第14.5話 『静かな幕間』
【幸枝編】
相原さんを初めて知ったのは、入社式の日だった。
周囲の女性たちがざわめく「イケメンがいる」という噂を耳にし、思わず目を向けた瞬間、その姿に一目で心を奪われた。
ある日のこと。急いで廊下を歩いていて、書類をばら撒いてしまったことがある。慌てて拾い集めていると、横から誰かが一緒に手を伸ばしてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
お礼を言って顔を上げると、その相手は相原さんだった。
彼は軽く会釈を返すと、拾い終えた書類を静かに私の手に渡し、何事もなかったように去っていった。
その一連の動作に、胸の奥が強く締めつけられた。――好きだと思った。
その時の私は、入社間もない地味な新人に過ぎなかった。
こんな私じゃ相手にされない。そう思い、必死に自分を磨いた。
美容雑誌を読み込み、自分に似合うメイクを研究し、食事や運動にも気を配った。気づけば、5キロのダイエットにも成功していた。
その間、相原さんに告白しては撃沈していく同僚たちを何人も見てきた。
(あの人の目には、誰も映らない……)
それは、誰にも奪われないという安心であると同時に、私自身も決して見てもらえないのではという、不安でもあった。
***
ある朝、同じ電車に乗っている相原さんを見かけた。声をかけたかったけれど、私にそんな勇気はなかった。
ただ、少し離れた場所から彼を見つめていると、視線の先に一人の女性がいることに気づいた。
(誰……?)
社内では見たことのない女性だった。
それからも、電車や駅で彼の姿を見かけるたび、いつもその女性の姿があった。
最初は見つめているだけだったはずの彼が、いつの間にかその女性と並んで話している。
ぎこちないながらも、少しずつ距離を縮めていく二人。誰と話しても壁を作っていた相原さんが、今ではその人の前で笑っている。
焦りが胸を焼いた。
今まで誰にも見せたことのない笑顔を、どうしてその人にだけ――。
ダメ元で告白し、OKをもらった時は天にも昇る気持ちだった。けれど、それがただの誤解だったと知った瞬間、世界が崩れ落ちた。
それでも、彼が「申し訳なかった」と謝ってくれたとき、私はまだ希望を捨てきれなかった。
これが最後のチャンスかもしれない――そう思った。
相手の女性には牽制を、相原さんには再びアプローチを。
必死だった。惨めなほどに。
けれど、結果は変わらなかった。
最初から、勝ち目なんてなかったのだ。
あの日、相原さんが彼女を見つめていたことに気づいた瞬間から、私は悟っていた。
――相原さんは、桐島さんのことが好きなんだ。
本人すら気づいていなかった想いを、好きな相手を見つめるその眼差しで気づいてしまうなんて。
皮肉な話よね……。
それでも、簡単に諦めるなんてできなかった。
五年以上も想い続けてきた相手なんだもの。
無かったことになんて、できるはずがない。
だからこそ、罵ってやらなければ気が済まなかった。
あの人を責めて、傷つけて、少しでも自分の心を守りたかった。
なのに――
『桐島さんが誰と出かけようと、誰と手を繋いでいようと、僕の気持ちは変わりません』
『私は、私が見てきた相原さんを信じます』
二人の真っ直ぐな瞳が、胸を貫いた。
自分の気持ちを疑わず、ただ信じている。
あんな二人に――
『敵うわけ、ない』
桐島さんにも聞こえないほどの小さな敗北宣言が、唇からこぼれ落ちた。
溢れる涙は、もう止められなかった。
無理だとわかっていても。
もう、私を見てはくれないと知っていても。
それでも――
「あなたのことが……心から、好きでした」
小さく呟いた言葉は、夜風に溶けるように、誰にも届くことなく消えていった。
************
【小野編】
桐島さんに気持ちを伝えるため、待ち合わせ場所へ向かう相原の背中を見送った。
(今度こそちゃんと、自分の正直な気持ちを伝えろよ)
心の中で、静かに念を送る。
思えば、最初に相原に気になる人がいることを知ったときは、できすぎた同期を
モテるのに女の影も噂一つない男――それが相原真一だ。社内の女性から告白されても、淡々と、でも誠実に断っていく。
一度だけ、興味半分で「どんな女ならいいのか」と聞いたことがあった。その時も恋愛に興味が無さそうで、どちらかと言えば恋愛そのものを諦めているように見えた。
そんな相原が、あそこまで一人の女性を想う日が来るなんてな……。
良かったと思う反面、ふと考えてしまう。
もし自分も、あのとき彼女に対して、あいつのように素直に気持ちをぶつけられていたら――
今とは何か、違っていたのかもしれない。
***
二年前のあの頃、俺には誰よりも大切な人がいた。
恋人として過ごした数年間、他愛もないことを話しては、よく笑い合っていた。喧嘩らしい喧嘩をしたこともなく、このまま自然と結婚するんだろうとぼんやり思っていた。
どれだけしんどい日でも、彼女の笑顔を見られたらそれだけで吹っ飛ぶくらい、本気で彼女のことが好きだった。
でも彼女は、俺との時間を無くしてでも優先したいことがあったらしい。
時折、週末に「用事がある」と会えないことがあった。「用事って何?」そう聞いても彼女ははぐらかすだけだった。
もしかして――。
考えたくもない想像が頭をよぎる。
信じたいのに、信じきれない。そんな自分が、いちばん嫌だった。
ある日のことだった。
その日は「用事がある」と言われていたが、どうしても気になって、連絡もせずに彼女のアパートを訪ねた。ドアを開けた彼女は明らかに動揺していて、なかなか部屋に入れてくれなかった。
――まさか、浮気相手でもいるのか。
疑心暗鬼になった俺は、半ば無理やり部屋に上がり込んだ。
けれど、そこには誰の姿もなかった。
代わりに、机の上や本棚に見慣れないものが並んでいた。アニメ雑誌、ゲームソフト、グッズのようなもの……。どれもキラキラした男性たちが描かれていて、まるで別世界のようだった。
そして、気づけば言っていた。
「……なんだよ、これ。気持ち悪い……」
本心じゃなかった。
ただ、あの“完璧な彼女”がこんなものを集めていたことへの驚きと、浮気じゃなかったという安堵が一気に入り混じって、言葉が滑り出たんだ。
でも、それも全部――言い訳に過ぎない。
どれだけ弁明しても、彼女は何も聞いてくれなかった。そして静かに、別れを告げられた。
「別れたくない」「あれは誤解だ」
何度もそう言ったけれど、すべてはもう遅かった。
彼女は、俺の前から去っていった。
***
相原の好きな相手について話を聞いたとき、その女性がかつての彼女と同じ趣味を持っていると知った。
「そんな趣味の持ち主で、嫌悪感とか抱いたりしねぇの?」
あの時の自分の言葉を、少しでも正当化したかった。そんな打算的な気持ちから出た問いだった。
けれど相原は、何を言ってるんだ? という顔で言った。
「別に、何も思わないが?」
むしろあいつは、自分の好きなものを堂々と好きと言える彼女に、心から好感を持っているようだった。
冷水を浴びせられたような気分だった。
――俺も、彼女も、間違えていたんだ。
彼女は自分の好きなものを隠す必要なんてなかった。
そして俺は、それを受け止められる器であるべきだった。
「小野? どうした?」
「……いや、なんでもない」
泣きそうな自分を見られたくなくて、下を向いて誤魔化した。
俺は今でも、あの時の彼女の顔を忘れられない。
好きな人を笑顔にするどころか、あんなにも傷つけてしまった俺は、男として失格だ。
だからせめて――。
俺にはもう取り戻せない幸せを、相原、お前には掴んでほしいと心から願っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます