第5話:小さな奇跡の灯るとき

 テオ・グライフの工房に、静寂が降りていた。

 リリアナは作業台の前に座り、ヴォルフが作ってくれた精巧な金属部品を見つめている。その隣には、温度感知用の魔石、マナを通すための銀線、そして錬成に必要な触媒が整然と並べられていた。

 初めての魔道具作り。理論では理解していても、実際に手を動かすとなると、緊張で指先が震える。

「落ち着くのじゃ、リリアナちゃん」

 テオが優しく声をかけた。

「錬金術は、術者の心の状態が直接反映される。不安や恐れは、マナの流れを乱してしまう」

「はい……」

 リリアナは深呼吸をした。しかし、心臓の鼓動は早いままだ。

 ハンスとミーナの期待。ヴォルフが作ってくれた完璧な部品。そして、錬金術で人を笑顔にしたいという自分の夢。すべてが、この瞬間にかかっている。

「始めます」

 リリアナは手のひらに小さな魔石を乗せた。淡い青色をしたその石は、温度の変化に反応してマナを放出する特性を持っている。

 彼女は精神を集中し、自分のマナを魔石に注ぎ込み始めた。

 すると、魔石がほのかに光り始める。成功の兆しだった。

 次に、金属部品との結合。ヴォルフが作った精密な枠に、魔石を慎重に固定していく。マナの回路が形成され、装置全体に生命が宿り始める。

 順調だった。

 しかし、最後の工程で、リリアナの集中が途切れた。

 もしも失敗したら。もしもハンスの期待を裏切ったら。

 一瞬の迷いが、マナの流れを乱した。

 パチン。

 魔石にひびが入り、光が消えた。

「あ……」

 リリアナの顔が青ざめる。貴重な魔石を、一瞬の気の迷いで台無しにしてしまった。

「すみません、師匠……私、失敗を……」

「気にすることはない」

 テオは穏やかに言った。

「失敗は学びの機会じゃ。何が悪かったと思うかね?」

「集中が……途切れました」

 リリアナは俯いた。

「最後の瞬間に、不安になって……」

「そうじゃな」

 テオは新しい魔石を取り出した。

「ところで、リリアナちゃん。君は今、何を考えていたのかね?」

「失敗することを……」

「そうではない」

 テオは首を振った。

「君は『失敗』を考えていた。しかし、錬金術師が考えるべきは『成功』の方じゃ」

 リリアナは顔を上げた。

「成功……ですか?」

「この道具を完成させて、ハンスさんが喜ぶ顔を思い浮かべてみなさい」

 テオの言葉に、リリアナの心に暖かいものが広がった。

 ハンスが、もう焦げたパンの心配をしなくて済む笑顔。ミーナが、疲れた父親を心配しなくて済む安堵の表情。そして、美味しいパンを求める街の人々の嬉しそうな顔。

「見えるかね?」

「はい……」

 リリアナの瞳に、希望の光が宿った。

「見えます。皆さんの笑顔が」

「それじゃ」

 テオは微笑んだ。

「その笑顔のために、もう一度挑戦してみるのじゃ」

 *** 

 二度目の錬成は、最初とは全く違っていた。

 リリアナの心に迷いはない。ただ、ハンスとミーナの笑顔だけを思い浮かべながら、丁寧にマナを注いでいく。

 魔石が輝く。金属部品と結合し、回路が形成される。そして最後の工程。

 今度は、集中が途切れることはなかった。

 完成した温度調整器は、小さな宝石のような美しい光を放っていた。穏やかで暖かな光。それは、まさに「情の錬金術」の象徴のようだった。

「素晴らしい」

 テオが感嘆の声を上げた。

「見事な出来栄えじゃ。これなら、きっとハンスさんも喜んでくれるじゃろう」

 リリアナは完成した魔道具を手に取った。小さいが、確かな重量感がある。そして、触れているだけで、その優しい機能が伝わってくるようだった。

「行きましょう、師匠」

 リリアナの声には、自信が満ちていた。

「ハンスさんとミーナさんに、お渡ししてきます」

 *** 

 パン屋の扉を開けると、香ばしい小麦の匂いが迎えてくれた。

 しかし、店の奥からは相変わらずハンスの苛立った声が聞こえている。

「また焦がした……今日は朝から調子が悪い……」

「お疲れ様です」

 リリアナが声をかけると、ミーナが顔を出した。

「あ、リリアナさん! お疲れ様です」

 彼女の表情は明るいが、やはり心配の色が隠せない。

「お父さん、リリアナさんがいらしてますよ」

「ああ、すまない……」

 ハンスが現れた。やつれた顔には、疲労が色濃く刻まれている。

「温度調整の件、どうなったかな? まあ、無理だったとしても……」

「できました」

 リリアナは温度調整器を差し出した。

「温度調整器です。これをパン窯に取り付ければ、自動で最適な温度を保ってくれるはずです」

 ハンスとミーナは、目を見張った。

「本当に……できたのですか?」

「はい」

 リリアナは微笑んだ。

「早速、取り付けてみましょう」

 三人でパン窯の前に向かう。リリアナは慎重に調整器を窯の適切な位置に設置し、起動させた。

 すると、調整器が柔らかな光を放ち始める。

 しばらくして、窯の中の炎が安定した。一定の温度を保ち、もう激しく上下することはない。

「これは……」

 ハンスは息を呑んだ。

「本当に、温度が安定している……」

 彼は急いでパンの生地を窯に入れた。そして、緊張しながら焼き上がりを待つ。

 やがて、窯からは今まで嗅いだことのないような、完璧な香りが漂ってきた。

 焼き上がったパンは、見事な黄金色をしていた。焦げも生焼けもない、完璧な仕上がり。

「信じられない……」

 ハンスの目に、涙が浮かんだ。

「こんなに美味しそうなパンが焼けるなんて……」

 ミーナも手を叩いて喜んでいる。

「お父さん、良かったね! これでもう、焦がす心配はないのね」

 ハンスはリリアナの手を握った。

「ありがとう、本当にありがとう。君のおかげで、私は救われた」

 その言葉と、心からの笑顔に、リリアナの胸は熱くなった。

 錬金術で人を笑顔にする。

 夢見ていたことが、現実になった瞬間だった。

 *** 

 その日の夕方、リリアナとテオは工房でお茶を飲んでいた。

「どうじゃった、初めての依頼の感想は?」

 テオが尋ねた。

「最高でした」

 リリアナは輝く瞳で答えた。

「ハンスさんとミーナさんの笑顔を見た時、私、心の底から嬉しくなりました。これが、錬金術の本当の喜びなんですね」

「そうじゃ」

 テオは満足そうに頷いた。

「技術や知識は、それ自体が目的ではない。それを使って、誰かの笑顔を作ること。それこそが、情の錬金術の真髄じゃ」

 リリアナは完成した調整器の設計図を見つめた。小さな魔道具だが、それが生み出した価値は計り知れない。

「師匠、私……」

「うん?」

「もっと多くの人を笑顔にしたいです。この街の人々が、皆もっと幸せになれるような、そんな魔道具を作りたいです」

 テオの目が、優しく細められた。

「その気持ちを、大切にするのじゃ、リリアナちゃん。それが、君の錬金術の原点になる」

 工房の外では、ハンスのパン屋から香ばしい匂いが漂い続けている。そして、その匂いにつられて、いつもより多くの客がパン屋を訪れているようだった。

 街の人々が、ハンスの完璧なパンに舌鼓を打っている。

 それは、リリアナの錬金術が生み出した、小さいけれど確かな奇跡だった。

 *** 

 夜も更けた頃、リリアナは一人で窓辺に立っていた。

 街の灯りがぽつりぽつりと点っている。パン屋の窓からも、まだ暖かな光が漏れていた。きっとハンスは、明日の準備を楽々とこなしているのだろう。

 リリアナの胸に、深い満足感が広がっていた。

 今日という日は、彼女にとって忘れられない一日になった。初めて、本当の錬金術の意味を知った日。初めて、自分の技術で人を助けることができた日。

 そして、錬金術師としての第一歩を、確かに踏み出した日。

 工房の奥からは、テオが何かの資料を整理する音が聞こえてくる。その穏やかな音に包まれながら、リリアナは明日への希望を胸に抱いていた。

 きっと、もっと多くの人を笑顔にできる。もっと多くの奇跡を起こせる。

 小さな魔道具が灯した光は、リリアナの心に大きな希望の炎を燃やしていた。

 翌日、街の人々の間で、ハンスのパンの美味しさが話題になっているという噂が、そっと広がり始めていた。

 そして、その美味しさの秘密を作った若い錬金術師の名前も、少しずつ囁かれるようになっていく。

 リリアナ・エルンフェルト。

 街角に住む、小さな奇跡の錬金術師として。

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