第6話『すれ違いは、誰のせいでもなくて』-ひよりside-

午前中の会議が終わって、私はようやく一息ついて自席に戻った。ぼんやりとパソコン画面を見つめながら、ふと今朝のことを思い出す。


あのときの相原さんの笑顔。

「楽しみにしてます」って言ってくれた、穏やかでまっすぐな声。


……思い出すたび、顔がゆるむ。頬が勝手に緩んでしまって、自分でもニヤけてるのがわかる。ダメだ、仕事中なのに。


「ひより、顔に出すぎ~」


不意にかけられた声に心臓が跳ねた。

振り返ると美咲先輩がコーヒーを片手にニヤニヤしていた。女子力高めで恋バナ大好きな先輩。仲良くしてくれて好きな先輩だけど、ちょっと今は勘弁してほしい。


「な、なにがですか?」


「んー? なんでもないような顔して、絶対なんかあったでしょ?」


「なにもないです!」


「ふーん?」


からかいの手を緩めてくれそうになくて、私はそそくさと資料に目を落とす。真っ赤になった顔をごまかすように仕事に没頭した。早く終わらせよう。今日の夕方にはまた、相原さんに会えるんだから。



***



午後もバタバタして、ようやく定時を迎えたころには自然と背筋が伸びた。今日は予定通りに退勤できたし、待ち合わせにちょうどいい時間。少し急ぎ足で駅に向かう。


――また相原さんに会える。そう思うだけで、足取りが軽くなる。


駅前の歩道を抜け、角を曲がろうとしたときだった。ふと視線の先に見覚えのある後ろ姿が映った。


……え?


え、え……?


相原さん?


こんなところで会うなんて――いや、でも、いつもはこの辺りに来る用事なんてないって言ってたような……。


それでも嬉しい。せっかくなら声をかけたい。名前を呼ぶには少し距離があったから、私は小走りでそっと近づいた。


そのとき。

彼が一人じゃないことに、初めて気がついた。すぐ隣に女性がいた。清楚な感じのきれいな人。私よりもずっと大人っぽくて、落ち着きのある笑みを浮かべていた。

二人の距離は近くて――その親しさが何を示すのか、すぐに分かってしまった。


これってもしかして、告白……?

私、見ちゃいけないんじゃ……でも今さら立ち去れない。足が地面に縫い留められたみたいに動かない。


「……好きです。ずっと、相原さんのことが好きでした」


女性の声はかすかに震えていた。でも、懸命に伝えようとしているのがわかる。


「私と付き合ってくれませんか……!」


まっすぐな告白だった。

私なら、あんなふうに言えない。きっとずっと躊躇して、こんな風に勇気を出せないまま――。


……でも。でも、お願い。断って……!


どうしてそんなこと願ってるのか、自分でもわからない。けど、止まらない。心臓が痛くなるくらい強く、必死に。

気づけば祈るように組んでいた手に爪がくい込んでいた。胸の奥がじくじくと痛む。返事が怖くて、顔を上げられない。


ほんの一拍の沈黙。その短いはずの間が、永遠のように長く感じられた。鼓動の音だけがやけに大きく響く。息を吸うことすらためらわれる。


「――ええ、いいですよ」


あまりにあっさりとした響きに、耳が自分を裏切ったのかと思った。何の迷いもない、静かな声。


……うそ。


胸の奥が、ぎゅうっと苦しくなる。声が出ない。呼吸の仕方すら忘れそうになる。


……あんなに、あっさりOKするんだ。


胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる音がした。中身を抜かれたみたいに、身体が軽くなっていく。


相原さん、彼女、できたんだ。

じゃあ私は、なんだったんだろう。


私は今、目の前で起こった出来事が、現実のものだと受け入れることができなかった。



***



どんな顔して歩いたのか、どんな経路を通ったのか、まるで記憶にないまま駅に着いた。人混みにまぎれるようにして柱の陰に立つ。


携帯を取り出して彼の番号を見る。……そうだ、今は代替機で、LINEも通じないんだった。会わずに帰ってしまおうかとも思ったけれど、それは逃げるみたいでなんとなく悔しかった。


しばらくして彼の姿が見えた。


「お待たせしました」


「……いえ」


さっきの女性のことを聞いていいはずがなかった。聞く権利なんて、私にはない。


「……あの、今日、ちょっと体調が悪くて。ゲームの話はまた今度でもいいですか?」


完全なウソ。でも彼はそれを疑う様子も見せなかった。


「大丈夫ですか? ご迷惑でなければ、ご自宅までお送りいたしますよ?」


優しい声だった。優しすぎて、つらかった。


「いえ、あの……この後、友達が心配して来てくれるみたいなので。今日はここで……」


「では、お友達が来るまでご一緒に――」


「いえっ! 本当に大丈夫なので」


精一杯の笑顔を貼りつけ、足を前に出した。

背中に彼の視線が追いかけてくる気がしたけれど、振り返らずに歩き続けた。


――自宅へは、どうしても帰る気になれなかった。


ただ少しでも遠ざかりたくて、私はひと駅分ひたすらに歩いた。知らない道を選んで、泣きながら。


人が多い駅前で泣くなんてみっともない。そう思えば思うほど、涙はあふれて止まらなかった。

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