第2話 堅物騎士と、お腹の鳴る音
氷のような瞳が、私をじっと見据えている。
王家から派遣された騎士、ライル・アシュフォード。その全身から放たれる「お前を信用していない」という空気に、私は思わず苦笑しそうになった。まあ、そうだろう。王子に婚約破棄された令嬢なんて、いわくつきの厄介者でしかない。
「よろしくお願いします、アシュフォード隊長。長旅でお疲れでしょう。館に部屋を用意させますので、どうぞお休みください」
私が貴族令嬢として完璧な笑みを向けると、彼はわずかに眉をひそめた。もっと取り乱したり、泣きわめいたりするとでも思っていたのだろうか。
「お気遣いなく。我々は交代で警備にあたります。ここは国境にも近い。何が起こるか分かりませんので」
「まあ、頼もしいこと。では、何かあった時はよろしくお願いしますね」
私はひらりとスカートの裾を翻し、老執事のセバスさんに向き直った。
「セバスさん、早速で申し訳ないのだけど、領地を案内していただけるかしら? まずは、この谷のことを知りたいの」
「は、はい! かしこまりました、アリア様!」
セバスさんは驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに頷いた。
私はライル隊長を一瞥もせず、ボロボロの館の中へと足を踏み入れた。背中に突き刺さる視線を感じながらも、私の心はこれから始まる新しい生活への期待でいっぱいだった。
◇
その日の夕食時、事件は起こった。
アンナが青い顔で運んできたのは、カチコチに乾いた黒パンと、具のほとんど入っていない水っぽいスープ。
「お嬢様…これが、本日の夕食だそうで…。申し訳ありません…」
「まあ…」
これが日常の食事だという。これでは体力も気力も湧いてこないはずだ。領地が寂れるのも無理はない。
「…よし!」
私はポンと手を打った。
「アンナ、セバスさん! 今夜の食事は、私が作ってもいいかしら?」
「ええっ!?」
「お嬢様が、自ら厨房に!? し、しかし、そのようなこと…!」
驚く二人をよそに、私はわくわくしながら立ち上がった。
「いいんです! みんなで、温かくて美味しいものを食べましょう! それが、新しい生活の第一歩よ!」
厨房は古く、最低限の調理器具しかなかった。けれど、それで十分だ。
私は持参した荷物の中から、大切に包んできたハーブの瓶をいくつか取り出した。
「まずはこのスープからね。タイムとオレガノを少し加えるだけで、お肉の臭みが消えて、香りがぐっと良くなるのよ」
「まあ…!」
「そして、この硬いパンは…そうだ! 細かく砕いて、私の持ってきた小麦粉と混ぜてパン生地を作り直しましょう。そこに、このローズマリーを刻んで練り込むの。焼きたてはきっと、すごく美味しいわよ!」
私は前世の記憶を頼りに、てきぱきと手を動かしていく。
最初は戸惑っていたアンナや他の使用人たちも、厨房に立ち込める香ばしい匂いにつられて、いつの間にか目を輝かせながら私の手伝いをしてくれていた。
そして一時間後。
食卓には、湯気の立つハーブスープと、こんがりと焼き色のついたローズマリーのパンが並んでいた。
「さあ、みなさん! 冷めないうちに召し上がれ!」
おそるおそるパンを口にした使用人の一人が、驚きに目を見開いた。
「お、美味しい…! こんなに香りが良くて、ふわふわしたパン、食べたことがありません!」
「スープも、いつものとは全然違う…体が温まります…」
あちこちから上がる歓声に、私は満足して微笑んだ。
みんなで食卓を囲んで笑いあう。私が本当にしたかったのは、こういうことだ。
その時、ふと厨房の入り口に目をやると、ライル隊長が腕を組んで、険しい顔でこちらを見ていた。監視のつもりなのだろう。
私はパンを一つ手に取り、彼の元へ歩み寄った。
「隊長も、いかがですか? 警備にあたっている兵士の方々の分もありますよ」
にっこりと微笑んでパンを差し出すと、ライル隊長はふいっと顔をそむけた。
「…結構です。任務ですから」
その、次の瞬間だった。
ぐぅぅぅぅぅぅ〜〜〜………。
静まり返った食堂に、盛大にお腹の鳴る音が響き渡った。
音の発生源は、言うまでもなく、目の前の堅物騎士様だ。
「……っ!」
ライル隊長が、みるみるうちに耳まで真っ赤に染まっていく。
そのあまりの可愛らしさに、私は思わず、くすりと笑ってしまった。
「ふふっ」
「わ、笑うな!」
彼はそう言い捨てると、脱兎のごとくその場から走り去ってしまった。
その背中を見送りながら、私はまだ温かいパンをぎゅっと握りしめた。
氷みたいに冷たい人だと思ったけれど、案外、可愛いところもあるのかもしれない。
明日も、美味しいものを作ろう。
この『忘れられた谷』での生活は、思ったよりもずっと、楽しくなりそうだった。
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