第2話『会えない朝が、怖くなる』-ひよりside-
少しずつ、朝が変わってきた気がする。
以前は、寝坊さえしなければ合格ラインだった。でも最近は、髪型もメイクも、服のしわまで気になる。鏡の前で無意味に「よし」とか言ってから家を出る。
原因はわかってる。あの眼鏡の人のせいだ。たまたま通勤時間と路線が同じだけ。顔を知ってるわけでも、名前を知ってるわけでもない。なのに、彼がいつもの駅から乗ってくるたび、心臓がちょっとバクバクする。
今日もまた、彼はホームの同じ場所から乗ってきた。目が合って軽く会釈を交わす。言葉を交わすようになってまだほんの数日。でも彼は隣に立つだけで、少し空気が変わる。ふんわりと柔らかい気配をまとっていて、朝のぎゅうぎゅう詰めの車内でも息がしやすくなる。
視線を感じて彼のほうを見ると、彼が私のカバンをちらりと見ていた。
「そのキャラは、スマホのキャラとは別ですか?」
え?
一瞬何のことかわからなかったけど、はっとしてカバンを見下ろす。そこにはストラップがついている。乙女ゲームの別タイトル、Switch版の推しキャラ。
……やば。スマホゲームのほうの話をしたのは昨日。つまり彼は別物だって気づいている。
「こ、このキャラも……好きで……」
小声で言うと、彼は軽くうなずいた。
「へえ、そうなんですか。なんか楽しそうでいいですね」
馬鹿にするでもなく、驚くでもなく。あまりに自然な声のトーンでそう言われて、一瞬、何も言えなくなった。
「そういうストラップって……若い女性の間で流行ってるんですか?」
「え……?」
「大学生の妹も、同じようなものをいくつか持っていたので。流行りものなのかと」
「好きな人は好きだと思いますけど……流行ってるというわけでは……」
オタクならつけてる人は多いと思う。でもそんなこと、とても言えない。やっぱり無理して話を合わせてるだけかも。それどころか、ほんとは引いてるのかも。
不安がじわりと心に広がってきたそのとき、彼はごくまっすぐな眼差しで言った。
「流行りに流されずに、自分の【好き】を貫いてるんですね。そういうの、素敵だと思います」
……は?
素敵、って言った?
目の前のイケメンが、今、私のことを……?
素敵って、何が? 私が? いや、違う。趣味が? でも趣味の話なんてほとんどしてない。え、待って、どういう意味?
混乱しているうちに電車は止まり、彼が小さく「では」と会釈して改札の向こうへと歩いていく。私は放心したまま、その背中を見送った。
素敵、って、なに?
頭が真っ白なまま職場に着き、その日はいつも以上にミスを連発した。だというのに、上司に怒られても正直あんまり頭に入らなかった。これ彼のせいだと思う。完全なる八つ当たりだけど、でもやっぱりあの人が悪い。
そして翌朝。
昨日のミスも忘れて、今朝はいつも以上に髪にアイロンを当てた。鏡の前で角度を変えながら、前髪の流れを入念にチェックする。
またいつもの電車で会えるだろうな。もしかしたら、今日も「素敵」って言われるかも。
そんな期待を胸に電車に乗った。彼が乗ってくる駅が近づくと同時に、心臓の鼓動が早くなってくる。汗で手のひらがじっとりしてきて、つり革が妙に冷たい。
でも――来なかった。
彼の姿はどこにもなかった。
ギリギリで駆け込んでくるかも、とホームを何度も見たけど、無情にもドアは閉まった。
その日もまた、仕事が手につかなかった。昨日とは別の意味でミスを連発したけど、あまりの落ち込みように誰にも怒られなかった。むしろ先輩に心配されて、お菓子もらって、頭まで撫でられた。子供か私は。
さらに翌朝も、彼は現れなかった。
何か悪いことを言ったのか。気に障ったのか。そもそも最初から、何とも思われてなかったんじゃないか。勝手に盛り上がって、勝手に期待して、勝手に落ち込んで。なんなの、私。
職場でもうつろな顔でデスクに座っていたら、さすがに様子を察した先輩が「今日は帰りな」と声をかけてくれて、早退することになった。
帰宅後、いつものようにSwitchを起動した。画面の中の推しは変わらず優しかったけど、私の心が動かなかった。こんなの初めてかもしれない。静かに電源を落として、ため息と一緒に布団にもぐり込んだ。
そしてまた、朝がきた。
いつもの駅。いつものホーム。だけど彼はいない。いないことにも、もう慣れてしまいそうで怖い。
もう、忘れよう。あれは喪女に与えられた一瞬の夢だったんだ。
そう思いながら改札を出た、そのとき。
改札の向こうに――見覚えのある眼鏡の人が立っていた。息を切らせてまっすぐにこちらを見ている。嘘みたいな、でも確かに現実の光景。
どうして。どうして彼が、ここに……。
信じられない思いのまま改札を抜ける。彼はこちらに気づくと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
待ってたの? ううん、そんなはずない。偶然に決まってる。けど……じゃあ、なんで。
思考がぐるぐる回るなか、彼がすぐ目の前で立ち止まった。
「会えてよかったです……」
「え……?」
「先日から急に仕事のトラブルで、早朝出勤が続いてました。だからずっと、あなたに会えなくて……」
「……」
「このまま会えなくなるのではないかと思うと、気持ちが急いてしまい……気づけば電車が到着する時間にここまで来てしまいました」
…………………はああああああああ!?
なんだそれ! なんでそんな恋してるみたいな言い方するの! やめてくれ、誤解する、心臓止まる、期待してしまう!!
心の中の悲鳴は言葉にならず、喉の奥で息苦しさだけを残した。
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