第1話『それは、ただの朝じゃなかった』-真一side-

社会人になってから、僕の朝は決まっていた。毎日同じ時間に家を出て、同じ駅の同じ車両へと乗り込む。慣れきった日々の繰り返しだ。


その日もいつものように電車に乗り込んだ。特に何の変哲もない、普通の朝だった。けれど、ふと目に入った光景に、思わず足が止まった。


扉のそばでスマホをいじっている一人の女性がいた。誰かとやり取りしているのか、表情がころころと変わっている。驚いたように眉を上げたかと思えば、すぐに口元をほころばせて笑い、その直後には少し寂しそうに伏し目がちになった。


まるで舞台の役者のように、ひとつの画面に感情を注いでいる。なのに、その姿がまったく不自然ではなかった。むしろ、目が離せなかった。


ああ、こういう人を「表情豊か」って言うんだな……そんなことを考えていた。



それ以来、自然と彼女の姿を探すようになった。どんなに疲れていても、朝のホームで彼女の顔を見かけると、少しだけ気持ちが軽くなる。今日はどんな感情を見せてくれるんだろう。そんな風に思ってしまうのだ。



ある朝、ようやく彼女の隣に立つことができた。


横に並ぶと、目に入るのは彼女の頭だけだった。改めて、背が小さいんだなと思った。少し前かがみになってスマホを見ている肩越しに、ちらりと耳が見えた。……ん? 耳が赤い? 体調でも悪いのだろうか。


そう思った瞬間、電車が急ブレーキをかけた。

彼女の身体が、こちらに寄ってくる。咄嗟に僕は腕を差し出して支えていた。僕が崩れれば彼女も倒れてしまう。それだけは避けなければと、必死に踏ん張った。


「大丈夫ですか?」


気づけば彼女と目が合っていた。顔が真っ赤だ。いや、本当に体調が悪いのでは……。


「だ、大丈夫ですっ!」


声まで震えていた。やはり、熱があるのかもしれない。


支えていた腕からそっと離れようとした彼女。

そのとき、何かが僕の左手首を引っ張った。袖のボタンにストラップの紐が引っかかったらしい。彼女が指先で外そうとしたが、細い手がわずかに震えているのが見えた。それを見て、これは代わりに僕がやった方が早いと思った。


「じっとしててください」


ゆっくりと手を伸ばし、紐をほどく。手先はあまり器用な方ではないが、何とか無事に外すことができた。


「あ、ありがとう、ございます……」


彼女が小さくお礼を言った。こういうとき何と返すのが正解なのか、いまだにわからない。


「いえ」


短くそう返しただけだった。

もっと何か言えたはずだ。けれど、喉の奥に言葉が引っかかったまま、出てこなかった。


やっぱり自分はこういうのが下手だ。

相手の笑顔ひとつに、どう返すのが正解なのかわからない。


やがて電車が駅に着いた。今日はいつもより彼女に近づけた気がして、なぜか心がふわふわしていた。



翌日。

昨日顔を赤くしていた彼女は、体調が回復しているだろうか。それがずっと気になっていた。電車がホームに入ってくる。つり革を握る彼女の姿が見えた。


よかった。元気そうだ。ちゃんと乗ってきてくれた。


車内に入り、いつもの場所に立つ。ふと顔を上げると、彼女と目が合った。会釈をすると一瞬驚いたような表情のあと、彼女も小さく微笑み目礼を返してくれた。それだけなのに、心臓がドクンと音を立てた。


……寝不足、だろうか。最近ちょっと疲れてるのかもしれない。今日は早めに寝ることにしよう。



その数日後。思い切って、彼女に「おはようございます」と声をかけた。彼女は一瞬きょとんとして、すぐに顔を赤らめた。


「お、おはようございますっ!」


……どうしてだろう。挨拶を交わしただけなのに、やっぱり胸が高鳴ってしまう。昨日は寝不足かと思ったけど、これは救心を飲むべきレベルかもしれない。これが単なる生理的反応なのか、それとも別の要因か。考えはまとまらなかった。



朝の挨拶がすっかり日常になっていた、そんなある日。ふと気になっていたことを聞いてみた。


「そのストラップのキャラクター、好きなんですか?」


彼女は目を丸くしたあと、ぱっと表情を輝かせた。


話によると、ゲームのキャラクターらしい。あのキャラ、たしか妹のカバンにもついていた気がする。若い女性の間で流行っているのかもしれない。


楽しそうに話す彼女の表情に、つい見入ってしまう。

……彼女と話すたび、胸の音がうるさくなる。どうしてこんなに、彼女のことが気になるのだろう。


それでも明日もまた、同じ電車で彼女と会えたらいい。ただ、それだけのことを、今日も思っている。


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