雫3粒 届かない頼みと呪いの声

では君が──次の“守りまもりびと”という事になる。」


 そう言ったのは、境内の奥に立っていた神職の青年──神薙かみなぎと名乗った男だった。


 ——守り人。


 その言葉を聞いた瞬間、僕は呆然と立ち尽くしていた。


 まるで冗談みたいな響き。けれど、どこか胸の奥にじんわりと沈んでくる不思議な重みがあった。

 

 隣では月島が、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。

 

 僕はゆっくりと石段の下を見下ろす。

 夕暮れの空は朱と藍が溶け合い、街を薄い影で包みはじめていた。

 いつか祖父と通った小さな神社も、今は異界への入り口のように見える。


 右手には、先ほどの老婆から押し付けられた小さな硝子の瓶。

 左手には、祖父宛に届いた一通の手紙。


 最初は空だったはずのその瓶の底に、今はほんの一滴、光のような雫が揺れている。

 

「……妖異。澄想ノちょうそうのびん。」

 

 額に汗がにじむ。現実感が削れていく感覚に、息が浅くなった。

   

「そうだ。」

 

 神薙はどこか人間離れした空気を纏い、目の奥に得体の知れないものを宿している。


「その瓶に宿るのは“感謝の雫”。人の想いが形になるものだ。そして、君の役割は——それを集めること」


「……つまり、感謝を集めて、焚べろってこと?」


「ああ。“冥灯めいとう”に。君の力で、今あるこの街の影を照らすんだ」


 瓶の光を見つめ、僕は息を吐く。

 

「……こりゃ、断れそうにないな」


 朱と藍が溶け合う空の下で、僕はどこか諦めたように空を仰いだ。


 しかし“感謝を集める”か。

 地味だけど、難しくはないだろう。要は人に有難いと思われる行動をとればいいだけのことだ。


 ふと隣を見やると、月島が瓶をじっと見つめていた。


「……本当に、やるの?」


 かすかな声でそう呟くと、彼女はポケットに手を入れながら、そっと視線を逸らした。

 

「ああ。さすがにああ言われたら断れないだろ。」

 

 説明が終わった神薙は背を向けて去って行く。その後ろ姿を月島は見つめていた。


「何か用でもあるのか?」

 

 僕が聞くと、月島はパッと取り繕う様にした。

 

「大した用じゃないんだよね。ただ……。」

 

 何か言いにくそうにしている。


「仕方ない。そういう事だから、僕で良ければ話を聞くよ。」

 

「でも、ほんと大した事じゃないんだよ。」

 

「いいって。明日の放課後にまた会おう。それでいいだろ?」


 僕がそう返すと、月島は少しだけ目を細めて頷いた。

 ──何かが始まった。そんな予感だけが、僕の胸の奥にじわりと広がっていた。 


 ◇◇◇

「声が聞こえる?」

 

 ——翌日の放課後。

 

 思いもよらない言葉に、僕は思わず聞き返していた。


 古燈神社の近くにある公園。

 夕陽が傾き、ベンチの影が長く伸びる。

 月島は端に腰掛け、制服の袖をぎゅっと握っていた。

 その手が、かすかに震えている。

  

「……うん。」

 

 目を伏せたまま頷くと、長い黒髪が風に揺れた。

 赤と影のコントラストが、妙に胸に残る。


「それってどんな声なんだ?」

 

「最初は……小さく囁くような声だったの。耳鳴りみたいに」


 そこで一度言葉を切り、顔を上げる。

 夕陽が頬にまだらな影を落としていた。

 

「でも最近は、はっきり聞こえるの。“シネェ……シネェ……”ってまるで、呪いみたいに。」

 

 言葉の最後は、かすれるような声だった。

 ふと、視線が交わる。月島の目は、助けを求めるようにこちらを見ていた。

  

『間違いなく妖異だの。』

 

 エリムの声が心の奥に響いた。 

 

「だいぶストレートなやつだな。」

 

 思わず口に出た僕の言葉に、月島が眉をひそめる。

 

「……やっぱり変……だよね。」

 

「ああ、いやこっちの話だよ。」

 

 ごまかすように笑ったが、月島は不安そうに視線を落とした。

  

「これって、昨日神薙さんが言ってた妖異ってやつ……かな?」

 

 僕は返答に詰まった。


 昨日の神薙の説明では妖異とは“禍いの象徴”とまでしか言っていなかった。

 

 しかし本来は人間を精神的に追い詰め、自殺に追い込む。これがやつらの目的だというのは、妖異であるエリム本人から、あの後直接聞いた僕しか知らない事実。


 その事実を彼女にベラベラと話してしまっていいのだろうか。

 

 ——きっと怖がるに違いない。

 

「ねぇ……宮坂くんはさ、こういうの……信じる?」


「ん?」


「“人の声が聞こえる”とか、“誰かに呪われてるかもしれない”とか……変な話だよね。やっぱり」

 

 月島は小さく笑った。その笑みは、口元だけが上がっていて、目元はまったく笑っていなかった。ベンチの足元、落ち葉が一枚、風にさらわれて転がっていく。


 ——妖異に苦しむ少女。


 これを解決すれば、彼女に感謝してもらえるかもしれない。雫を集めるチャンス。

 そんな打算的な考えが一瞬頭を過った。

  

「いつからなんだ?」

 

「えっと、二週間前ぐらい……かな?」

 

 二週間前か……。どうなんだろう。

 妖異が取り憑いてから、どの程度で人を殺める事に成功するのだろうか。

 

 そういえばエリムは妖異が取り憑くには、その人の心の弱みにつけ込むとも言っていた。

  

「もしかしてさ、最近何か嫌な事あった?」

 

「えっ……?」

 

 僕の言葉に、月島はぴたりと動きを止めた。

 その沈黙は、ほんの数秒だったはずなのに、やけに長く感じられた。

 

 ……これは何かあるな。

 

「もしかしたらヒントになるかもしれないから話してくれないかな。」

 

「でも……。」

 

 逡巡する月島。しかし少しの間の後、徐に口を開いた。

 

「絶対、誰にも言わないって約束してね。」

 

 それだけ言うと、ぽつりぽつりと説明し始めた。

 

 両親がうまく行っていない事、離婚しようとしている事、自身が両親にとって不要な存在なのだと考えてる事。

 

 事のあらましを全て。吐き出す様に。

 

「ど、どうかな……。」

 

 それ以上は言葉にならなかった。

 月島は唇を噛んで、堪えているように見えた。

 

「どうかなって……。」

 

 ——重たい。

 

 めちゃくちゃ重たい。というか僕に解決できる悩みのレベルじゃない。

 もっと何かが出来ないとか、叶えたい事があるとか、そういうものだと思っていた。

 

 雫を集める機会だと思っていたのに、完全に肩透かしを食らった。僕は大きくため息を吐いた。

 

「さすがに様子を見るしかないんじゃないかな。」

 

「そう……だよね。」

 

 その瞬間、月島の表情から色が抜けていき、細く開いた唇から、ため息が漏れた。  

 

「ごめんね。変な相談して。忘れて。」

 

 彼女は静かに立ち上がった。

 バッグを肩にかけ、ひとつもこぼさずに整えた仕草が、やけに丁寧だった。

  

「あ、送って……。」

 

「いらない。」

 

 きっぱりと言い切ると、月島は背を向けた。

 背中が少しずつ遠ざかる。

 追いかけようと思えば追いつける距離なのに、足は動かなかった。

 まるで、二度と追いつけない距離になるとわかっているみたいに。 

 

 すると月島は途中で足を止めて、どこか別の方を見た。

 

 視線の先には、街の南──誰もいない、夕闇に沈みかけた空だけがあった。

 その一瞬が、なぜか胸に引っかかる。そして彼女は振り返ると。

 

「バイバイ。宮坂君。」

 

 手を振る月島の表情は笑っていたけれど、その瞳の奥は赤く濁っていた。

 夕陽に照らされる髪を揺らして、月島は歩き去ってしまった。

  

 突然の出来事に僕は理解出来ないままベンチに沈み込んだ。

 

『ちょっとよいかの。』

 

「なんだよ。」

 

『何と言うか、今のお主は感じが悪いな。』

 

 ……え?

 

 エリムからの予想だにしない言葉に僕は返答に詰まった。

 

『体がリンクしている分、お主の考えは私の中にもダイレクトに伝わる。』

 

「だったらなんだよ。」

 

『つまり今のお主は、雫を集める事しか考えてなかったろう。』

 

「悪いことじゃないだろ?それが僕の仕事なんだから。」

 

 エリムはこれだから、と言って大きくため息を吐いた。

 

『あの女子は真剣に相談していのではないのか?』

 

「……。」


『きっと最後の頼みの綱を握ってきた。お主は、それを…計算で切り捨てたのだ。』


 返す言葉がなかった。どうしようもなくエリムが正しい。


 彼女の言葉より、自分の“仕事”のことばかり考えていた。

 それが相手にどう映ったのか──なんとなく想像できて、ひどく、後味が悪かった。


『気づいてなければよいがの……。』

 

 その心配は、翌日すぐに現実となった。

 月島は学校に来なかった。

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