雫2粒 最初の雫、ひとしずく
昇降口で靴を履き替える。金属製の下駄箱が小さく鳴り、湿った空気が足元を抜けていく。誰とも目を合わせず教室に入ると、会話が一瞬止まり、すぐにまた笑い声が戻った。
僕が席に着いても、誰も何も言わない。
それが、いつもの光景だった。
『ハルはあそこに混ざらないのか?』
「僕は別にいいんだよ。」
祖父が亡くなってからというもの、僕は他人に合わせて生きるのをやめた。
窓の外——雲ひとつない青空と、校庭の向こうに揺れる木々。
そのどこにも、僕の居場所はなかった。
——放課後。
『なかなか学校とは面白いものだな』
「そうか?」
チャイムの余韻がまだ教室に残るうちに廊下へ飛び出す。窓際から差し込む西日の赤が背を押し、昇降口まで駆け抜けた。靴を履き替え、外の空気を吸い込むと、肺の奥まで夕暮れが入り込んでくる。
ペダルを踏み込むたび、チェーンが軽やかに歌い、制服の裾を小さく翻す。風はまだ冷たく、頬をかすめるたびに昼の熱が遠のいていった。
『もう帰るのか?』
「いや、行く所がある」
『どこなのだ?』
「神社」
祖父宛に届いた一通の手紙。差出人は古燈神社。切手も消印もない——投函した誰かの指の温もりが、まだ紙に残っていそうな気がした。
机の端に置きっぱなしの封筒。触れるたびに、胸の奥で波紋のようなざわめきが広がる。
祖父と何度も歩いた石段の記憶に引かれるように、ハンドルを自然とそちらへ向けていた。
『何しに行くのだ?』
素直な問いに、口の端だけで笑う。
「お前をな、お祓いに行くんだよ」
『ええー!』
驚きが声の色を変えたが、すぐに落ち着きを取り戻す。
『良いが……お主は死ぬぞ』
……あ、そうだった。
「……すみません」
軽口は、夕風にかき消される間抜けな沈黙を残した。
やがて大通りと歩道橋が見えてくる。もう少しで神社に——そう思った矢先、視界の端で何かが揺れた。
歩道橋の中ほど。背を丸め、手すりを頼りに、一段ずつゆっくり上る高齢の女性。
その瞬間——突風。
上着の裾がばさりと跳ね、身体が後ろへ仰け反る。
「──あ」
十数メートル先。普通なら届かない。
けれど、ためらいは一切なかった。
エリムと出会った夜を思い出す。
失った右腕を包んだ、あの異形の力の感触を。
「エリム!」
『わかっておる!』
自転車を飛び降りる。着地の直前、右足が熱を帯び、骨の奥に赤い稲光のような衝撃が走る。
足首から脛へ、硬質な鱗が這い上がり、スラックス越しにも重みが伝わった。
——ズンッ。
地面が低く唸り、破片が足元で跳ねる。
一歩で景色を引き寄せ、鼓膜を震わせる風を裂き、瞬きの間に女性の背後へ。
「っ届け!」
あと半歩の距離で腕を伸ばし、その身体を抱きとめる。
軽い。だが、もし遅れていたら階段の影に消えていたはずだ。
「だ、大丈夫ですか……!」
「おお……。もうダメかと思ったわ」
皺の奥で瞳が優しく細まり、夕日がその笑みを縁取る。
間に合った——ただ、その事実だけが胸を満たした。
女性の腕を支えながら歩道橋を渡る。
「ありがとう」
その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「やっぱりあんた、良い男だねえ」
……どこかで会った覚えが?
「お礼にこれを受け取っておくれ」
差し出されたのは、手のひらに収まる硝子瓶。淡い青を帯びた滑らかな表面に、真鍮色の線が網のように絡んでいる。
「僕は別に——」
「ほら、受け取っておくれ。年寄りに恥をかかせるもんじゃないよ」
女性は半ば強引に僕の手を取って、小瓶を渡してきた。
よく見ると淡い青を帯びた滑らかな硝子瓶に、真鍮色の繊細な金属線が網目状に巻かれた、不思議な存在感を放つ装飾瓶だった。
「改めてお礼を言わせておくれ。」
女性はそう言うと腰を折った。
「ありがとう。」
すると、ひんやりとした硝子が手の中で、次第に指先へじんわりと熱を伝えてきた。
「あったかい……。」
そして次の瞬間──ぽうっと、内側から灯るように光った。
「あの、これなんです……え?」
顔を上げた時には、女性の姿はもうなかった。
なんで?周囲を見渡しても見当たらない。
「なあエリム、どこに行ったか知ってるか?」
『……もしや、あのご老人──』
どこか遠い目をするエリム。それきり、黙ってしまった。
どこか腑に落ちない気持ちと、エリムのその言葉の意味を理解できぬまま、僕は再びペダルを漕いだ。
その手には、小さな瓶と、ほのかな温かさだけが残っていた。
◇◇◇
石段を登りきると、朱と影が交じり合う古燈神社が夕暮れに浮かび上がった。
拝殿と本殿、社務所まで備えた小さな境内。社務所のカーテンは閉ざされ、人影はない。
ただ一人、拝殿前を掃く神職の姿があった。
『んっ……?』
エリムが小さく身を竦める。
『ちと……妙な気配を感じるの……』
「え?」
「宮坂くん?」
背後から声が飛び、振り返ると黒髪の少女——月島あずさが立っていた。
薄く風が吹き、彼女の長い髪が揺れる。その奥の瞳が、夕日の色を映して一瞬だけ柔らかくなる。
「偶然ね。宮坂くんもここにお参り?」
「あ、ああ……。そんなとこ。月島は?」
「私もそう。」
まさかクラスメイトにここで会うとは。
月島は少し寂しげに笑い、僕の手元へ視線を落とす。
「その瓶……何?」
僕は先ほどの瓶を、無意識にポケットから出していた。
「ああ、これ? さっき貰ったんだ」
瓶を掲げると、月島は不思議そうに眉を寄せた。
その時——拝殿で掃除していた神職の青年が近づいてくる。
「少し、よろしいですか?」
穏やかな声音に、何かを見抜くような眼差し。白を基調とした神職の衣装に、黒い袴を合わせた厳かな出で立ちをした青年が声をかけてきた。
夕日が落ちるより早く、胸の奥で何かが形を変えようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます