第9話『揺らいでも、選ぶもの』-ひよりside-
「また明日、朝の電車でお会いできませんか?」
相原さんの言葉が、何度も何度も脳内で反響する。
ベッドに横になっても、目を閉じても、あの時の嬉しそうな笑顔が浮かんでしまう。
――けれど。
相原さんには恋人がいる。その現実が、胸をきゅっと締めつける。
どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。どうして私と、何事もなかったように関係を続けようとしてくれるんだろう。
答えの出ない問いを抱えたまま、私はなかなか眠りにつけなかった。
落ち着かない気持ちを抱えたまま迎えた翌朝。鏡に映る顔は寝不足で、目の下に薄い影ができていた。気持ちまで沈んで見える自分に、思わずため息が漏れる。
いつもより少しだけ早く家を出て、以前まで使用していた路線に乗り込んだ。
車内は平日の朝らしく混雑していて、私はいつもの場所に立つ。相原さんが乗ってくる駅が近づくにつれ、胸の奥で心臓が激しく鼓動を打ち始めた。
(相原さんは本当に乗ってくるのかな? ううん、それよりも……恋人がいる人と、これまで通り楽しく通勤していいのかな。間違ってるって思うのに、それでも会いたい――)
相反する気持ちを抱えながらも、電車は相原さんの乗ってくる駅に到着する。
ドアが開いた瞬間、彼はまるで飛び乗るようにして駆け込んできた。少し息を乱し、緊張した面持ちで車内を見渡す。そして私を見つけた瞬間、安心したように表情が和らぐ。
「……おはようございます」
「お、おはようございます……」
緊張してなかなか顔を見られずにいると、隣から「……良かった」と小さな声が聞こえた。
その一言が、胸の奥深くまで響いてしまう。思わず顔を上げると、こちらを見ながら嬉しそうに微笑んでいる相原さんがいた。ドキッとして、私は慌てて視線を逸らした。
「……あのっ! 昨日話してましたが、ゲームを始めたって……」
胸の鼓動を誤魔化すように、慌てて口を開いた。すると相原さんは、耳の後ろを掻きながら少し恥ずかしそうに答えてくれる。
「ああ、そうなんです。スマホゲームの方がいいのかなと思ったのですが、そのストラップのキャラは別のゲーム機らしいので……妹からゲーム機ごと借りてきてしまって」
しばらく会わないうちに、乙女ゲームについて詳しくなっている相原さんに、私は思わず目を見開いた。ついこの間まで「乙女ゲーム」と言う単語すら知らなそうな雰囲気だったのに。
「? どうされましたか?」
「あ、いえっ……! なんだか相原さんが乙女ゲームに詳しくなってる気がして、驚いてしまって……」
焦りながら言葉を返すと、ふいに彼は真面目な顔になり、真剣な声音で言い出した。
「あなたのことが知りたかったんです」
一瞬、周囲のざわめきが遠のいた気がした。心臓を掴まれたかのような衝撃に息を呑む。
「え?」
「こんなことくらいで桐島さんのことを知れるわけではないとわかってはいたのですが、それでも……何かしてでも近づきたくて」
(そんなこと言わないでほしい……彼女がいるのに、そんなこと言わないで……)
これまでなら胸をときめかせていたそのセリフも、今となっては甘さではなく痛みに近いものとして響いた。
その後も、相原さんは楽しそうに会話を続けた。控えめながらも楽しそうに笑うその横顔が、かえって胸を痛ませる。私もつられて笑いながら、以前のような楽しかった気持ちを思い出しては、また苦しくなった。
(相原さんは彼女がいるのに、私とこんな風に仲良く話したりしてていいのかな……)
楽しいはずの時間が、罪悪感と切なさに塗り替えられていく。
電車を降り、改札で別れ際に「帰りも一緒に帰れますか?」と尋ねられ、心臓が一瞬止まりそうになった。
(必要以上に親しくしてはいけないよね……)
「ちょっと最近忙しくて……何時になるか分からないので、すみません……」
精一杯の嘘を口にした。声がかすかに震えて、自分でも苦しい嘘だとわかっていた。
「そうですか……。朝はご一緒できますよね?」
そう聞かれては、もう頷くしかない。
「……はい」
答えると、相原さんはほっとしたように口元を緩ませた。その笑顔が、また私の胸を締めつけた。
***
そのまま別れて会社へ向かう途中、偶然美咲先輩と出会った。
「ひーよーりっ!」
「あ、美咲先輩。おはようございます」
「おはよう〜。……ねえねえ、さっきのイケメン誰?」
突然の直球に、思わず足が止まりそうになる。
美咲先輩の沿線は、昨日まで私が使っていた遠回りの路線のはず。そう思って尋ねると、彼女は楽しそうに笑って答えた。
「昨日の事故でまだダイヤが乱れてるみたいでさ。だから今日はひよりと同じ路線で来てみたの。……で、それより! あのイケメンの話っ!」
にやにやと顔を寄せてくる美咲先輩に、必死で誤魔化そうとした。けれど、視線を逸らしても、顔が熱くなっていくのは隠しようがない。
「ふ〜ん……なるほどね?」
恋愛経験豊富な先輩の目からは、全部お見通しだった。
――結局、根掘り葉掘り問い詰められ、全てを白状させられることになった。
話を聞き終えた美咲先輩は、ふっと真面目な顔になり、口を開いた。
「……奪っちゃえば?」
唐突な一言に、思わず咳き込みそうになる。先輩はそんな私を落ち着かせるように、柔らかく視線を向けてきた。
「せ、先輩っ!?」
「まあ、奪えっていうのはちょっと言葉が強いけどさ。でも好きなんでしょ? だったら遠慮してても何も始まらないよ」
「始まらないって言われても……相手にはもう彼女がいるんですよ?」
「まあね。でもだからって簡単に諦められる?」
「それは……」
反論しようとするけれど、言葉が詰まる。
「無理でしょ? それに聞いてる限りだと、ひよりから繋げようとしてるんじゃなくて、向こうから歩み寄ってきてる気がするんだけど。本当にその人、彼女いるの?」
問われて、あの時の光景が頭をよぎる。思い出したくないのに、胸が締め付けられて涙が滲んできた。
「……それは……」
声が震えたのを見て、美咲先輩は慌てて手を振った。
「あ〜ごめんごめん、泣かせるつもりじゃなかったんだよ。でもさ、本当に彼女がいるのなら、彼女持ちなのにひよりをキープしようとしてるってことになるでしょ? でも今聞いた限りじゃ、その人はそんな不誠実なタイプには思えないんだよね。どう思う?」
確かに。これまでの相原さんを思えば、そんな人には思えない。だけど――あの時「いいですよ」と答えていたのも事実だ。
返す言葉を失って黙り込む私に、美咲先輩は優しい声をかけてきた。
「私は、好きなら頑張ってほしいと思うよ。でも今すぐ答えを出さなくていい。いつでも話なら聞くから」
そう言って、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
……子供か、私は。いや、子供だな、やっぱり。
***
会社帰り。相原さんとは約束をしていない。ゆっくり駅に向かっていると、突然女性から声をかけられた。
「すみません、ちょっとお話したいんですが……」
振り向いた瞬間、胸の奥がざわついた。落ち着いた雰囲気のスーツ姿。けれど、その顔に見覚えがある。思い出した瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
(この人……相原さんの彼女……)
あの時、告白していた人。そして相原さんからOKの返事をもらっていた人。
そんな人が一体何の用だろうか。訝しげな気持ちが顔に出ていたのだろうか。
「突然すみません。ミライテック株式会社の田中と言います。相原さんのことでお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
よろしくない。全くもってよろしくない。正直断りたい気持ちでいっぱいだった。ここで背を向けてしまえば、どんなに楽だろう。
でも――
「はい。大丈夫です」
美咲先輩の言葉が蘇る。
『遠慮してたら何も始まらないよ』
……怖い。でも逃げない。私、立ち向かいます。
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