃ、リリアナちゃん」

「あ、はい……どうぞ、中にお入りください」

 リリアナは慌ててエルミナを工房に招き入れた。

 *** 

「立派な工房ですね」

 エルミナは工房を見回しながら感嘆の声を上げた。

「これがテオ・グライフさんの工房なのね。噂では聞いてたけど、本当に素晴らしい」

「ありがとうございます」

 テオは穏やかに応じた。

「それで、リリアナの魔道具に興味を持ってくださったとか」

「はい! あたし、商人として色んな職人さんと取引してるんですけど、皆さん品質管理で苦労されてるんですよ」

 エルミナは身を乗り出した。

「特に温度管理は職人の腕の見せ所だけど、同時に一番難しい部分でもある。それを魔道具で解決できるなら、革命的だと思うんです」

 その言葉に、リリアナも興味を示した。

「革命的……ですか?」

「そうよ! 考えてみて。今まで一人前になるのに何年もかかっていた温度管理が、魔道具があれば誰でもできるようになる」

 エルミナの説明は情熱的だった。

「新米の職人さんでも、ベテランと同じ品質の作品が作れる。失敗による材料の無駄もなくなる。結果として、より多くの人が良質な商品を手に入れられる」

 リリアナの目が輝き始めた。自分の技術が、そんなに大きな影響を与えることができるなんて。

「でも」

 彼女は不安そうに付け加えた。

「私一人では、そんなにたくさんの魔道具は作れません」

「それよ!」

 エルミナは手を叩いた。

「だから、あたしと組まない? あたしが営業と販路開拓を担当して、あなたは技術開発に専念する。完璧な分業じゃない」

 リリアナは戸惑った。エルミナの提案は魅力的だが、決断するには大きすぎる話だった。

「少し、考えさせてください……」

「もちろんよ」

 エルミナは理解を示した。

「大事な決断だものね」

 その時、テオが口を開いた。

「エルミナさん、一つ質問してもよろしいかな」

「はい、何でしょう?」

「君は、リリアナの魔道具が世に広まった時の光景を、どのように想像しているのかね?」

 突然の質問に、エルミナは少し考え込んだ。

「そうですね……街中の職人さんたちが、皆いい仕事ができるようになって、お客さんも喜んで……」

「ふむ」

 テオは頷いた。

「では、リリアナちゃん。君はどう思うかね?」

「私……ですか?」

 リリアナは困惑した。エルミナの話を聞いていて、確かに素晴らしいことだと思った。でも、具体的にどうなるのか、実はよく想像できていなかった。

「正直に言うと……よく分からないです」

「そうじゃろうな」

 テオは優しく微笑んだ。

「では、これを第二の指針として教えよう」

 工房に静寂が訪れた。エルミナも、リリアナも、師匠の言葉に耳を傾けている。

「完成図を心に描く」

 テオは窓の外を見やった。

「魔道具を作る前に、それが誰を、どのように幸せにするのか、その最終的な光景を鮮明に思い描くことじゃ」

 *** 

「技術者は、ともすれば技術そのものに夢中になってしまう」

 テオは穏やかに説明を続けた。

「より高性能な魔道具を作ること、より複雑な術式を組み上げることに喜びを感じる。それ自体は悪いことではない」

 リリアナは真剣に聞いていた。

「しかし、本当に大切なのは、その技術が最終的に誰の、どんな笑顔を生み出すかということじゃ」

「最終的な笑顔……」

「そうじゃ」

 テオは頷いた。

「ハンスさんの温度調整器を作る時、君は何を思い描いていたかね?」

「ハンスさんが……焦げたパンを心配しなくて済む笑顔です」

 リリアナは迷わず答えた。

「そして、ミーナさんが、お父さんを心配しなくて済む安心した表情です」

「そうじゃ。それが、君の完成図だった」

 テオはエルミナの方を向いた。

「エルミナさんの提案は素晴らしい。しかし、リリアナちゃんが本当に取り組むべきは、技術の拡散ではなく、一つ一つの笑顔を大切にすることじゃ」

 エルミナは考え深げな表情になった。

「つまり……量より質ということですか?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」

 テオは微笑んだ。

「大切なのは、君たちが何のために働くかを、常に明確にしておくことじゃ」

 リリアナは深く頷いた。師匠の言葉が、心の奥底に響いている。

「私、分かりました」

 彼女はエルミナを見つめた。

「あなたと一緒に働きたいです。でも、一つだけお約束してください」

「何かしら?」

「私たちが作る魔道具を手にした人、一人一人の笑顔を、私たちが責任を持って見届ける」

 エルミナの目が、興味深そうに輝いた。

「面白いわね。普通、商売って数字で考えるものだけど……」

「でも、それじゃダメなんです」

 リリアナの声には、確信があった。

「一人一人の顔が見えないような仕事は、きっと本当の意味で人を幸せにはできません」

 エルミナは暫く考えていた。そして、にっこりと笑った。

「分かった! あなたのやり方で行きましょう」

 彼女はリリアナに手を差し出した。

「エルミナ・ヴァルメル、改めてよろしくお願いします」

「リリアナ・エルンフェルト」

 リリアナも手を差し出した。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 二人の手が重なった瞬間、新たなパートナーシップが生まれた。

 *** 

 夕暮れ時、エルミナが帰った後の工房で、リリアナとテオは今日の出来事を振り返っていた。

「どうじゃ、第二の指針は理解できたかね?」

「はい」

 リリアナは頷いた。

「魔道具を作る時は、その技術的な完成だけでなく、それが誰をどのように幸せにするかまで、最初からしっかりと思い描く」

「そうじゃ」

 テオは満足そうだった。

「エルミナさんのような優秀なパートナーを得たことで、君の魔道具はより多くの人に届くじゃろう。しかし、決して一人一人の顔を忘れてはならん」

 リリアナは窓の外を見つめた。パン屋の窓からは、今日も美味しそうな匂いが漂っている。

「師匠、エルミナさんは……正式な商人として活動するには、ギルドに登録する必要があるって言ってました」

「ほう」

「私も、錬金術師として正式に認められる必要があるって」

 テオの表情が、わずかに曇った。

「錬金術師ギルドか……」

「何か、問題でもあるのですか?」

「いや、問題はない」

 テオは苦笑いを浮かべた。

「ただ、あそこの連中は少々……堅物でな」

 彼は昔を思い出すような遠い目をした。

「まあ、君なら大丈夫じゃろう。明日、エルミナさんと一緒に行ってみるとよい」

 リリアナは頷いた。

「分かりました」

 錬金術師ギルド。正式な職人としての第一歩。

 リリアナの心は、期待と不安で複雑に揺れていた。しかし、今の彼女には、確かな目標があった。

 一人でも多くの人を笑顔にする。そのための、次なるステップを踏み出そう。

 夜が更けゆく工房で、リリアナは明日への決意を新たにしていた。

 エルミナという心強いパートナーを得て、そして師匠の第二の指針を胸に刻んで。

 彼女の錬金術師としての道は、着実に前に進んでいた。

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