夏生の後悔
第13話 6月1週目
雨の日は大抵、車で来ていたが、最近は徒歩で来るようになっていた。
会社を通り抜けるその瞬間に、小さな驚きがあったりするからだ。
小雨の降る中、大きな黒い傘をさし、会社を後にする。
「あの!」
ほら、今日も。
「どうかしましたか?」
珍しいな。一人か。
「向かいの住宅展示場で営業をやっています、林田冬馬と申します」
「ここで役員やってます、室田夏生です」
こんな素朴な自己紹介は、くすぐったい恥ずかしさがあるな。
「駅までご一緒させていただいてよろしいでしょうか」
「もちろんですよ」
傘があるおかげで、適当な距離を保てる。
「原田のこと、どう思ってますか?」
直球だな。
「自転車を好きになってくれて嬉しいと思っています」
「あいつの気持ちに気が付いていますよね」
「おっしゃっている意味が分かりませんが」
何を言わせたいんだ。
「原田はあなたのことが好きです」
「君と彼女はどんな関係なんだ?」
「同僚であり、友人です」
そうは見えないが。
「君は友人の不倫を応援するのか?」
「……」
「はっきり言っておくが、私は離婚をする気はないし、浮気をする気もない。もし、私と彼女の間に何かが起きたとすれば、それは『過ち』でしかない」
細かな雨は、会話を邪魔しない。
「君は、友人に過ちを犯してほしいのか?」
「そういうわけでは……」
「林田さん、友人として原田さんに取ってあげるべき態度を、今一度考え直した方がいい」
こんなこと言いたくはないが、君たちの若さが羨ましい。
「ご忠告、ありがとうございました」
一礼して、改札で別れた。
最近、向かいの会社で働く、この若者たちになつかれてしまった。
正直、原田さんには心穏やかではいられない。
私が10年前に別れた妻に似ている。
そして、「はるか」という名前もいけない。
遥とは学生時代に知り合い、若くして結婚をした。
大学のサイクリング部で、彼女はマネージャーをしていた。
「夏生は絶対、実業団に行った方がいいよ」
真に受けたわけではないが、その言葉は心に刺さった。
趣味と呼ぶにはのめり込み過ぎていたロードバイクを、卒業後も続けたいと思った。
「国内では間口が狭すぎるんだ。フランスに行こうかと思う」
「私も付いて行ってもいい?」
「……、一人で行かせてほしい」
気持ちは嬉しかったが、遥を気にかけながら、海外で思う存分やれない気がした。
「じゃあ、日本で待つから、入籍してくれないかな」
「いいのか?」
「お願い」
積極的な女性だった。
私たちは、新婚早々、遠距離生活を送ることになった。
大きな怪我をしたことはなかったが、世界の壁は想像をはるかに超え、自分の実力のなさを思い知らされた。
「ねえ、日本に帰ってくる気はあるの?」
これと言った実績を作れないまま、3年も経つと、遥の言動も変わってきた。
「もう少し頑張らせてほしい」
遥をフランスに呼び寄せることも、日本に帰国することもできず、7年を過ごした。
30歳を目前にロードバイクで食べていくことを、ようやく諦めることができた。
「やっと一緒に暮らせるのね」
最初はそうは言ってくれたが、一緒に暮らさないまま長い時間を過ごしてきたから、どうしたらいいのか分からず戸惑った。新しい関係であれば上手くいったのかもしれない。だけど、離れ離れの生活が当たり前になってしまっていた私たちは、この変化についていけなかった。
「もう、歳も歳だし、子どもが欲しいんだけど」
頭では分かっていたが、気持ちが付いて行かなかった。
環境の変化、夢の喪失、遥の期待、私はどれ一つとして順応出来ていなかった。
「勝手なことを言って申し訳ないのだけど、別れてくれない、かな?」
長年、自分の勝手に突き合わせてきた彼女に、こんな事を言わせてしまい申し訳ないのは私の方だった。
離婚して10年が経つ。
あまり思い出したことはなかったはずだが、原田さんの真っ直ぐな視線は、遥のそれを思い出させ、私は動揺を隠せなくなる。
「ふぅ」
年甲斐もなく胸が苦しくなり、溜め息が出る。
電車だと1時間程で家に着く。
ロードバイクでは40分もかからない。
郊外に買った夫婦二人で住むには充分な広さの一軒家。
「お帰りなさい」
妻に出迎えられる。
「車で行けばよかったのに」
「電車も悪くないよ」
見ていて、つくづく綺麗な人だと思う。
「明日は、私も会社に行くんだけど、雨なら車を出してくれない?」
「ああ、そうしよう」
5年前に再婚した、秋子だ。
「お夕飯はローストビーフを焼いてみたの」
「楽しみだな。なにか手伝うか?」
「ううん。もうできてるから」
育ちがよく、家事が得意で、出来た妻だ。
室田の一人娘で、会社の会長職をやっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます