第2話 九月二十九日 金曜日

金曜日の朝、いつものように職員室の扉を開けると、そこには普段とは違う、どこか落ち着かない空気が漂っていた。幾人かの先生方が集まってひそひそと話し込んでいたり、事務の小山さんが受話器を片手に、普段より幾分か強張った声で電話の対応に追われたりしている。その手元は、何かのリストがあり、電話のたびに横線を引き、消すという仕草を繰り返していた。

「おはようございます」

隣の席の大山先生に挨拶をすると、先生は心なしか疲れたような顔で私を一瞥し、小さな溜息を一つ漏らした。

「おはようございます、七瀬先生。いやはや、朝からなんとも」

「何かあったのですか」

私が尋ねると、大山先生は苦虫を噛み潰したような表情で口を開いた。

「本校の生徒がですね、どうもSNSに、たちの悪戯動画を上げたらしくて。それがちょっとした騒ぎになっているんですよ。七瀬先生は、何かご存じでしたか」

「いえ」私は曖昧に首を振った。「私、そういうものには疎くて。それに、ご覧の通り、まだこれなので」

そう言って、鞄から取り出した淡いピンク色の折り畳み式携帯電話を、ちらりと大山先生に見せた。我ながら、このご時世に時代錯誤も甚だしいとは思うが、今のところ特に不便も感じていない。

「ああ、そうでしたな」大山先生は得心がいったように頷くと、自身のスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで操作した。「まあ、こんな動画でしてね。一応、問題の投稿は既に削除されたようなんですが」

差し出された画面に目を落とす。そこに映し出されていたのは、紛れもなく、一昨日、私たちが訪れた旧校舎の、あの踊り場だった。時刻は夕暮れなのだろう、例の採光窓から差し込む鈍色の光が埃に乱反射し、ある種の宗教的な荘厳ささえ感じさせる。だが、その静謐な雰囲気を打ち壊すかのように、映像は手持ちカメラ特有の小刻みな震えを続けていた。

やがて、踊り場の床から、湧き上がるように、ぽつり、ぽつりと黒い点が滲むように現れたかと思うと、それは瞬く間に数を増し、まるで墨汁を垂らしたかのように黒々とした影となってと蠢きながら広がっていく。不規則に繰り返される、撮影者のものであろう、浅く速い息遣いが、動画の音声にかすかに混じっている。黒い影は、やがて不定形な塊から、撮影者に近づきながら、ゆっくりと人のような輪郭を形成し始めた。そして、じわじわと、しかし確実に、撮影者の方へと寄ってくる。影がまるで捕らえようとするかのように、すっと手のようなものを伸ばしかけた、その瞬間。

「ひっ」

静寂をつんざくような、短い悲鳴。画面が激しく乱れ、画面は廊下や壁、床を目まぐるしく映し出す。必死に走る足音。そして最後に、旧校舎の薄暗い昇降口が大きく映し出されたところで、ぷつりと動画は途切れた。

言葉が出なかった。背中に冷たい汗が滲むのを感じる。

大山先生は、私の反応を窺うようにしながら言った。

「さすがに、この手の悪戯は度が過ぎています。本校のイメージを著しく損なう恐れもありますので、生徒は既に特定し、厳重注意を与えました。動画自体も、他のサイトなどに拡散されている可能性を考慮して、投稿先の運営会社には削除依頼を順次かけているところです」

その口調は、あくまで、悪質な悪戯として事態を処理しようとするものだった。だが、私の脳裏には、鈴木君の青ざめた顔が、焼き付いて離れない。

「因みに、その生徒さんというのは、どなたか、お分かりになるのですか。いえ、もし、プライバシーへの配慮などが必要でしたら、もちろん、教えていただかなくても結構なのですが」

自分でも、なぜそんなことを尋ねたのか分からなかった。ただ、純粋な興味というよりは、何か確かめずにはいられないような、焦燥にも似た気持ちが湧き上がってきたのだ。

大山先生は、一瞬逡巡するような表情を見せたが、やがて声を潜め、周囲に人がいないことを確かめるようにしてから、ぽつりと言った。

「ここだけの話ですがね、七瀬先生。一年四組の、飯田友也君です」

飯田。その名前に聞き覚えがあった。確かこの前、生徒たちが旧校舎の噂をしていた時、踊り場で大きなカラスを見たと言っていた生徒ではなかったか。


その日の夕暮れ時、生物実験室で一人、使い終えたばかりのビーカーやフラスコを洗い、乾燥台に並べていると、不意にノックの音がした。続いて「し、失礼します」という緊張を滲ませた細い声。

扉を開けて入ってきたのは、小柄な男子生徒だった。薄暗くなり始めた室内に差し込む残光が、彼のレンズの厚い眼鏡を反射させる。

「一年四組の、飯田友也です。七瀬先生に、ご相談したいことがあって来ました」

声を震わせながら名乗ったその生徒は、今朝、職員室で問題になっていたSNS動画の張本人だった。日に焼けることを知らないような白い肌、華奢な肩つき。どこか怯えたような小動物を思わせるその姿を見ていると、彼が人を陥れるような悪意のある映像を作り、面白半分に拡散するような人物には、どうしても思えなかった。

「どのようなご用件でしょう」

私は努めて事務的な声色を意識した。事情がどうであれ、今回の騒動はまだ学校全体に波紋を広げている最中だ。下手に首を突っ込めば、こちらにまで余計な火の粉が降りかかってくるかもしれない。教師としての立場を考えれば、慎重にならざるを得なかった。

「同じ天文サークルの、二年の佐藤先輩から聞きました。昨日、七瀬先生が、あの旧校舎の踊り場を調べてくださったと。僕は、知りたいんです。そして、証明したいんです。あれは、単なる怪奇現象なんかじゃないっていうことを」

彼の声はまだ微かに震えていたが、その眼鏡の奥の瞳は、強い意志の光を宿して、まっすぐに私を見つめていた。その真摯な眼差しは、私の心の奥に燻っていた疑念、あの動画は本当にただの悪戯なのかを、確信へと変えさせた。あれは、捏造された映像ではない。

ふと、疑問が口をついて出た。

「どうして、あんな動画をSNSに投稿したの」

私の問いに、飯田君は伏し目となって視線を床へ落とし、申し訳なさそうに小さな声で答えた。

「その、どう言ったらいいのか。旧校舎の幽霊の噂のことで、クラスの奴らに、嘘つきだって、散々からかわれてしまって。それなら、これが証拠だって、あいつらに見せつけてやりたくて。そしたら、いつの間にか、あんなふうに広まってしまって」

俯いた彼の肩が、小刻みに震えている。この年頃の子供たちの間では、残念ながらよく聞く話ではあった。閉鎖的な教室という空間で、一度ターゲットにされると執拗に繰り返される、心ない、かわいがり。そして、飯田君のような、どちらかといえば内向的で、自己主張の苦手そうなタイプの生徒は、その標的にされやすいのかもしれない。彼の言葉には、悔しさと、行き場のない怒りと、そして途方に暮れたような諦念が滲んでいた。

「そう。事情があったのね。ところで、あなたが言っていた二年の佐藤さんというのは、もしかして、二年二組の佐藤栞里さんのことかしら」

昨日、鈴木君と一緒に旧校舎に来ていた、あの快活な女子生徒の顔が思い浮かんだ。

「はい、そうです。栞里先輩とは、同じ中学で、天文部の先輩後輩でした。僕がこの高校に入学した時、先輩が天文サークルを新しく立ち上げるということで、声をかけてくださったんです」

意外なところで、点と点が繋がった気がした。そして、栞里さんのことを語る飯田君の表情が、ほんの少しだけ和らぎ、どこか嬉しげに見えたのが印象的だった。それは、暗い洞窟の奥で、ようやく一条の光を見出したかのような、そんな変化だった。

「それで、七瀬先生。改めてお願いします。旧校舎の霊の真相について、僕と一緒に、調べていただけないでしょうか」

再び、飯田君は真剣なまなざしを私に向けた。先ほどの弱々しさは消え、そこには切実な願いが込められている。

表情がくるくると変わる彼に、どこか翻弄されている自分を感じながらも、私は努めて冷静に、そして言葉を選んで答えた。

「ひとまず、あなたが見たこと、そして知っていることについて、お話だけでも詳しく聞かせてもらいましょうか」

彼の訴えを、無下にすることは、今の私にはできそうになかった。

「立ち話もなんだから、どうぞ、こちらへ」

私はそう言いながら、傍らの丸椅子を引っ張り出し、飯田君に勧めた。彼は少し躊躇した様子を見せたものの、すぐに小さく「ありがとうございます」と呟き、おずおずと腰を下ろした。

「飯田君は、今のところ、あの現象についてどう考えているの」

私は、あえて、旧校舎の幽霊という言葉は使わず、できるだけ客観的な、科学的な事象を指すような言葉を選んだ。おそらく、飯田君自身も、あれが単なる幽霊の仕業ではないと感じ始めているのではないかという気がしたからだ。

「そうですね」彼は少し考え込むように顎に手を当てた。「あれは、夕日が出ている時、特に、あの踊り場に強い光が差し込む時間帯に限って目撃されているように思います。あとは、理由は分からないんですが、必ず、目撃者は一人だけなんです。あの、これ、見ていただけますか」

そう言って、飯田君は学生鞄から、一冊のノートを取り出し、丁寧に両手で私に差し出した。

ノートを開くと、まず目に飛び込んできたのは、几帳面で整然とした手書きの文字だった。各ページには、日付と天気、その日の日の出と日の入りの時間、そして、怪異目撃情報の有無と、もし目撃された場合は、そのおおよその時間が克明に記録されていた。数ページ目からは、目撃されたとされるものの簡単な特徴まで書き添えられている。ざっと目を通してみると、怪異の目撃情報と天気、そして日の入りの時間と目撃された時間帯には、確かに何らかの関連性が見て取れた。鈴木君が目撃したという黒猫は、複数回目撃されており、やや法則性から外れていた。恐らく、旧校舎に住み着いた猫なのだろうと思った。

「これほどの情報を、どうやって調べたの」

それは、純粋な疑問だった。内気で人見知りしそうなこの少年が、一人でこれだけの聞き込みを行うのは、いささか想像し難かった。

「それは、噂が立て続けに聞かれるようになった頃から、栞里先輩と、天文サークルの仲間たちで協力して、聞き込みなどをして、集めていました。天気や日の出、日の入りの情報は、元々、僕の趣味で、個人的に集めていたものなんですけど」

彼はそう言うと、少し恥ずかしそうに視線を落とした。天文サークルは、彼にとって、大切な居場所なのだろう。気の合う仲間たちとの繋がりを感じられる、かけがえのない場所なのだ。そう語る彼の表情を見て、私はかすかに安堵した。

「なるほど。それで、具体的には、どんな姿が目撃されているの」

私はノートから顔を上げ、改めて彼に問いかけた。

「本当に、見る人によって様々なようです。黒猫だったと言う人もいれば、女の子のようだったと言う人もいますし、中には、何というか、うまく言えないんですが、妖怪で言うなら『鵺』みたいな、色々なものが混ざったような姿だった、と言う人もいます。僕の場合は、一回目は大きなカラスのようでした。二回目は、何というか、幼い頃に亡くなった母だったと思います」

そう答える彼の眼鏡の奥の瞳に、ふと、拭い去れない寂しげな陰りが差した。

「そうなのね。でも、あの動画では、人影にしか見えなかったけれど、あの場にいた時、あなたにはお母様に見えたのね」

あの拡散された動画に映っていたのは、確かにぼんやりとした人影だった。性別まではっきりと判別できるようなものではなかったと記憶している。

「はい。そうなんです。なぜ、動画と実際に僕が見たものとが違うのか、僕にもよく分かりません。あの場所に現れたのは、母に似た、何かなのかもしれません。ただ、僕の名前を呼んだんです。かすかな声で『ト……モ……ヤ……』って。それで、恐ろしくなって、逃げてしまいました」

彼の言葉を聞いていると、じっとりと背中に嫌な汗が滲んでくるのを感じた。まるで、異国のSF小説に出てくる、人の思考を読み取り、自在に姿を変える未知の怪物が、あの旧校舎に住み着いているのではないか。そして、あの開かずの扉の向こうには、それらの、いわば、ねぐらのようなものが存在するのではないか。非科学的な、荒唐無稽な思考が、私の頭の中を駆け巡った。

「七瀬先生、先生は何か、心当たりはありますか」

飯田君の不安げな呼びかけで、私は辛うじて空想の世界から引き戻された。

「今のところ、確信を持てるようなものは、ない、かな。ただ、あの怪しげな踊り場の下にある開かずの扉が、今回の一件に何らかの形で関わっている可能性は、否定できないわね」

「そういえば、栞里先輩と鈴木先輩と、先生が夕方に踊り場に行かれた時は、あの影は出てこなかったんですよね」

確かにそうだ。飯田君の言う通り、あの時、奇妙な現象は何も起こらなかった。一人の時にしか遭遇しないというのは、単なる物理的な現象としては、いささか不自然だ。むしろ、何か警戒心の強い野生動物のような、生物的なものを感じさせる。複数人いると、気配を察知して姿を現さないのだろうか。

「そうね。鈴木君の時も、あの影を見たのは鈴木君一人だったと聞いているから、一人の時にだけ現れる、というのは、ほぼ確実と言えるかもしれないわね」

もしそれが生き物であれば、その実体を捉えることができるかもしれない。そんな、生物教師としての好奇心と期待を、できる限り表情に出さないように努めながら、私は冷静な声で彼に返答した。

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