第9話『揺らいでも、選ぶもの』-真一side-
いつもの時間のいつもの電車。けれど今日は一分一秒でも早く到着してほしくて、ホームから線路だけを見つめていた。通勤客のざわめきやアナウンスの声も耳に入らない。
昨日、久しぶりに桐島さんに会えた。それだけではない。別れ際、また朝の電車で会いたいと告げたら、彼女は頷いてくれた。その嬉しさのあまり、昨夜は布団に入ってもなかなか眠れなかった。時計の針の進みがやけに遅く感じられたほどだ。
……夢だったのだろうか。本当に現実なんだろうか。社会人にもなって、こんなふうに電車を待つだけで胸が騒ぐなんて。我ながらどうかしていると思いつつ、桐島さん本人に会うまでは気持ちが落ち着かず、逸る心を抑えるのに必死だった。
電車が到着する。走ってはいけない、飛び込んではいけないと頭では分かっているのに、気づけば足は自然と早まっていた。胸の奥の焦りに背中を押されるようにして、車内へと飛び込む。
……そして、探していた彼女の姿を見つけた。
(……良かった、いた……)
緊張と安堵が一気に押し寄せて、思わず笑みがこぼれる。
「……おはようございます」
声が少し上ずってしまった。桐島さんも「お、おはようございます……」と返してくれて、その声を聞いた瞬間、胸のつかえがほどけていく。嬉しさのあまり、無意識に「……良かった」と小さく呟いていた。自分でも、なぜそんな言葉が漏れたのか分からなかった。
そこからは、会えなかった間に始めたゲームの話をしていた。会えた嬉しさ、話せる喜びで胸がいっぱいで、気づけば夢中で話していた。――彼女の表情が時折曇っていることにも、気づかぬまま。
別れ際、「帰りも一緒に帰れますか?」と尋ねると、仕事が忙しいと断られてしまった。少し元気がないようにも見えたが、疲れが溜まっているのだろう。無理をさせるべきではない。
「朝はご一緒できますよね?」
もう一度会えなくなるのは困る。そう思って確認すると、彼女は控えめに「……はい」と頷いてくれた。その答えに胸の奥が温かくなり、嬉しさを隠しきれずに口元が緩んでしまう。
***
そのまま会社に着くと、また小野と一緒になった。
「おす」
「おはよう」
「……どうした? なんか妙に嬉しそうじゃないか」
聞かれて「別に」と返そうとしたが、思い直す。この間、僕の不安を全部聞いてくれたのは小野だ。
「実は、桐島さんにまた会えたんだ」
「えっ? マジかよ!」
「ああ、今日からはまた一緒に通勤できるようになった」
そう伝えると、小野は心底嬉しそうに笑い、僕の肩を軽く叩いた。
「……良かったな」
思わず口元が緩む。浮かれている自覚はあるけれど、抑えられなかった。
エレベーターに乗り込む。そこには他部署の人もいたので、声をひそめながら会話を続けると、小野が急に真面目な顔をした。
「おい、浮かれるのもいいけど、あの子のこともちゃんとしろよ」
「あの子?」
誰のことか分からず首をかしげていると、小野は呆れた顔で僕のわき腹を軽く小突いた。
「総務の彼女だよ」
言われてようやく気づく。確かに僕は、彼女に対してとても失礼なことをしてしまった。改めて謝罪するべきだ。
エレベーターが着き、席へ向かいながら小野がさらに釘を刺す。
「お前は気にしてなかったかもしれないが、結構噂になってるぞ。主にお前が悪者としてな」
「え……?」
思わず固まる僕に、小野はため息をついた。
「昼休みなんか、総務フロアで普通に名前出てるらしいからな。謝りに行くにしても、覚悟していけよ」
「ああ……、わかった」
元はといえば自分が蒔いた種だ。彼女に罵倒される覚悟で、きちんと謝ろう。そう心に決めた。
***
昼休み。僕は意を決して総務へ足を運んだ。
事務室へ踏み入れた途端、そこにいる女性たちの視線が一斉に突き刺さる。冷たいような、探るような視線に、背筋が思わず伸びる。
受付カウンターに立つ女性に声をかけた。
「すみません、田中さんはいらっしゃいますか?」
一瞬の沈黙のあと、女性はじろりと僕を睨み、低い声で「……少々、お待ちください」とだけ告げて、奥へと歩いていった。
しばらくすると、田中さんが姿を現した。……なぜか後ろには数人の女性陣を従えて。
一斉に注がれる視線の圧に、心臓がひときわ強く脈打つ。
「お疲れ様です」
他の女性たちの冷たい空気とは対照的に、田中さんは柔らかな笑顔で声をかけてきた。
「お昼休み中にすみません。少しお時間いただけますか」
そう伝えると、田中さんは控えめに微笑み「はい」と頷いてくれた。
突き刺さるような複数の視線を背に、僕は彼女を人気のない階段の踊り場へと案内した。
「お話とは何でしょうか?」
促され、僕は何も言わずに真っ先に頭を下げた。腰を直角に折り曲げ、深々と。
「え……?」
田中さんの小さな声が聞こえる。けれど顔を上げずに、言葉を続けた。
「先日は大変申し訳ありませんでした。田中さんからの真摯なお言葉に対して、不誠実な対応をしてしまったこと……心からお詫びします。本当にすみませんでした」
胸の奥が熱くなり、喉がひどく乾く。言葉が空回りしないよう必死に噛みしめながら伝えた。
「顔を、上げてもらえますか?」
静かな声に、恐る恐る視線を上げる。田中さんは少し驚いたように眉を上げ、それから柔らかく微笑んでいた。
「言い訳にしかなりませんが……」
僕は真っすぐにその表情を見つめ、続けた。
「あの時、僕は人との約束に気を取られていました。結果、田中さんのお言葉を聞き流した挙句、見当違いな返答をしてしまい……必要以上に傷つけてしまいました」
田中さんは一拍置いて、ふっと小さく息をついた。
「そうなんですね……。では、今改めて同じ言葉をお伝えしたら、私は違う回答をいただけますか?」
胸がぎゅっと締めつけられる。返事に迷ったのではない。どう言えば、この人をこれ以上傷つけずに済むのか――その答えを探して言葉が出なかったのだ。
「すみません、田中さんの気持ちに応えることはできません」
「……お付き合いされてる方がいるのですか?」
「いえ……」
「では、好きな方でもいらっしゃるのですか?」
「……………いえ、いません」
そう答えると田中さんは少しだけ嬉しそうな顔をして「じゃあ、私にもまだチャンスはありますよね?」と期待を込めた瞳で見つめてきた。
二の句が継げない。でもこのまま押し切られるわけにはいかない。それでは前回の二の舞だ。
「すみません。ありません」
きっぱりと断った……はずだった。
「どうしてないと言い切れるんですか? 先のことはわかりませんよね?」
「それは、そうですが……いや、でも……!」
「何も最初から恋人としてお付き合いしてほしいなんて言いません。まずはお友達でどうですか?」
「無理です」
「どうしてですか?」
「田中さんは同僚であって、友達ではありません」
「小野さんとはお友達なのに?」
「……!? 小野は同僚です!」
どうしよう、話が全く通じない。
「わかりました……じゃあ、同僚としてだったら仲良くしてくださるんですよね?」
「それは……まあ……」
「良かった! じゃあ同僚として朝の通勤をご一緒してもいいですか?」
ぞくりと背筋が冷えた。
「ダメです!!!」
思わず声が大きくなり、田中さんが驚いたように目を丸くする。
「すみません、大きな声を出してしまって……。でも朝は別の方と約束してるので無理です」
「お友達ですか? 私はその方と一緒でも構わないのですけど」
「……僕が嫌なんです。すみませんが、遠慮してください」
冷や汗が背中を伝う。話が全く通じない。逃げ場がない。
そこまで言ったところで予鈴が鳴った。救われた気持ちで、その場を切り上げた。
席に戻ると同時に、小野が声をかけてきた。
「どうした? なんかやけに疲れ果ててないか?」
「ちょっとな……」
さすがに事の顛末を話す元気がなかった。そのまま業務に追われ、田中さんとのやり取りは頭の片隅に追いやられていった。
――まさか、田中さんがあんなことをしていたなんて。
このときの僕には、想像すらできなかった。
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