第一章 月島の苦悩
雫1粒 妖女と一生離れられなくなった朝
「おーい! 起っきろー!」
「ウッファ……!」
朝の静寂をぶち破る甲高い声と、みぞおちを直撃する衝撃。肺の奥まで押し込まれた空気が、苦しげな声と一緒に漏れた。
朝日を背に、赤い長髪を高く結った少女が、にかっと笑いながら僕の腹の上に腰を下ろしている。年の頃は十歳前後、瞳は子猫のように光を反射し、やたらと生き生きしていた。
「……誰?」
寝ぼけた声で問うと、少女は僕が上体を起こす動きに合わせて軽やかに身を翻し、床へ音もなく着地した。
「誰とは失礼な! 我が名はエリム・インフィリア・レガオーガ!」
胸を張り、勝ち誇ったように名乗る。
差し込む朝日が、彼女の赤髪を燃やすように照らし、その光が床に長い影を落とす。
だが、僕は眉間に皺を寄せ、低く返した。
「結局、誰だかわからねえよ。」
むくれた少女の眉がぴくりと動く。
「私と一緒になったであろう。」
お前と……? 僕の記憶にあるのは、赤い髪の大人の美女だったはずだ。
戸惑う僕を見て、エリムはさらに唇を尖らせる。
「助けてくれであろう。嬉しかったのお。まさか人間が手を差し伸べてくれるとは思わなんだからな。」
「……待て。僕が助けたのは美しい美女だ。ロリっ子じゃない。」
「おお! 美女か。照れるぞ。その美女が私だ。」
言葉が凍りつく。そんな話、聞いてない。
あの時、死ぬか美女と同化するかの二択だったから即決したんだ。……決して下心があったわけじゃない。多分。
「なんで幼児化してるんだよ。」
「他に聞くことがあるであろう。」
鋭く切り返され、言葉を詰まらせる。
だが、この疑問を片付けないことには先へ進めそうにない。
僕の視線を正面から受け、エリムは小さく息を吐いた。
「力の使い過ぎかもしれんの。お主の腕を回復させるのは骨が折れた。流石に疲れたぞ。」
「なるほど。じゃあ回復したら、また美女モードに戻るんだな。」
その可能性に口元が緩んだが、次の言葉がその淡い期待を粉砕した。
「まあ、こっちの方が楽だから、このままでいるがの!」
「ええっ!」
声が裏返る。
彼女は悪戯っぽく笑い、くるりと回って見せた。
「なんだ? 可愛くてよいだろ?」
幼児化に伴って口調まで軽くなっている。
僕は苦い顔で言い返す。
「僕にはもう同じようなやつがいるんだよ。今にも声を掛けてくるぞ。」
すると——コンコン
「お兄ちゃん、起きてるー?」
扉越しに聞こえる、妹の陽菜の声だ。
僕はエリムに「ほらな」と目で告げ、扉越しに適当に返事をする。
「おお! 妹がおるのか!」
「そういうこと。……で、僕たちは同化したんじゃないのか? 離れられるのか?」
「心配には及ばん。私の核はお主の中にいるからな。」
「そうか。じゃあ僕は朝食を食べてくるけど、お前はここにいろよ。」
「なぜだ?」
「付いてきたら色々説明に困るだろ?」
立ち上がった僕の腕を、エリムが掴んだ。
「待つのだ。一定の距離を離れると、私とのリンクが切れて、お主が死ぬおそれがある。身体に戻るとするぞ。」
そう言って抱きついた瞬間、赤い光がふわりと舞い、僕の胸の奥へ吸い込まれるように消えていく。
「え?!」
耳に残ったのは、信じ難い台詞と残像だけ。
脳が理解を拒む僕に、声が響く。
『どうしたのだ? ご飯を食べに行かなくて良いのか?』
「ちょっと待て。リンクが切れたら死ぬって……どういう……」
『どうもこうも、そのままの意味だの。』
「つまり僕は、お前と離れたら死ぬのか?」
『……もちろんだ』
その一言の直前、声がわずかに低くなった気がした。胸の奥がきゅっと縮み、背筋を伝って冷たいものが降りていく。
『お主は右肩から下と、大量の血を失っておる。失ったものは簡単には戻らんだろ?』
背筋から血の気が引いていく。
「ということは……僕は一生お前と一緒なのか?」
返事の前、部屋の空気がぴたりと止まった気がした。
静まり返った中で、自分の鼓動だけが耳に響く。
『もちろん!』
「じゃ、プライベートは?」
『ずーっと一緒だ。』
弾んだ声が脳裏に響く。
もし目の前にいたら、きっと可愛くウインクでもしているだろう——その未来予想図に、僕は言葉を失った。
◇◇◇
朝食をそこそこに済ませ、家を出た。玄関の戸を閉めると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
『これが自転車か! 速いのお!』
心の奥から弾むような声が響く。ペダルを踏み込むたび、チェーンが軽く鳴り、前輪がアスファルトを切り裂く。
「ところでさ、お前は実際のところ、何者なんだよ。」
一拍置いて、エリムの声が静かに返ってきた。
『言うたであろう。私の名はエリム・インフィリア・レガオーガ。』
「名前じゃない。種族とか立場とか……そういう意味の“何者”だ。」
少しの沈黙。タイヤが地面を擦る音だけが続き、やがて——
『……妖異だの』
耳に残るその響きは、どこか湿った風の匂いを運んできた。
妖怪?怪物?けれど、ただの怪物にはない、人に近い呼吸の温度を感じる。
「……知らないな、それ。」
『知らぬ方がよいの! 面白い話でもないしの。』
何かを隠している——そんな匂いがした。
「そういえば、僕も名前はまだ言ってなかったよな?」
『母が“陽彦”と呼んでおったぞ』
確かにそうだ。
『ハル、だの』
「おい、勝手に縮めるなよ」
『これに決めたのだ、ハル! ふふ、良い響きかの。』
……好きにしてくれ。
そんな会話を交わしているうちに、校舎の屋根が視界に入ってきた。
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