第14話 6月2週目

 綺麗に晴れた朝、早起きをして、支度を整える。


「行ってくる」


 聞こえてるかは分からないが、小さく言い残し、家を出る。5時半。

 数週間に一度訪れる、箱根の旧街道へ向かう。


 やっとだ。

 自分だけの時間。自分だけの空間。自分だけの世界。


 この時間が何よりも好きだ。

 風の音と、過ぎ去る景色、気にしてもしなくても構わない、全てが自由だ。


 いつもの赤い鳥居を横目に過ぎる。

 一瞬の出来事だ。だけど、確実にここに来たという実感が持てる最初のポイント。


 背の高い木のトンネルを抜ける。

 本当に気持ちがいい。日常を忘れられる、ペダルの事だけ考えればいい。


 お気に入りの「七曲り」に突入する。

 登り勾配10%を超えるカーブがいくつもある。切れた息のおかげで、頭が真っ白になる。


 大型の観光バスに追い越される。こう言うのは初心者には向かない。

 この前、原田さんを連れてこなくてよかったと、改めて思う。


 頂上に辿り着く。

 期待を裏切るほど何もない場所に、変な感動を覚える。


 自転車は基本一人だ。

 そこが気に入っている。

 走りたいだけ走って、やめたくなったらやめたらいい。


 原田さんにツーリングに連れて行って欲しいと言われて、焦った。

 プライベートで誰かと自転車で出掛けるなど、学生の時以来だったから。


 芦ノ湖に下って、一休み。人気のベーカリーでパンを買い、足湯を楽しむ。


 こういうところに連れてきたら喜ぶだろうなと思い浮かべるのが、秋子ではなく、原田さんであることに衝撃を受ける。


(さっきから、何を考えているんだ)


 フランスで所属していたプロチームでは、結果を出せないまま、おめおめと帰国した。

 今の会社が立ち上げたばかりの、ロードバイクの実業団に運よく入ることができた。


(ついてたな)


 昔の思い出に浸りながら、ペダルを漕いだ。




「お帰りなさい」

「よかったら……」


 芦ノ湖で買ったパンを差し出す。


「少し、潰れてしまったが……」

「いいえ。大丈夫です。ありがとう」


 嬉しそうな妻の顔にホッとする。


「お夕飯どうします?」

「手間をかけさせたくない。どこかに食べに行くか?」

「はい」


 子どもがいない私たちにとって、外食は何の苦でもない。


「少しお時間をください」


 そう言って、秋子は着替えの為、部屋に入った。

 女性と言うのは皆そういうものなのか、秋子、遥、原田さん、三人の女性を比べるのは失礼だとは思いつつも、つい、考えてしまう。


(林田君、君のせいだ)


 あの若い男性に罪の意識をなすりつける。


 林田君は、原田さんに惚れているに違いない。

 男であっても、中年であっても、それくらいは分かる。

 だが、なぜ原田さんを私とくっ付けようとするのか、その辺が分からない。


「お待たせしました」

「いや……」


 ドレスアップした妻に、息を飲む。


「ちょっと、やり過ぎました?」


 照れくさそうに笑うところが、たまらない。


「いや。きれ、い、だ」


 私の方が照れくさくなる。


「どこに行きますか?」

「いつものイタリアンでどうかな」

「そうしましょう」


 秋子は私の提案を断ったことが無い。

 本当にそれでいいのだろうかと、疑問に思うことはあるが、問うてみたことはない。




「いらっしゃいませ、室田様」


 丁寧な挨拶で出迎えられる。

 かしこまった店ではないが、ここに居る人たちが、それぞれに何かを祝いに来ているのだということは分かる。


「お任せで」


 妻がそう言い、席に着く。


 何度聞いても名前が覚えられない料理と、説明を聞いてもさっぱり分からないワインをいただく。


「今日は、どちらに?」

「いつもの箱根だ」

「いつか私もご一緒させてください」


 妻は結婚してから、5年間、同じことを言い続けているが、社交辞令なのだろう。

 一向にロードバイクを買う気配は無い。


「あの……お休みの日にすべき話じゃないかもしれませんが……」

「構わないよ」

「ここのところ議題に上がっていた、ヨーロッパでのビジネスの立ち上げにあたって、いい場所が見つかったようです」


 室田家は、先代より、化学調味料を合成する会社を営んでいる。


「それは良かった」

「はい。それで……視察に行く話がこちらに回ってきまして……」


 秋子はそこの一人娘で、バツイチだった私が、なぜか婿養子に迎えられた。


「秋子が行くのか?」

「私も行くんですが、夏生さんと一緒にと社長が……」

「いいね」

「本当ですか?」


 嘘を言う理由があるか?


「どこ?」

「フランスです。パリ周辺と聞いてます。」

「いつから?」

「早ければ再来週、遅くても月末です」

「急だな」

「すみません」


 謝る必要などないのに。



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