一人

 ………………………………………

 権力者が欲に捕らわれて、臣下や民を騙し、殺す事はよくある事だ。最初にウチが居た国にも、そんな話はゴロゴロ転がっている。

 だが、一人の人間を仲間・・とし、長い間守って旅をした例などは初めてだった。

 男、北嶋 肇が孤独だった故、仲間を欲していた故に旅をしてこれた奇跡……

 面白い!

 ウチは本心でそう思った。

 ウチに食べ物を分けた時、肇は量に差をつけなかった理由も何となく理解できた。

 優位に立とうなど微塵たりとも思っていない。だから悪霊、死霊に堕ちた霊すらも仲間・・と認めたのだ。

 優位に立とう、出し抜こうなど少しでも考えたら、恐らくその時に肇は死んでいただろう。

 奴等も馬鹿じゃない、それ位は簡単に察知できる。そして、裏切られて悪霊に堕ちた身だ、今までの行動の情など簡単に捨て去り、今まで以上に惨たらしく殺した事だろう。

――お主達の願い、ウチが聞き入れた。北嶋 肇はウチが護ろう。故にお主達は一刻も早く肇から離れるがよい……

 どんな理由があろうとも、死人が生者と共に居て良い訳は無い。守護霊なら兎も角、悪霊、死霊共なら尚更だ。

 今は善霊に偏っている連中でも、悪霊に堕ちるは時間の問題の霊も、例外では無い。

――誠に、誠に忝い!!無論貴女様の言う通りに致す!!

 学者はウチに向かって地に頭を付けて座礼をした。それに倣い、他の霊魂達も同じく行う。善霊、悪霊に限らず、全て。

――解ったら去ね。そして本懐を全うするが良い

――我等が祟るのを見逃すと仰有るか!?

 頷いたウチ。そもそも、ウチにはあまり関心がない事だ、異国の領主の命など。そして――

――その者に加護があれば、貴様等の祟りなど無駄、無意味。そしてウチは別に領主や、その手の者に祀られている訳でも無い。要は関係ない。

 あるいは、祀られてもいるのならば、その様な行動は許さなかったが。それに、事実祟りが徒労に終わった領主も居る筈だ。

 巨大な加護を持っている藩主レベルには祟れない事に通じる。

 何せ、沢山殺して藩主になった者の血縁・・・・・・・・・・・・・・・なのだから。

 今、肇に憑いている霊魂よりも遥かに大勢を殺した者に、たかだか数十年程度の悪霊が歯が立つ筈も無い。

――委細承知……ではお願いします……我等の仲間を……北嶋 肇を……お願い致す………

 ポツポツと肇から離れ出ウチす霊。一人、二人と消えていく。恐らくこの地の領主の元に向かったのだろう。

 そして最後にウチに座礼した儘、学者の霊も消えた。

 肇から離れたのだ。

 それは、悪霊に堕ちたと言う事を意味していた。

 自ら望んだ運命に堕ちたのだ……

「む?」

 キョロキョロと辺りを見回す。

「……何か……一気に寂しくなったような………」

 軽い溜め息を付き、その場に座って空を見上げた。

 肇は年齢を重ねる事に霊感が失われていった筈。あの霊の弁を信じるならばそうだ。

 ウチは肇に擦りよった。ニャーン、ニャーン、と。

「……とうとう俺は一人になったみたいだ。あいつ等、だんだん仲間が減っていたみたいからな。そろそろとは思っていたが……」

 ウチの頭を撫でながら言う。切なそうに。辛そうに。

「あいつ等望みを叶えられたんだろうか?いや、無理だろうな。旅の道中、「領が滅んだ」「藩が滅んだ」なんて話、聞いた事無かったもんな」

 ポロポロと涙を零して、歯を食いしばって続ける。

「徒労に終わる事を知りながら、待っているのは滅びと知りながらも、あいつ等……少しは嬉しかったかなぁ……」

 嬉しいに決まっている。肇、お主に出会いたのだから。

「俺は何もしてやれなかったが、あいつ等から沢山貰った……知恵、知識、武芸……そして金……何の恩も返せてなかったなぁ……」

 そんな事は無い。お主が居たから、奴等は望む道を歩めたのだから。

 遂には嗚咽する肇。そんな肇に、ウチは傍で喉を鳴らしながら寄り添った。

 その儘寝入った肇。軽い寝息を立てながら。

――ふふ、子供みたいどすな

 夏とは言え、夜は冷える。ウチは懐に潜り込んで肇に暖を与えた。

 悪霊、資料が初めから離れた故、濁った空気が消えて、正常に戻った場。

 これでは獣が寄って来るかも知れない。野党に襲われるかも知れない。これからは、こんな風に野宿なんかできない。

 厄によって守られていた肇は、これからは普通の人間としての生活や危機感を覚えなければならない。

――ふふ、難儀どすなぁ。ウチが育てなあきませんの?

 嫌では無かった。寧ろやりがいを感じていた。

 ウチの故郷、バストを護っていた頃が蘇ってきた。

――だけど……いずれバストに匹敵する規模を護らなければならないような気はしますわ

 何故かは解らない。

 だが、悪霊、死霊に慕われていた男だ。人間に慕われるのは容易に想像できる。

 そして、 それがここの領主以上に、北嶋 肇を繁栄させる事になる。

 ウチは朧気ながら確信していた。

 肇の暖かい、優しい懐に潜り込みながら… …

 翌日。鶏よりも早く起きた肇は、沼で顔を洗い、手拭いで身体を拭いた。

「城へ行かなきゃならんからな。少しは小綺麗にせんとな」

 着物を買えよと言いたかったが、憚れた。

 肇はまともに買い物が出来なかったのだから、着物を新調するのも厳しかった筈。

 しかし、わざわざ城へ行かなくとも。難癖付けられて金を取られるだけなのに。

 まぁ、そんな真似、ウチがさせないが。

「さて、行くか。朝飯は後だな、黒」

 言いながらウチの頭を撫でる。

 うん?と、言うか、黒?それはまさか、ウチの名前か?

「お前はどこもかしこも黒いからな、黒だ」

 黒……いや、確かに、行く先々で黒、黒と呼ばれていたが、もう少し洒落た名前が欲しい。

「じゃあ行ってくるぞ黒」

 微妙な表情の家を置いて、すたすたと歩き出す肇。

――待て待て待て!ウチも行く!お主一人では殺されてしまうかも知れないんどす!!

 慌てて後を追うウチ。足に絡まって肇の動きを止めた。

「何だ?お前も行こうってのか?」

 仕方無いと言い、ウチを抱き上げた。

「朝飯を食いっぱぐれると思ったのか?ちゃんと買ってくるのになぁ」

 そうじゃない!お主が危ないからだ!

 と、ウチは叫んだが、肇に解る訳でもなかった。

 あの沼から城へは結構遠い。城門に着いた頃には、既に昼近くになっていた。

「いやぁ、お前の言う通り、朝飯食いっぱぐれたなぁ」

 だから違うと言うのに。

 だが、城門まで来てウチは必要無かった事に気付いた。

 城門から先、城の方から、禍々しいが溢れていた。

 奴等が、肇に憑いていた全ての霊が入城したのだ。領主を祟る為に。

 肇は門番に声をかける。

「すんませんが、昨日役人に今日城に来いと言われた者ですがのう」

 門番はじろりと肇を睨み、手の甲で追い払う仕草をした。

「領主様は昨日から熱を出して寝込んでおる。若様も后様もな。だから誰にもお会いにならん」

「え?では偉い人、誰でもいいから話を通してくれんかな?」

 門番は渋い顔をして、それも退けた。

「生憎だが……昨夜から城の者全ての体調が優れんのだ。かく言う儂も頭が痛くてなぁ……だから要らぬ手間を掛けさせるな」

 だろうな。ほらお主の背中に、血みどろの武者がへばりつき、その顔を舐めているわ。

 体調が優れないのは至極当然。障られているのだから。

「し、しかし……」

 何か言いたそうな肇の足に絡み付き、ニャーンと鳴く。

「……解ったわい……お大事にしてくれ」

 肇も察知したようで、それ以上食い下がる事もせずに、ウチを抱き上げて立ち去った。

「……なぁ黒、あいつの後ろに居たんだろ?」

 結構な沈黙の後、ウチに話し掛けた肇。ウチはニャーンと鳴いて応えた。

「……そうかぁ……」

 ウチの言葉が解った訳ではあるまいに、確信をしたような肇。長い旅路、何回か見てきたのだろう。

 しかし、肇の着物だが、そろそろ新調した方が良くないか?臭くて適わん。

 ウチは抱かれた腕から飛び跳ねて、ニャーンと一つ鳴き、後を付いて来いと促した。

「なんだ黒?付いて来いってか?」

 そろそろと付いて来る肇を何度も何度も振り返りながら促した先。

「……着物屋か…だが俺は……いや、今は違うのか?」

 かなり躊躇い。着物屋に入った肇。

「いらっ…」

 店主が肇を見て、あからさまに嫌そうな表情をした。

「あの、着物を……」

「なんでしょう?物乞いはお断りしていますが?」

 プチっとウチにも聞こえた肇の何かが切れる音。

「これで買えるだけ売ってくれんか!!」

 だん!と机に叩きつけた小判。

 店主はそれを興味無さそうに覗いたが、やがて絶叫しながら仰け反った。

「じゅっ!じゅっ!十両っっっ!?」

「足りないか?足りないのならもう十両出すぞ!なんなら店ごと買ってやる!!」

 だん!だん!だん!だん!と、机に叩きつけるように置いた、しめて五十両。

「お、お客さん、いやお客様……うちは小さな呉服屋でして……」

 手拭いで汗を拭き、恐る恐る四十九両を肇に押し返し、一両だけ自分の前に置いた。

「これでご勘弁を……」

 深々と頭を下げる店主。

「ほう。この店は一両で買えるのか」

 言いながら四十九両を懐に戻す肇。なかなか斬れる嫌味を放つ。

「い、いえいえ!一両分の着物をお渡ししますので、先程のご無礼はどうぞご勘弁を……!」

「そうかぁ。別に高い服はいらんから、安いヤツを沢山欲しいな。動きやすいヤツ」

「は、はい……その様に致します……」

 店主は怯えて、再び深々と頭を下げた。怯えられる事に慣れている肇だが、別種の怯えを受け戸惑っていた。

「解ったから頭を上げてくれ。いや、俺も悪かった。まさか身なりで客を選ぶ店だと思わなかったんでな」

 単純に思った事を言っているだけだが、それは果てしない嫌味の刃となり、店主は何度も頭を下げる事になった。

 その度「もういい!もういい!」を繰り返す羽目となった。

 着物屋の店主、丁稚達が店から出てまで肇を見送る。

 肇はと言うと、風呂敷に大量の着物を入れて、重そうに担ぎながら店を出た。

「いやぁ……買い過ぎたなぁ……」

 当たり前だ。安物を一両分、大量に買ったんだから。まさか後悔しているのか?

「でもなぁ黒。俺は買い物をしたのは初めてなんだ」

 ……急にしんみりさせてくれる。

「買い物ってのは案外難しいんだな。だが嬉しかった」

 そうか。嬉しかったか。ウチも何か嬉しい気分だ。

「……ひょっとしたら飯屋もいけるかな?朝飯食いっぱぐれたし、昼もとっくに過ぎているし……」

 いけるいける。昨日の怯えと違った怯えを受けられるが、普通にちゃんと食わせてくれる。

 ウチはニャーンと肇の足を抜けて、昨日断られた飯屋に促した。

「おいおい……ここは昨日断られた……」

 躊躇する肇を余所に、ウチは先に飯屋に入った。

「そんなに腹が減っていたのか。だが断られるかも知れんぞ……」

 大丈夫大丈夫。だが、腹が減っているのはウチじゃなく、お主だろう。

「御免……」

 遠慮がちに暖簾を潜る。

「いらっしゃい……あれ?」

 飯屋の娘が首を傾げた。

「飯を食わせて貰えんか?」

「え?ええ。うちは飯屋ですから、どうぞ」

 愛想笑いながらも肇を席に促した。

「え?あ、うん」

 かなぁり戸惑いながらも畳に座る肇。その横にちょこんとウチが陣取った。

「……お客さん、昨日来られませんでした?」

「え?あ、うん。あ、いやいや」

 何がいやいやなのかは知らんが、肇はやはり一両を懐から出す。

「悪いが、細かいもんは持ち合わせていないんだ。これで……」

「お客さん、お金持ちなんですねぇ!お釣りあるかなぁ……」

 娘はいそいそと炊き場に戻った。釣り銭の確認の為だろう。

「……聞いたか黒!釣りをくれるそうだ!」

 当たり前だ。真っ当な商売人なら。

「いやあ!いつもは無理を言って一両で食わせて貰う事が多かったが、これで俺も小銭持ちだ!!」

 ……それは嫌味に近いだろう。

 だが、肇にとっては初めての経験。その喜びも大きいのだろう。

 飯をたらふく食べて、着物が大量に入った風呂敷を背負い、鼻歌を歌いながら沼に向かう。半日を掛けて。

「いやぁ……満腹だ満腹だ。着物も新調したし、俺は最早悔いは無い!!」

 随分小さいな。とは思ったが、全て初めての経験。大仰に聞こえるが、本当にそう思っているのだろう。

 しかし、折角普通の人間になれたのだし、わざわざ誰も近寄らない沼地に来なくても良いだろうに。

 ウチは訴えるようにニャーン、ニャーンと鳴く。

「んー?ひょっとしたら、戻って宿を取れ、と言ってるのか?」

 霊感を失ったとはいえ、長年悪霊善霊に指南を受けていた肇だ。何となくの勘は鋭い。今から戻って宿を取るのも何だかな、とは思うが、普通の人間になったのならば、屋根付きの就寝場所は必要だろう。

「宿にも泊まってみたいが、此処はあいつ等と離れた地。俺が始まった地。何となく縁を感じてなぁ」

 縁、か。縁など無い肇には、それは特別な事なのだろう。

「それに、此処はそんなに悪い場所じゃないぞ。誰も近寄らぬなら俺の物にしても問題も無い」

 暴論だが、確かに誰も利用していない場所。例えば家を建てたとしても、誰も文句は言わぬだろう。

「ほら、ここから上の方、沢がある」

 指差す方向には、夏には枯れる沢があった。

「その沢から水路を沼地に作る事もできるんだぞ」

 底が無い沼に更に水を入れようと言うのか?

「不毛だと思っているな、その顔は」

 悪戯な笑顔をウチに向けて、指を差した。ウチは思わず頷いた。

「ははは。水路は水を入れる為だけに在らず、だ、黒」

 では何を入れようと言うのか?

「まぁ、その答えは後々解る。その前にあの真ん中の島に行かねばならんな」

 やはり島に上陸するつもりか……

「そして家を建てるんだ。何、最初は寝泊まりできる程度でいい。いや、そうで無くばつまらん。全て最初から始めるんだ!!」

 何かしらの目標を立てる事は良い事だが、常軌を脱した行動は結局一人になるぞ。

「何、心配はいらん。俺には普通の人間よりも経験がある。何十何百の人間の経験がな」

 そして含みのある笑みを浮かべてこう締めた。

「もう少しで大雨が降る」

 だから何だと問いたかったが、辞めた。

 肇のその不敵な笑みが、ウチに妙な安心感を与えたからだ。

 翌日、肇は木を集めて紐で縛り、簡易形のいかだを作った。

「九州の方じゃ、泥の中に船を出して魚を取る漁法だってある。底無しと言われても、木は簡単に沈まん」

 言いながらウチを筏に乗せ、棒を上手に使い、ゆっくりではあるが前に進んだ。長い紐を持ちながら。

「これか?これはさっきあっちの木に端を結んでおいた物だ。向こうのどこかに括り付ければ、渡るのに容易になるんだぞ」

 したり顔で説明する肇。要するに紐を伝って行き来すると言う事だが、それくらいはウチにも解る。

 だが、この沼は広い、湖と言っても過言では無いのだ。

 ウチの予想通り、島に上陸した頃には、もう少しで日が沈む刻となっていた。

「ぜぃぜぃ……い、意外と時間が掛かったな……だが……」

 鬱蒼うっそうと茂る草木を前にして、目を輝かせる肇。

「ここが俺の城になるんだ。なんかワクワクするなぁ。なぁ黒!!」

 ウチは全く以てワクワクはしなかったが、寧ろ村に住めばいいのにと思ったが、肇は今、自分だけの考えで行動できる喜びに溢れていた。

 ならば、とやかく言うのは無粋だろう。

 この日はもう日が暮れると言う事で、適当な場所に野宿した。

 沼の水で身体を洗い、昨日買ったばかりの着物に袖を通し、昨日買った米や塩で夕餉を作り、そして寝た。

 この沼は広い上に底無しと散々言って来たが、渡れる部分も確かにあるようで、獣の足跡があった。

 火も炊かず、熟睡している肇を獣から守る為、ウチは寝ずの番をする羽目になったが。

 そして次の日、起きた肇は島内を探索する。

かまなたのこぎりなんかも買わないといかんな」

 手入れなどされていない島は歩くのも困難だったようで、肇は準備不足の己の頭を叩いて反省した。

 そして先日指差した沢の方向に目を向ける。

「此処からあの沢に向かって水路を作るぞ。あ、くわも買わなきゃならんな」

 だから水路は必要無い。底無しとは言え、水は張ってあるのだから。

「さて、そうと決まれば準備じゃ準備じゃ。町まで降りて必要な物を買おう」

 また沼を渡るのか……本当に心底面倒臭いが、此処に住むと決めたのだ。ウチも渋々ついて行くしか無かった。

 買い物は村よりも城下町が適している。肇は一泊する覚悟で、要は沼を渡るのに半日、城下町に行くのに半日掛かるので、覚悟と言うよりも必然なのだが、兎に角城下町に下った。

「……町はなかなか活気があるが……何か違和感があるな?」

 首を傾げる肇だが、違和感と言うか空気が違った。

 町はいつも通りの日常だが、城の方向が違う。空気が濁っているとでも言おうか……

 肇に憑いていた悪霊死霊が、存分に働いていると見ていい。

 働いている?否、望みを果たしているのか。

 いずれにせよ、城主は終わった。

 小さな領故加護も小さい。

 肇に憑いていた悪霊死霊は、確かに将軍を殺す程の力は持っていなかったが、この領程度の領主ならば、時間を掛ければ可能だろう。

 今の領主は殺せなくとも、二代、三代と時を重ねて行けば。

「まぁいいか……取り敢えず宿を取ろう」

 肇は宿に向かう。一番最初にこの町に訪れた時、断られた宿に。

「御免……」

 緊張の面持ちで暖簾を潜る肇。奥から店主が愛想笑いで顔を覗かせた。

「いらっしゃいまし~」

「すまんが一晩……」

「はいはい。丁度お部屋も空いてますんで。お客さん、夕飯はお済みですか?支度出来ますがどうします?」

 手揉み宜しく、顧客獲得に懸命な店主にやや引き気味の肇。

「そ、そうだな……じゃあ頼むか……二食頼むよ」

「二食?」

 怪訝な顔で、肇を上から順を追って、下まで視線を降ろした。と、店主とウチの目が合った。

「ああ、御猫様の分ですか。解りました、その様に致しましょう」

 店主は宿帳に肇の名前を書かせようと筆を持たせた。

「……………………」

「どうしました?」

「すまんが……俺は字が書けんのだ……」

 ああ、と、店主が変わりに筆を持ち、肇に名前を聞いて自ら書いた。

 そして部屋に通される肇とウチ。中居が障子を閉め、退散すると、緊張が解けたように大の字になった。

「いやー!また断られるかと思って冷や冷やしたわ!それにしても、黒の夕飯まで支度してくれるとは、そこは流石に驚いたわ!!」

 これはウチが何かしらの力を使ったからでは無い。

 この時代、犬や猫は勿論、鳥や魚も、ある意味人間よりも大事にされていたからだ。

 徳川幕府最大の悪法、『生類憐れみの令』によって。


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