第9話:工房クローバー、開店
リーフェンブルクの職人地区に、新しい看板が掲げられた。
「クローバー工房 ~暮らしに寄り添う魔道具~」
エルミナが用意してくれた美しい看板は、淡い緑色に金文字で工房名が刻まれ、その下に小さなクローバーの意匠が施されている。朝日を受けて、その文字が優しく輝いていた。
「素敵な看板ですね」
リリアナは感嘆の声を上げた。
「ついに、私たちの工房が……」
「そうよ!」
エルミナは得意げに胸を張った。
「これで正式に、あたしたちもリーフェンブルクの職人の仲間入りね」
正式な錬金術師としての登録を済ませ、エルミナも商人ギルドでの手続きを完了した。二人の小さな工房が、ついに本格的な営業を開始する日が来たのだ。
「師匠、お世話になりました」
リリアナはテオに深々と頭を下げた。
「これからは、独り立ちした錬金術師として頑張ります」
「そうじゃな」
テオは穏やかに微笑んだ。
「ただし、まだワシの工房を間借りしているのじゃから、あまり大きなことは言わんでよろしい」
三人が笑い合う、温かな朝の光景だった。
***
エルミナは早速、街の掲示板に依頼募集のチラシを貼って回った。
「お困りごとを魔道具で解決します!」 「丁寧な仕事をお約束いたします」 「クローバー工房まで、お気軽にお越しください」
色とりどりのチラシが街のあちこちに貼られ、人々の注目を集めていた。ハンスのパンで評判になった温度調整器の話も手伝って、予想以上の反響があった。
開店から三日目、ついに最初の正式な依頼者が工房を訪れた。
「こんにちは」
扉を開けて入ってきたのは、中年の男性だった。商人風の身なりで、少し困ったような表情をしている。
「こちらが、クローバー工房でしょうか?」
「はい!」
エルミナが元気良く応答した。
「いらっしゃいませ! 私はエルミナ・ヴァルメル。こちらが錬金術師のリリアナ・エルンフェルトです」
「私、リリ……リリア……」
リリアナは緊張で言葉が詰まってしまった。久しぶりの初対面の人との会話に、人見知りが再発してしまったのだ。
「あの……よろしく……お願いします……」
か細い声で、ようやく挨拶を済ませる。
「こちらこそ」
男性は親切そうに微笑んだ。
「私はアルバート・シュナイダーと申します。雑貨商をやっております」
エルミナが手際よく商談を進めていく。
「どのようなご依頼でしょうか?」
「実は、商品の保存に困っておりまして」
アルバートは説明した。
「湿気で商品が傷んでしまうことが多く、何か良い方法はないかと……」
「除湿の魔道具ですね」
エルミナは頷いた。
「リリアナ、どう? 作れそう?」
リリアナは必死に考えた。除湿……湿気を取り除く魔道具。理論的には可能だが、具体的にどのような仕組みにすれば良いのか。
「あの……どのような商品を……」
「色々ありまして」
アルバートは曖昧に答えた。
「まあ、一般的な雑貨類です」
リリアナはもっと詳しく聞きたかったが、緊張で言葉が出てこない。結局、曖昧な情報のまま依頼を受けることになってしまった。
***
一週間後、リリアナが作った除湿器をアルバートに納品した。
しかし、結果は散々だった。
「これでは、全然湿気が取れません」
アルバートは困惑していた。
「それに、なぜか商品が変な匂いになってしまって……」
リリアナが作った除湿器は、確かに湿気は取り除いていた。しかし、その過程で発生する特殊な化学反応が、商品に悪影響を与えてしまったのだ。
「すみません……」
リリアナは深く頭を下げた。
「作り直します……」
「いえ、結構です」
アルバートは苦笑いを浮かべた。
「他の方法を考えてみます」
彼が帰った後、リリアナは一人で落ち込んでいた。
「なぜ、うまくいかないんでしょう……」
同じような失敗が、この一週間で三件も続いていた。
織物職人からは「糸が絡まりにくくなる道具」を依頼されて作ったが、逆に糸が切れやすくなってしまった。
八百屋からは「野菜が長持ちする保存箱」を頼まれたが、野菜の味が変わってしまった。
どれも、技術的には間違っていない。しかし、依頼者の本当のニーズを理解できていなかった。
「リリアナ」
エルミナが心配そうに声をかけた。
「あなたの技術は確かなのよ。ハンスさんの件では完璧だったじゃない」
「でも……」
リリアナは首を振った。
「ハンスさんの時は、お困りの内容がはっきりしていました。でも今回は……」
彼女は自分の欠点に気づいていた。人見知りのせいで、依頼者とうまくコミュニケーションが取れない。相手の本当の要望を聞き出せずに、表面的な情報だけで魔道具を作ってしまう。
「私、錬金術師に向いていないのかもしれません……」
その時、テオが奥から現れた。
「どうしたのじゃ、そんなに沈んで」
エルミナが事情を説明すると、テオは穏やかに頷いた。
「なるほど、依頼をこなすのに苦労しているのじゃな」
「はい……」
リリアナは俯いた。
「皆さんの期待に応えられなくて……」
「では、第三の指針を教えよう」
テオは椅子に腰を下ろした。
「本当に大切なことを見極める」
***
「本当に大切なこと……ですか?」
リリアナは顔を上げた。
「そうじゃ」
テオは頷いた。
「君は今、多くの依頼をこなそうとして、一つ一つの依頼と真剣に向き合えていない」
その指摘は的確だった。確かに、次々と舞い込む依頼をこなすことばかり考えて、個々の依頼者の気持ちを理解しようとする時間を取っていなかった。
「緊急の依頼ばかりに追われていては、本当に大切なことが見えなくなる」
テオは窓の外を見やった。
「君にとって本当に大切なことは何じゃ?」
「それは……人を笑顔にすることです」
「そうじゃろう」
テオは微笑んだ。
「ならば、一人一人の依頼者と真剣に向き合うことが、今の君には最も重要なことじゃ」
エルミナも頷いた。
「そうね。量より質よ」
「でも……」
リリアナは不安そうに言った。
「そうすると、お客さんをお断りしなければならなくなります」
「それで良いのじゃ」
テオは断言した。
「十人の依頼を中途半端にこなすより、一人の依頼者を心から笑顔にする方が、よほど価値がある」
その言葉に、リリアナの心が軽くなった。
「分かりました」
彼女は決意を込めて言った。
「これからは、一つの依頼に集中して取り組みます」
エルミナも理解を示した。
「あたしも、営業のやり方を変えるわ。量を追わず、本当に困っている人を見つけてくる」
その時、工房の扉がノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、ふくよかな中年女性だった。エプロンをつけていることから、何かの商売をしているのだろう。その表情には、深い悩みが刻まれている。
「こちらが、クローバー工房でしょうか?」
「はい」
リリアナは今度は、落ち着いて応答した。
「私がリリアナ・エルンフェルトです。どのようなご依頼でしょうか?」
「私はクララと申します」
女性は丁寧にお辞儀をした。
「宿屋『せせらぎ亭』を営んでおります」
せせらぎ亭。街でも評判の、温かい雰囲気の宿屋だ。
「実は、主人のことでご相談が……」
クララの表情が曇った。
「主人が腰を痛めておりまして、立ち仕事が辛そうで……」
リリアナは身を乗り出した。今度は、しっかりと話を聞こう。
「詳しく教えてください」
彼女の真剣な眼差しに、クララは安心したような表情を見せた。
「はい……実は……」
クララが語り始めた話は、夫婦の深い愛情と、それゆえの心配に満ちていた。
リリアナは、一言一句聞き逃すまいと、集中して耳を傾けていた。
今度こそ、依頼者の本当の想いを受け止めて、心から喜んでもらえる魔道具を作ろう。
第三の指針を胸に、リリアナの新たな挑戦が始まった。
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