第1話『それは、ただの朝じゃなかった』-ひよりside-

通勤電車に揺られる朝7時30分。

私、桐島ひより24歳。人生のHPをジリジリ削りながら今日も元気に出勤中。


その日もいつものように、通勤ラッシュの車内で、私はつり革にしがみついていた。

片耳イヤホンで音量を絞ったスマホゲームのBGMが、満員電車の雑音の中でもかすかに聞こえてくる。今朝もギリギリで乗り込んだせいで、ポジション取りに失敗した。座って出勤なんて、夢のまた夢。つり革だけが私の命綱。

そんな私の朝のひと時、そう──私には乙女ゲームという癒やしがある。


スマホの画面では、ちょうど推しキャラがヒロインに微笑んでくれるシーン。


『お前のこと、守るって決めたんだ』


きゃー!! それを朝から言われたら、一日がんばれるに決まってるじゃないか!! このゲーム、ボイスは……ない。うん、ない。でもそれが何!? オタクをなめるな。脳内ではもう、好みのイケボで自動再生フル稼働中!! 今なんて、耳元で囁かれてるからね? 「お前のこと、守るって決めたんだ」とか!! はぁーーー!!! 朝からそれ言われたら、一日くらい戦えるわ!!!


乙女ゲームのいいところは、いつだって自分がヒロインってことだ。


だけど現実はと言えば、彼氏どころか恋愛経験ゼロ。

たまに「この人、ちょっと気になるかも」って思ったとしても、話しかける勇気なんてなくて、気づけば何も起きないままフェードアウト。

だからこそ私は、二次元で恋をしていた。推しキャラは裏切らないし、きちんと名前を呼んでくれる。しかもイケメン。最高。


その日も、スマホの中の彼といい感じのシーンまで読んだところで、車内アナウンスが流れた。電車が駅に止まる。画面はちょうど、次のストーリー解放までの待機画面に切り替わった。キリのいいところで一区切り。

さて、ここからは──窓の外でも眺めて、現実の朝を乗り切りますか。



そう思って何気なくドアの方に視線を向けた、そのときだった。


乗ってきた人の中に、明らかに異彩を放っている人がいた。長身。黒髪。細身の黒縁眼鏡。そして、どこか不思議と柔らかい空気をまとったスーツ姿の男性。


一瞬で、息を呑んだ。


え、ちょ、待って。あの人、先週まで夢中になってた乙女ゲームのキャラにそっくりなんだけど!? 落ち着け私! 推しの幻覚じゃないよね!? ねぇ、現実!?


思わずそのまま見とれていたら──彼は、迷うことなく私の隣に立った。その距離、わずか数十センチ。すぐ隣に推し似のイケメン。


あまりにも近すぎて、横を見る勇気なんて出ない。

でも、見たい。見たいけど、見られない。

だから私は、窓ガラスに映る彼の姿をこっそり見ていた。鏡のようなガラスの中、少し横を向いた彼の横顔が、静かに浮かんでいた。


……横顔まで、完璧すぎる。


うっかり見惚れていた、そのときだった。車体がぐらりと揺れ、タイヤが悲鳴のような音を立てる。車内が大きく揺れ、ふらついた私の身体を、気づけばスーツの袖が支えてくれた。


「大丈夫ですか?」


低くて落ち着いた声が、頭の中に直接響いてきた。その瞬間、思考停止。イケボってほんとに存在するんだ……。


「あ、だ、大丈夫ですっ!」


支えてくれた彼に、お礼を言おうとしたそのとき。

私のスマホに付けていたラバーストラップが、彼のスーツの袖ボタンにひっかかっているのを発見。


……なんでこうなるの!?


パニックの私をよそに、彼はそっとストラップを外してくれた。手元の動きがやたら丁寧で静かだった。


「あ、ありがとう、ございます……」


顔が熱い。絶対、真っ赤だこれ。もう今すぐこの場からワープしたい。ていうか、今日休みたい。心の体調不良で。


駅に到着し、私はそそくさと電車を降りた。


……と、後ろから同じタイミングで彼も降りてきた。


あれ?

なんとなく、歩く方向が一緒。改札に向かうまでの道、気づけば彼のすぐ後ろを歩いている私。

やだ、なんかストーカーっぽい。違うから! ただ方向が一緒なだけだから!!


改札を抜けたところで、彼は右に、私はまっすぐ。すれ違いざまに、ちらっとだけ、彼の後ろ姿を見送った。


……朝から、すごいイケメンを見た。それだけで、今日はいい日な気がする。


でも、それだけじゃなかった。



翌日。

また同じ駅で、彼が乗ってきた。そして、何のためらいもなく、私の隣に立った。

一瞬だけ、視線が合って──お互いに、軽く会釈。


なにこれ、デジャヴ? いや、夢じゃない。推しじゃないけど、これはもう推し展開では??



その日から、気づけば一週間。彼は毎朝、私の隣に立つようになった。最初は会釈だけだったのが、今では「おはようございます」と、あいさつを交わす関係に。


そして、ある日の朝。いつものように「おはようございます」とあいさつを交わしたあと、彼はふとスマホのストラップを見て、こう言った。


「そのストラップのキャラクター、好きなんですか?」


「えっ……あ、はいっ!」


「可愛いですね。見たことがあります」


ま、まさか──この人、同じゲームやってる!? と思いきや、彼は少し考えてから言った。


「妹が持ってた気がして。女の人は好きな人が多いんですね」


……なんだ、そっちか。


でも、まっすぐこちらを見て、丁寧に言葉を選んでくれたのが、なんだかちょっと嬉しかった。

名前も、顔も知らないけど。あの声が、少しだけ心に残った。


これは、もしかして──恋のプロローグ、かも?


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