譲られた力

 生類憐みの令。

 江戸幕府第五代将軍徳川綱吉は、貞享四年(1687年)、殺生を禁止する法令を制定した。

 それは犬や猫は当然ながら、魚介類や昆虫にまで及んだ。

 当初は「殺生を慎め」という意味があっただけの、言わば精神論的法令であったのだが、違反者が減らない為、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて犬への虐待が取り締まられ、元禄九年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。

 このため単なる精神論を越えた監視社会と化してしまい、結果、悪法として、一般民衆からは幕府への不満が高まった。

 生き物を殺した者には江戸追放は勿論、死罪もちゃんと適用されていた。

 武士階級も一部処罰されているが、武士の処罰は下級身分の者に限られて、最高位でも微禄の旗本しか処罰されていない。そして大身旗本や大名などは、基本的に処罰の対象外だった。

 その為、幕府幹部達も、それ程重要な法令とは受け止めていなかったが、やはり庶民は処罰されていたのだ。

 この法令は地方によって重要性がまちまちだった。

 尾張では普通に魚釣りをして楽しむ庶民もいたし、長崎では外国人に肉料理を出す事を許していた。

 ウチや肇がいるこの地も、魚を食べる事までは取り締まらかったようだ。

 元々日本は仏教国。肉食の風習は武芸者以外ならば、余程の事が無ければ・・・・・・・・・、殺して食べる事は無かったのだから。

 そして、生類憐れみの令は乳飲み子、人間の赤子も対象だった。これは捨て子防止の為だとも言われている。

 貧困から子を捨てる事があった時代だったのだ。

 この令により、捨て子が減少した事実は認めなければならない。

 犬にしてもそうだ。

 犬を保護する為に建てられた巨大な犬小屋。

 庶民から見たら何と無駄遣いをと思うだろうが、これは野犬を捕らえて、人間が襲われたり、狂犬病の拡大を防ぐ為だとも言われている。

 昔は野犬問題が深刻な社会問題だったのだ。

 悪法と言われる生類憐れみの令だが、宗教観点や安全、衛生面、それに道徳的観点から見れば、決して悪法とは言えなかった。

 庶民の視点を別として言うなれば、だが。

 まぁ、将軍の我が儘の法か、真に庶民の事を考えての法か、はたまた宗教的観点からは解らないが、ウチはその法令のおかげで宿に泊まる事ができ、食事にもありつけると言う事だ。

「明日は代八車を買う事から始めるか。荷物が沢山あるしな」

 手拭いを脇に抱え、立ち上がりながら言う肇。食事の前に風呂にでも行こうとの事だろう。

「代八車まで買い込んでの買い物も初めてだなぁ。いっその事、馬も買おうか」

 今は生類憐れみの令で、生き物に無茶をさせれば、ひょっとしたらお縄に付くかも知れないのに、何と恐ろしい事を考えるのだろう。

 まぁ、ウチが逮捕などさせないが。

 そして肇はウチをひょいと持ち上げて、懐に入れて抱く。

「ニャ?」

 物凄い嫌な予感がした。

「さて、風呂に入ってさっぱりするか。黒、お前の蚤も洗い流してやろう」

 ウチは蚤など棲んでいない!

 止めろ止めろとニャーニャー喚くが肇には届かず、そんなに嬉しいのかと、戯けた事をぬかされた……

 風呂から上がり、さっぱりした肇。夕餉に付けられた酒を恐る恐る舐めて、カーッ!!と息を吐いた。

「これが酒か!初めて呑んだが、こんなにも不味い物なのか!!」

 ふふん小者めが。

 このバステトの身体をびしょびしょにするなど、酒も呑めぬ小僧が。

 思いながら、肇が放棄したお銚子から酒を舐めるウチ。

「……いける口か、黒………」

 ウチはニャンと一つ鳴く。

 肇、小僧のお主よりも遥かに呑めるのだ、ウチは。そんな含みを持たせた笑みを浮かべながら。

「……寄越せ黒」

 ウチからひったくるようにお銚子を奪い、酒を注ぎ、一気に煽った。

「かーっっっ!!こおおおおおおおおおおお!ど!どうだ黒!俺だってこの程度は呑めるんだ!!」

 それは呑んでいるのでは無く、無理やり煽っただけだろう。

 しかし肇の意外な一面を見た。結構負けず嫌いなのだな。

 まぁ、ウチは更に負けず嫌いなのだが。

 と、言う訳で、肇のお銚子に頬擦りをして、お代わりを要求した。

「な、なんだ黒……俺は身体が熱いっつうのに……」

 言いながら肇はウチにお銚子を押し付けた。そして自分は水をカポカポと飲み始めた。

 翌日、早めに宿から出たウチと肇は、その足で大八車と金物を購入。重そうに引っ張って歩く肇を余所に、ウチは荷物の上でそよ風に吹かれていた。

「ぜい、ぜい……し、食料も買わないといかんな……ぜい、ぜい……」

 それには賛成だ。沼に水路を引くと言う、訳の解らん事に使う道具を買う事に比べれば、遥かに有意義だろう。

「問題は金だ。いや、それこそ腐る程あるが、あれを此処に持って来るとなれば、骨が折れるな……」

 汗だくになりながらぼそりと呟く肇。

 確か金の隠し場所は此処より遥か南。普通に行くだけでも半年は掛かるだろう。

 往復一年、定住すると決めた土地から一年も出るのは、今の肇にとっては複雑な心境だろう。

 よし、その金はウチが持って来よう。ウチならば、一晩あれば、全て移す事は可能だ。

 それを肇がどう納得するか、だが……

 遥か南にある筈の金が、一晩寝たら枕元にあった。となれば、肇の中で折り合いがつかないだろう。

 幻術を仕掛けて、ずっと持っていた事にしようか。

 ウチは密かにそう決めた。

 致し方無い。北嶋 肇はウチが護ると決めたのだから。

 全ての買い物を終え、ヘロヘロになりながら島に着いた肇。既に月明かりが沼を照らす時刻となっていた。

「買い物一つに泊まりがけとは……少し考えないといかんな……」

 そうだ、素直に町に移動しよう。

 ニャーニャー言って進言してみる。

「やはりお前もそう思うか。よし、馬を買おう!!」

 違う!!馬じゃなくて引っ越そうと言っている!!

 やはりニャーニャーと騒ぎ立て、異議を申すウチ。

「解った解った。ちゃんと白い馬を買うよ。お前が乗っても映えるようにな」

 したり顔で言われても困る!ウチが目立ちたいと何時言ったんだ!!

「しかし、やはりやりたい事をするとなると、金が必要だな……やっぱり取りに行くか……」

 其方はウチがやるから、馬じゃなくて町に住もうってば!!

 ニャーニャーニャーニャーと前脚までバタバタ暴れさせて抗議するも!

「そうだな。晩飯にしよう。考えるのは明日だな」

 と、これまた全く通じなかった。

 肇は飯屋に握って貰った握り飯を一つ、ウチの前に置く。

「随分遅くなったが、夕餉と行こう。味噌も買ったが、遅いので明日だな、味噌汁は」

 味噌汁はいいから町……まぁ取り敢えず、ウチと肇は遅過ぎる夕餉を仲良く食べた。

 肇が本格的に寝入ったのを確認し、ウチは肇の周りに結界を張る。ウチが居ない時に獣に襲われないようにする為だ。

――朝までには帰って来ますよって、それまでぐっすり寝て待ってなさい

 肇の寝顔をしっかりと確認後、真の姿に戻った。

 遠くに居る獣が息を潜める。村、町に居る獣が平伏する。

 ウチは一応ながら言った。

――ウチの留守中……肇を襲う事は許しませんえ……

 返事は無い。鳴き声を発する事すら憚れる神気を発したから、当然だった。

――では、行って来ますよ肇

 ウチは空高く飛び跳ねて、その儘空を駆けた。

 星明かりを頼りに、肇の残留思念を頼りに、件の岩山へ駆けた。

 肇の残留思念を追う事は、即ち祟られている幕府寄りの者の領に立ち寄る事になる。

 肇の人間にしては長い旅路、その到着点全てが、悪霊によって障られているのを確認した。

 其れ等はウチを見るなり、怯え、隠れたり、逃げ出そうとしたが、生憎とウチの使命に、其れ等を滅する事は含まれていない。

 だから無視をした。と言うより、悪霊を見つけ次第滅していたらキリが無いので、普通は無視をする。

 ウチに限らず、先住の神仏も、己のテリトリーや護る者を脅かさない限りは無視をする。

 ウチは一番古い残留思念を探す。

 肇の残留思念は、西へ東へと、正に当ても無い儘、ただ旅を重ねていた結果なのだろうが、滅茶苦茶で辿るのに些か骨が折れた。

 故に一番古い残留思念を追う事にしたのだ。

 そしてそれは程なく見つかった。

 実に解り易かったのもある。

 まず、その地の城。障られてから長い年月が経ったからだろうが、領主は産まれながらに祟られて、全て早死にしているようだ。遠い血筋の者を領主に添えて、何とか断絶から逃れているようだった。

 働いている人間も全て祟られていた。病に掛かっていない者が一人も居ない。ちょっとした事で死刑になっている奉公人も多数居る。

 町も散々たる物で、盗み、辻斬りは日常茶飯事。それを取り締まる役人も居ない。

 難を逃れるには引っ越す以外に無いだろう。事実、この地を捨て、他へ移り住む者も沢山いるようだ。

 田畑は枯れ、作物も満足に採れぬ土地と化している。水は濁り、長い間飲み続ければ、必ず病に掛かるだろう。

 周りに複数ある村は全て廃村と化し、廃屋には肇に解放された悪霊以外の、寄って来た悪霊の住処となっていた。

 この領は死んでいる。

 ウチは特に興味も持たず、単純にそう思った。縁も無い領に、思う所が無いから、当然の感情だ。

 まぁ、それは兎も角、その中心にそれはあった。

 岩山だ。

 そこに降り立ったウチ。

 かつん、と、後ろ脚で硬い何かを踏んだ。

 視線を向けると、それは半分埋まった頭蓋骨だった。

 そしてよく見ると、其処には無数の躯が散らばっていた。

 正に足の踏み場も無いと言った所だった。

 だが、その者達の魂は無い。全て肇に取り憑いたのだな。

 しかし、この岩山は不浄過ぎる。あの城や町、廃村から集まった数多の霊魂が寄って来て、新たな祟り場と化していた。

 その者達はウチを見るなり、岩山の裏、そして少し離れた木々に身を隠した。神たるウチから逃げようなど、無駄だが。

 ウチは特に気に留める事も無く、子供一人がやっと入れる洞窟を探した。

 霊視レベルを少しだけ上げて探索すると、其処だけ人為的に岩を積み重ねた場所があり、本当に子供一人が通れるかどうかと言う穴が見つかった。

 その先に肇の金が在る。

 ウチは塞いでいる岩を神気で吹き飛ばした。

 轟音が響き、穴が大きく穿った。

 そして住処を荒らされているにも関わらず、ただ隠れるのみの悪霊共。意思が無い輩など、この程度なのだろう。肇に憑いていた連中とは格段に落ちる。

 それはそうと、肇の金を取りに行かねばならない。

 洞窟に入ったウチ。中にも悪霊が居た。肇の金を渡したく無いと、宝にへばり付き、首をいやいやと振りながら、居た。

 凄んだウチ。

――それはウチの護っている者の金。貴様の物では無い。失せろ

 だが、悪霊はひたすら首を振って拒む。

 最早死した者には不要の物だろうに。貴様の金では無かろうに。死して強欲とは、救いようが無い。

――ならば滅せよ。死して尚物欲に執着する者よ

 一睨みすると、ぱん、と弾ける音と同時に、悪霊は消滅した。

 失せればまだ救いの道はあったかも知れないが、物欲に捕らわれている状態ならば、それも不可能か。

 ウチは肇の金を神気で包んだ。そして身体に吸い寄せ、それを『持った』。

――さて、帰りますか。ウチの家に

 未だ怯えて隠れている悪霊を余所に、ウチは肇の金を持って飛び立った。

 もう二度と来る事が無い、この地を振り返る事も無く。

 明け方、まだ肇は寝入っていた。

 何とか間に合ったと安堵し、直ぐ様お金を肇の枕元に置いた。

 枕とは言っても、藁を重ねただけの質素な枕だが。

 厳密に言うと、布団すらまだ無い。更に言うと、家と言うか屋根も無い。

 枝に枝を積み重ねた簡易の屋根が、雨露を辛うじて凌いでいた。

 必要の無い水路などよりも、家を建てればいいのに。いや、町に住めばいいのだが。

 何故頑なに沼の島に拘るのか理解ができない。

「う、ううん……」

 流石簡易過ぎる程簡易な屋根、朝日が簡単に目蓋を刺激する。

 肇は鶏よりも早起きだった。

 慌てて肇の傍らで丸くなるウチ。

「あ~あ……よく寝た……訳でも無いか……」

 夕餉が深夜だったのだ。睡眠時間は短い。

「さて、朝飯の支度を……お?おお?おおおおおおおおおおお???」

 どうやら肇が枕元のお金に気付いたようだ。

「え!?ええ!?何故俺の金が此処に!?あれ?俺持って来たんだっけ!?あれ!?」

 首を捻ったなんてものじゃない。首がねじ切れそうな程、首を回して、脳が頭蓋骨に当たり、脳挫傷になりそうな程頭を揺らす肇。

 ふふ、不思議不思議と、ウチも笑った。

 頃合いを見て、目覚める真似をして起きた。

 肇はウチをひょいと抱く。

「おい黒、不思議な事が起こったんだ。遠い所に隠している俺の金が、何故か枕元にあったんだよ!!」

 真剣な顔をしながら語る肇に申し訳無いが、ウチはぷいっとそっぽを向き、くあーと大きい欠伸をして返した。

 ウチには関係無いですよーと。

「ひょっとしたら、俺に憑いていた奴が持って来てくれたのかも知れん……」

 その問い掛けには、ゴロゴロと喉を鳴らして返した。

 どうでもいいじゃないですか、と。

「いや、しかし、それは現実的じゃないな……俺が持って来ていた、んだろうな……そうだよな……」

 遂にはブツブツ言い始めた肇。言い聞かせようとしているような、そんな感じだった。

 ウチはニャーンと一つ鳴き、肇の手の中から飛び降りて、食器の前で更に鳴く。

「あ、ああ……朝飯が……うん……味噌汁作れるしな………」

 釈然としない肇だが、現実にお金はある訳で、『持って来ていた』に無理やり納得するしか無い。

 今は現実逃避の如く、朝飯を支度するしか無いのだった。

 朝食の後、早速作業に取り掛かった肇。

 一番最初にした事は、木を切り倒して九尺程に切り揃えて、同じ長さの杭を作る事だった。

 とは言っても、切り倒す手間をなるべく除くように、頃合いの倒木を探して切り揃えた。

 この作業は意外と時間がかかり、肇は三日を費やして、およそ10本程の杭を作った。

 それを沼と沢を結ぶように、これまた九尺度の間隔で打ち付けた。

 内一本を試しにと、強く沼に打つ。

「ほら見ろ黒。底無しと言われてはいるが、四尺から先は掛け矢(杭を打ち込む時に使う大型の木槌)を使わないと打てない」

 確かにそうだが、この場所がたまたま浅かっただけ。現に深い所は、大人がすっぽり収まって、尚且つ万歳をしても、指が水面から出るか否かの深さまである。

 ……待てよ?

 何故あの場所がたまたま・・・・浅い?偶然か?いや……

「俺の睨んだ通りだ!多分そうじゃないかと思ったんだよ。見な、黒」

 肇の指刺した先。水路を作ると言った場所。沢と沼を結ぶ道、いや、草が伸び放題の陸地に、微かだが、抉られたように轍ができている。

 以前にも此処に水路があったのか?いや、水路云々以前に、あの沼に足を踏み入れる者はいない。魚も棲んでいない、ただの泥水、要するに使えないから、立ち入る必要もないからだ。

 ウチの疑問を余所に、肇は次の作業に取り掛かった。

 打ち付けた丸太杭に、今度は横に丸太を括り付けた。二段、三段、四段と。

 壁?擁壁か?

 ウチの予想通り、それは強固な擁壁となった。

 だが水路を作る筈。擁壁の意味は何だ?

 次に漸くと言うか、溝を掘り始めた。

 沢から沼に繋がる水路。それは深さも幅も、先にあった水路を越えた。

 完成した水路。それになぞるように、下側にだけ作られた擁壁……

 ウチには理解不能だったが、肇は満足そうに頷いた。

「かなぁり日数は掛かったが、それなりには出来たな。さて、寝床を作ろうか黒。いつまでも枝で作った屋根じゃ、雨が降ったら心許無いだろう」

 いや、初めに家作れよ。いや、町か村に住めよ。

 ウチの突っ込みなど肇には届く筈も無い。肇は黙々と家、いや、小屋を作り始めた。

 簡易的な小屋。頑丈な擁壁付きの水路。取り敢えずではあるが、目的を達成した肇は、暫くはゴロゴロ過ごしていた。

 いや、また町に出て買い物はしたが。食料や金物、そして馬を買うか最後まで悩んでいたが、断念した。

 何か「まだ早い」「来年だな」と、ブツブツ言っていた。

 一体何がしたいのやら、だ。

 買い物帰りには、必ず田んぼと川を見て回った。

 その都度、「やはり」「以前もか」と、ブツブツ言っていた。

 一体何を感づいたと言うのか、だ。

 そして小屋でゴロゴロしている肇だが、時折外に出ては空を見上げていた。

「まだか?」「今年は無理か?」と、ブツブツ言っていた。

 一体何を待っているのやら、だ。

 そんな日々が続き、季節は秋となった。

 もう直ぐで米が収穫できる。

 そんな時期、いや、そんな時期だからこそ、あれが来た。

 それは台風。

 豪雨を纏いし暴風は、収穫物に多大な被害を及ぼす。毎年毎年この時期は、農民が頭を悩ませる時期なのだ。

 そしてこの時の台風は、少なくともウチがこの地に来て初めて体験した、超巨大な台風だった。

 肇の小屋など簡単に吹き飛んでしまうだろう、超巨大な台風。沼にも雨が降り注ぎ、それは下手をすれば、小屋が水没してしまうかも知れない程の雨量だった。

 さぞかし心細かろう。

 そう思ったウチだが、肇は歓喜しながら外に出た。

「来た!来た来た来た来た来た来た来た来た!!これを待っていた!!」

 感謝の抱擁の如く、天に向かって両腕を広げた。

 ウチは本気で心配した。肇はおかしくなってしまったのか。と。

 肇は土砂降りの超暴風の中、歓喜しながら走り出した。

 慌てて後を追うウチ。ニャーン!ニャーン!と声を張りながら追う。

「おっと黒!心細かったか?すまんすまん!!」

 びしょ濡れの肇が、びしょ濡れのウチを抱き上げる。

 そして対岸の沢に指を差し、言った。

「見ろ黒!俺の読み通りだ!!」

 水路の事か?読みも何も、これだけの豪雨だ。沢を頼らなくとも水は増える。

 と、思ったウチだが、水路を見てぎょっとした。

 沢から、大量の土砂が、水路を伝って沼に押し寄せていたのだ!!

――こ、これは……いや、この土砂にどういう意味が……?

 驚くべきだが、肇は確かにこの状況を狙っていた。

 だが、その意味が解らない。

 埋め立て?いや、この沼は泥が蓄積されていて、あの程度の土砂じゃ、埋め立ては不可能……

 ウチの疑問を余所に、肇はウチを抱え上げてクルクル回る。

「喜べ黒!!これで田んぼが作れるぞ!」

 にゃ!?

 思わず素で言った。

 は?と。

 肇は土砂が流れている箇所に指を差す。

「いいか黒、田んぼに必要なのは肥沃な土。この沼の泥はその条件には合格だが、如何せん底が深過ぎだ。だから埋め立てしなきゃならないが、ただ埋め立てすればいいってもんじゃない。水捌けの良い下地が必要なんだ」

 確かにそうだ。水田は、稲穂が出てから暫くして水を抜く。水捌けが悪い土地は、暗渠あんきょ(地下に作った水路)を設けて、水を抜いたりしなければならない。

 それで土砂、砂利が必要だったのか!!

 砂利を運ぶのは一苦労。通常は、山から運んだり、川から運んだり。

 肇はあの沢から砂利を引っ張ったのだ。台風による豪雨を利用して!!

「何度か村に降りて解ったが、この地は昔に沢から土砂が流れて田んぼが駄目になった事があるようだ。川は浅いし細いしで、土砂が押さえ切れなかったんだな」

 そうか!それで川や水田を見ていたのか!あの水路を設けたのも、あの場所が以前土砂が流れた事があったからか!

 だから他の箇所よりも底が浅かったのか!!

 何という知恵と眼力!!

 恐らくは長年憑いていた霊の誰かが、地質学や測量を教えたのだろうが、それを見事にやってのけるとは!!

「それに、沼に土砂を流した事により、村の田んぼに被害も行かない。どうだ黒!俺は村の役に立ったかも知れんぞ!!」

 役に立ったなんてもんじゃない。治水は領主、藩主の仕事だ。以前にも災害があったとなれば、それ相応の対策をしなければならないのだが、川を見る限り、何の手も打っていない事は自明の理。

 肇は領主、藩主の仕事を、たった一人でやったのだ。肇は村を、領を守ったのだ。

 最近まで忌み嫌われ、恐れられた男が、見返りも求めず、いや、勿論自分の為でもあろうが、兎も角たった一人ぼっちの肇が、多くの民を救ったのだ!!

「流石に沼全体を埋め立てする事は叶わなかったが、取り敢えずは人並みには稲作ができる!今年はもう無理だが、来年に向けて整備するぞ!!」

 ウチはウンウン頷く。最早肇のやりたい事には口出しもしない。いや、これからはウチが全てを以て護り抜く!

 そこまで思った程にウチは感動した。肇の知恵、知識、そして先見力に。

「だが、先ずはやはり家かな?流石に鳥の巣に近い小屋は住み心地が悪い」

 そうだな。冬に向けて布団は必要。竈も欲しい。

「まぁいずれ、台風が去った後だな。全てはそれからだ!!」

 そう言って肇は小屋に帰る。

 ウチを優しく抱き抱えた儘。

 この温もりが肇だ。

 初めて出会った時に、頭を撫でられた時に感じた温もり……

 この温もりが村を救う事にも繋がったのだと、ウチは思った。

 勿論水田も欲しかったのだろうが、それ以上に民を案じて行った事。

 知恵、知識よりも、温もりが北嶋 肇の真骨頂。

 だから悪霊も肇に全てを捧げたのだろう。己の業を二の次にして。

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