第2話 泣き濡れた星

 ​りんごの香りが消えた後も、列車は音もなく銀の河を滑り続けていた。窓の外には、見たこともないような壮麗な景色が広がっている。インクを零したように真っ黒な闇「石炭袋コールサック」の向こうには、青白い光の集まりであるプレアデス星団が、まるでダイヤモンドの髪飾りのようにきらめいていた。


​「……すばるだ」


 ​コウは、ガラスに額を押し付けんばかりにして呟いた。学校の資料室で、埃をかぶった図鑑のページを何度もめくって眺めた星々が、今、目の前にある。それはあまりにも美しく、あまりにも非現実的で、自分の心臓の音だけが、ここが夢ではないと告げていた。


 ​隣のミオは、先ほどの涙の跡も乾かぬまま、ただ静かに座っていた。彼女の視線はどこか宙を彷徨い、その瞳は目の前の絶景を映しているようで、何も映してはいなかった。まるで見えない壁に閉じこもってしまったかのように。


 ​コウが、何か言葉をかけようかと思案した、その時だった。


 ふと、車内の隅に、小さな人影があることに気がついた。いつからそこにいたのだろう。小学校に上がったばかりくらいの、小さな女の子だった。白いワンピースを着て、膝を抱えるようにして座り込んでいる。その小さな背中が、小刻みに震えていた。


​「……………っく……」


 ​嗚咽が、静寂を切り裂いた。少女は顔を膝にうずめ、必死に声を殺して泣いている。


 その泣き声を聞いた瞬間、隣のミオの空気が、ぴん、と張り詰めた。彼女は息を呑み、その顔からさっと血の気が引いていくのを、コウは見た。


​「……ごめんなさい……」


 ​少女のかすれた声が、車内に響いた。


​「……わたしが……わたしが、わるいこだから……ごめんなさい……」


 ​懺悔の言葉は、まるで冷たい雨のように、ミオの心を打ちつけた。彼女は固く目を閉じ、両手をきつく、白くなるほど握りしめている。コウには、その震える肩が、まるで嵐の中の若木のように見えた。


​「おい、君……」


 ​放っておけなくて、コウが腰を浮かせ、少女に声をかけようとした。


「やめて!」


 鋭い声が、コウを制した。ミオだった。彼女はうつむいたまま、絞り出すように言った。


「……何もしないで。お願いだから……」


 ​その必死な声に、コウはどうすることもできず、再び席に身を沈めた。どうして。どうして、ミオはあんなに動揺しているんだ? あの子と、何か関係があるのか? 混乱する頭の中で、目をぎゅっと閉じる。


 すると、不意に、心の奥で懐かしい声がした。


​『――コウ。大丈夫だよ』


 ​ハルだ。入院しているはずの、親友の声。それは、夢の中の陽だまりのように、温かかった。


​『本当の光はね、暗闇の中でしか見えないんだ。……よく見てごらん。その子の涙は、誰の涙なんだろうね?』


 ​ハルの言葉に導かれるように、コウはゆっくりと目を開けた。そして、もう一度ミオを見た。彼女の脳裏に、どんな光景が映っているのだろう。コウには、降りしきる雨の音と、泥に汚れた誰かの小さな手が、一瞬だけ見えた気がした。


 ​その時、車内に澄んだアナウンスが響き渡った。


​『――まもなく、白鳥の停車場。アルビレオ、アルビレオでございます』


 ​その声は、どこか遠い昔の夏休みに聞いたラジオのように、少しだけノイズが混じっていた。


 コウがはっとして、泣いていた少女がいた隅に目をやった。


 しかし、そこにはもう誰もいなかった。まるで初めから、誰もいなかったかのように、座席がぽつんと残されているだけだった。


 ​車内には、重い沈黙が降りた。ミオは顔を覆ったまま、動かない。


 窓の外では、列車がゆっくりと速度を落としていた。サファイアの青と、トパーズの黄金色。二つの星が寄り添うようにして輝く、世にも美しい二重星、アルビレオの停車場が、すぐそこに見えていた。その宝石のような輝きだけが、泣き濡れた星のように、あまりにも、静かすぎた。

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