最終話『届いた想い、始まる恋』

顔を上げた先に、相原さんがいた。

一瞬、時間も場所もわからなくなって、目の前にいるのが本当に相原さんだと理解するまで、少し間があった。

このひと月のあいだに色んなことがありすぎて、ついこの間まで一緒に通勤していたあの日々が、まるで遠い夢みたいに思えた。


「……こんばんは」


いつもの穏やかな、少し低めの声で挨拶をされて、私の心臓は一気に動揺の波に飲まれた。


「こっ、こんばんは……」


声が裏返ってしまった。


「お時間取っていただいて、すみません」

「いえ……」

「どうぞ、こちらへ」


勧められたのは、二人がけのソファ席だった。

向かい合わないぶん視線を逸らせるけれど、その距離の近さが余計に落ち着かない。服の袖が少しでも触れたら、心臓の音が聞こえてしまいそうだ。


「何か飲まれますか?」


メニューを差し出された。見ると、テーブルには相原さんが頼んだのだろうコーヒーが置かれていた。


「あ、じゃあアイスティーで……」

「わかりました。——すみません」


店員さんを呼んで注文を済ませると、相原さんがこちらを振り返った。


「波多野さんから、何か聞いてますか?」

「いえ、何も……」

「そうですか……」


そういえば——。

相原さんと美咲先輩って、もともと知り合いだったんだろうか。少なくとも、二人ともそんな素振りは見せていなかったはずだ。


「あの、美咲先輩とは、お知り合いだったんですか?」

「いえ……知り合いというか、知り合ったというか……」


なんだか歯切れが悪い。言いにくいことでもあるのだろうか。


「あっ……私には関係ない話ですよね」

「いえ! そういうわけではなくて、何と言って説明すればいいのかと……」


どう話そうか迷ってるように見える。あまり突っ込むのは良くないだろうか。

そう思ってると、店員さんが注文した飲み物を運んできてくれた。アイスティーがテーブルに置かれると同時に、二人の間に静寂が訪れた。


話したいことはあるのに、何から話せばいいのか分からない。焦れば焦るほど、言葉が喉の奥で詰まってしまう。

いつまでもこのままの状態でいるわけにはいかない。せっかく美咲先輩がこの状況を作ってくれたんだから、ちゃんと話をしないと。

落ち着かせようと、軽く深呼吸して口を開く。すると——


「「あの!」」


同時になってしまった。


「す、すみません! ……相原さんからどうぞ」

「いえ、桐島さんからで構いません。どうぞ」

「いえ! 私の話は後からで大丈夫なので、相原さんからお先に……」


二人でどうぞどうぞと譲り合っていたが、埒が明かないと悟ったのか、相原さんが「では……」と背筋を伸ばした。そのまま、こちらに身体ごと向き直ったかと思うと——、その場で深く頭を下げられた。


「すみませんでした」


​(……え、何で謝られてるの? もしかして……告白前にもう振られたってこと!?)


思わず青ざめる私を他所に、相原さんは話を続ける。


「これまで桐島さんを傷つけ続けてきたことを、まずはお詫びさせてください。申し訳ありませんでした」


(あれ……? 違う……?)


まだ振られたわけではないと気づくと同時に、相原さんに謝られる理由がないことに思い至り、慌てて言葉をかける。


「あ、あの! 相原さんに謝ってもらわなきゃいけないことなんて、ありません! 頭を上げてください!」


私の言葉にそうっと顔だけ上げると、相原さんは真っ直ぐな目を向けてくる。


「いいえ。……そんなことはありません。僕は、あなたのことを、たくさん傷つけました」


そう言って、また頭を下げられた。そして朝の通勤電車で他の人とばかり話してしまったこと、呼び出しておきながら他の人と一緒にいるところを見せてしまったことを謝罪された。


「……それは、相原さんのせいじゃありません。田中さんと話されてるなら、私も自分から輪に加われば良かっただけだし、あの日のことも、今思えば田中さんが抱きついたように見えました。だから相原さんは悪くありません」


そう言うと、ゆっくりと頭を上げた相原さんが、少しだけ悲しそうな顔をして口を開く。


「……やっぱり、田中さんのことをご存知なんですね」


言われて一瞬ハッとするが、誤魔化しても仕方ない。無言で頷いた。


「『やっぱり』ってことは、私と田中さんに面識があることを知ってたんですか?」

「いえ、昨日まで知りませんでした」


どうして? 不思議に思ってると、相原さんが教えてくれた。


「……波多野さんです」

「え……」

「昨日、会社に来られて。すべて教えてくれました。田中さんが、あなたにしたこと……全部」


(美咲先輩が……)


私の知らないところで動いていてくれたことを知って、胸が熱くなる。昨日、用事があるって言ってたのはこのことだったんだ。

私が黙っていると、相原さんは話を続けた。


「……田中さんが桐島さんの元に向かったのも、僕と付き合ってるだなんて嘘を吹聴したのも、全部僕が原因です。僕自身で解決しなければならなかったのに、桐島さんにまでご迷惑をかけてしまいました」


そう言って、再度頭を下げられた。


「それは、もういいんです。そんなに気にしないでください」


なんとか笑ってそう言ったが、やはり彼の表情は晴れない。

そして何かを決意したかのように、グッと拳を握りしめ、話し出した。


「……聞いてほしいことがあります」


そう言うと、相原さんはこれまでにあったことを話してくれた。


田中さんに告白されたとき、勘違いで了承してしまったこと。

その勘違いを多分、私が知ってしまったこと。

田中さんに謝罪に行ったが、なぜかその日から執拗にまとわりつかれるようになったこと。

結果として、私と話す機会が無くなってしまったこと。


そして——相原さんの過去のことも、話してくれた。

それは、私が思っていたよりずっと壮絶なものだった。恋愛を遠ざけても仕方ないと思えるほどに。


「過去の一件があってから、僕にとって恋愛は忌むべきものでした。僕には人を好きになる資格がない、そして人から好かれるべき人間でもない……ずっと、そう思ってました」


相原さんの苦しそうな思いを知って、胸がぎゅうっと締め付けられる。そんなことない! 今すぐそう言ってしまいたかった。でも今、口を開けば涙がこぼれ落ちそうで、何も言えなかった。

こんなに優しい人が、何年も自分を責め続けてきたのかと思うと、悔しくて、悲しくて、切なかった。


「この先誰とも深く関わらず、仕事と家の往復だけをして生きていくのだと、そう思ってました。……桐島さん――あなたを、お見かけするまでは」

「え……?」


どういうこと……? 相原さんが私の隣に立ったあの日が、初めて会った日じゃなかったの?


「僕は以前から桐島さんのことを知ってました。と言っても、ただ電車で見かけていただけですが」


そう言うと、何かを思い出したかのように、優しく笑みを深めた。


「電車内では誰もが疲れ切った表情で乗っている中、一人だけ、楽しそうにしてる人がいたんです。それが桐島さんでした。スマホを握りしめ、嬉しそうに笑ったり、悲しそうな顔をしたり、眉をひそめたり。コロコロと変わるその様は、僕の目を惹き付けて離さないものでした」


言われて思い返す。確かに私は電車内で乙女ゲームをしながら通勤してた。


え? あの顔、見られてたの?

推しにニヤけてた、あの顔を!?

ちょっと待って、恥ずかしくて死にそうなんだけど!!


あまりの衝撃に、目に浮かんだ涙も一瞬にして引っ込んだ。真面目に語ってくれている相原さんには申し訳ないが、そんな恥ずかしい姿、すぐにでも忘れてほしい。

でも、相原さんは、とても大切な思い出のように語り続ける。


「見ているだけで満足だったはずなのに、近づきたいって思ってしまったんです。あなたと、話がしてみたいと。何をそんなに夢中になってるのか、教えてほしいと思ったんです」


その結果が、まさかの乙女ゲームだったとは——相原さんも、思いもしなかっただろう。

恥ずかしさから、どんどん顔が赤くなる。


「す、すみません……。まさかただのゲームとは、しかも乙女ゲームだなんて、思ってなかったですよね……恥ずかしい……」


穴があったら入りたいとは正にこのこと。どんどん小さくなってしまう私に対して、相原さんはキッパリ言い切った。


「確かに驚きました」


ですよねー。その気持ち、分かるー。


「こんなにも自分の好きな物を、目を輝かせて話す人がいるなんて、思ってもいなかったので」


……え?

予想外の言葉を聞いて、俯きかけた顔を上げる。


「僕の周りには見栄えを気にする人ばかりでした。もちろん全ての人がそうだとは言いません。でも、ほとんどの人が他人の評価を気にする人が多かったんです」


そういうのも、きっと仕方ないんだと思う。私の周りもみんなそうだったし、『映え』って言葉が流行ってからは、ますます他人の目を気にする人が増えた気がする。

それが悪いわけじゃないけど、相原さんには少し窮屈だったのかもしれない。


「そんな中、桐島さんは、自分が本当に好きな物に夢中になってましたよね。どういうゲームが好きで、どんなキャラが好きで……。推しのセリフや好きなシーンなどを、キラキラした瞳で語る桐島さんから……僕は、目が離せなくなっていたんです」


……それは、どういう意味……?

私が言葉にするより前に、相原さんは私の前に跪いた。


「え? え、相原さん?」


突然の行動に驚いて周りを見渡してしまう。半個室とはいえ、少し体を動かせば人目に入りそうだった。

でも相原さんは何も気にせず、私の指先をそっと掲げた。それはとても大切な物に触れるような仕草だった。

鼓動が大きく跳ねる。そして——


「僕は、あなたのことが好きです」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。

理解するのに数秒かかったその言葉は、波紋のように、心の中に広がっていった。


「僕は今まで、恋というものを知りませんでした。過去の恋愛も、恋をしたつもりになっていただけだと、今の僕なら分かります」


包まれた指先から、じんわりと、相原さんの熱が伝わってくる。


「恋を知らなかった僕に、恋を教えてくれたのは、桐島ひよりさん——あなたです」


気づけば涙が頬を伝っていた。一筋、二筋と、とめどなく流れ落ちていく。


「あなたは止まっていた僕の心に、温もりと潤いを与えてくれました」


手が震えてるのは、私なのか、相原さんなのか。


「幸せが何か分からなかった僕が――幸せを感じることができたのは、あなたという存在があったからです」


周りの音が全て消えて、時が止まったかのように感じる。


「あなたが……誰を好きでも構いません。僕はずっと、あなたのことが好きです」


相原さんの熱の篭った瞳が、涙で霞んで見えない。

もう、これ以上、堪えることはできない。


「……わ、わた、しも…………私も、相原真一さんのことが、好きです。大好きです」


嗚咽で言葉が途切れそうになるのをなんとか堪え、自分の正直な気持ちを絞り出した。

今言わないと、伝えないと、私は一生後悔するだろう。

そう思って、伝えると——


……………………あれ? 返事がない。

え? あれ? 私、今告白されたよね? え? 間違った? 勘違い?


涙を拭い、鼻をすすりつつそっと顔を上げると——

なぜか相原さんは、『まさか今の本気で言った?』みたいな顔で固まっていた。


「……あ、相原さん?? あの、私の声、聞こえてますか?」


空いてる手で目の前をパタパタしてみたけど、まばたき一つしない。


えっ、ちょっ、ええええ!!!???


「相原さん!? 大丈夫ですか! 息! 息してください!!」


固まったまま動かない相原さんの腕を、ゆっさゆっさ激しく揺さぶる。

すると——


「——はっ!! ……すみません。今、ありえない言葉が耳に入ってきた気がして、息するの忘れてました」


告白したら、まさかの“相手の息が止まる”問題。

恋愛とはこんなに過酷なんだろうか。どのゲームでも教えてくれなかったから、わからない。


というか、自分は告白しておいて、私の言葉はありえない扱いされてるの、解せないんですが???

気を取り直して告白し直す。


「あの、もう一回、言いますね。——私も相原さんのことが、好きです」


今度はちゃんと息してくれてるかな。告白後に確認するところとは違う気がしないでもないが、大事なことなので確認する。


「………………ほ、本当、ですか………?」


あ、良かった。息してた。安心したところで、言葉を続ける。


「本当です」


ぶんぶんと首を上下に振って伝えるが、相原さんはまだ疑ってるらしい。

もう、どうすればいいの!?


「あの方は……?」

「あの方?? 誰のことですか?」


どの人のことだろう? 私には悲しいくらい男の人の影はないんだけど。


「髪の毛が明るい、桐島さんと同年代くらいの方です。以前、赤い車に同乗してるところを見ましたし、手を繋いで歩いていたと、聞いたこともあります」


……………!!


「浩平くんのことですか!?」


心の声が思わず口から出てしまったけど、間違いではないと思う。相原さんが言ってるのは、浩平くんのことだよね。


「あの! あのっ!! ちちち違うんです! 浩平くんは美咲先輩の弟で……!」

「下の名前で呼ぶような仲なんですね……」

「そうなんですけど! そうじゃないんです!!!」


そこからしどろもどろになりながらも、事情を説明した。ちなみに私と浩平くんが手を繋いでいたことを、相原さんに教えたのは田中さんらしい。

ぐぅっ……! おのれ、田中め! 最後の最後まで、妨害するなんて……!


「そうなんですね……じゃあ、桐島さんと彼は、お付き合いしてるわけじゃない?」

「違います! してません! というか、むしろ相原さんとのことを、相談に乗ってもらってました!」

「そう、ですか……そうか…………良かった」


相原さんのぽつりと零した『良かった』の一言に、胸が締め付けられそうになる。


そして、摘んでいた指先がそっと離れたと思ったら、すぐに手を掴まれた。大きな手が、私の手を包み込む。

じっとこちらを見つめたかと思うと、幸せそうに微笑んで彼は言った。


「桐島ひよりさん、あなたのことが好きです。——僕の恋人に、なってもらえませんか?」


二度目の告白。返事はもちろん……。


「はい、喜んで」


笑顔でそう告げた瞬間——。

パチ、パチパチ……と、どこからともなく拍手が起こった。


「おめでとうございまーす!」

「横で聞いててハラハラしちゃった!」

「素敵なお二人に幸あれ!!」


完全個室ではなかったため、私たちの会話は、近くの席の人たちに丸聞こえだったらしい。見る見るうちに顔が赤くなっていく。


(恥ずかしすぎて死ぬ……)


相原さんも慌てて、咳払いしながら隣に座り直した。ちらりと見ると、彼の耳も真っ赤になっている。そんな姿ですら愛おしい。

嬉しくなってふふっと笑うと、こちらを見た相原さんと目が合った。


ほんの数秒の沈黙。

——そして、今まで見たことがない笑顔を向けられた。


(ぐはぁっ……! 何その笑顔! これは告白成功のご褒美スチルですか!!!)


叫びたいのを我慢してぐっと口元を抑えて堪える。


と、その時気づいた。右手にまだ温もりがあることを。ちらりと自分の手を見ると、相原さんに繋がれたままだった。

真っ赤になりながら、相原さんを見ると「? どうかしましたか?」と何事もなさそうな返事。あれ? ……まさかと思って自分の手を見ると、しっかり繋がれたままだ。


「あ、あの……手……」


声を振り絞って告げる。離すの忘れてますよ、と。ところが——


「手ですか? せっかく桐島さんに触れることができたのに、離すのは勿体ないなと思ってしまって。……駄目ですか?」


あああああああ!!!! 何その顔!!! あざとカッコよすぎる!!!!


上目遣いで覗き込んでくる顔に、早々にノックアウトされた私。

そんなおねだり、断れるわけないじゃないか!!!


「だ…………駄目……じゃない、です……」


ぽそりと言葉を返すと、また嬉しそうな笑顔。


この笑顔は、何回見続けたら慣れるんだろうか。

そう思いながらも、この先もずっと見続けていたい。


彼の隣で笑い合いながら、ゆっくりと——恋を知っていく未来を願った。


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