第3話 九月三十日 土曜日
土曜日の朝。いつもより少しだけ丁寧に、長い髪をとかし、きっちりと団子にまとめ上げ、袖を通すのも久しぶりな、糊の効いた白いブラウスに、クローゼットの奥で眠っていた濃紺のスーツを身に纏う。普段履き慣れないシックなデザインのパンプスに足を通し、アパートのドアを静かに開けた。
駅までの道をゆっくりと歩く。九月も下旬に入り、あれほど厳しかった残暑もようやく峠を越えたのか、早朝の空気はひんやりと肌に心地よく、どこからか、りりり、と鈴虫の微かな声も聞こえてくる。数日前までの、あの旧校舎の怪異を巡る騒動が、まるで遠い昔の出来事だったかのような、穏やかな時間が流れていた。
古い家並みが続く閑静な住宅地を抜け、いつもの駅の改札が見えてきたところで、ふと見知った顔が目に入った。
「七瀬先生、おはようございます」
明るく声をかけてきたのは、同僚で地学を担当している天野珠紀先生だった。私と同じようにスーツ姿ではあるが、ジャケットの下にはふわりとしたシルエットのブラウスを合わせており、その下腹部が緩やかな曲線を描いているのが見て取れた。
「天野先生、おはようございます。その、だいぶ、大きくなられましたね」
私が少しはにかみながらそう言うと、天野先生は「ええ、そうなの」と嬉しそうに目を細めた。「お陰様で順調よ。もうすぐ四ヶ月。この子が、無事に育ってくれている証ね」
そう言って、自身の膨らんだお腹に、慈しむようにそっと両手を添える。その優しげな眼差しは、まるで聖母のようだと、生徒たちが噂するのも頷けた。天野先生は、誰に対してもおおらかで、包容力があり、私がこの四月からこの学校で働き始めて以来、教師として、そして一人の働く女性として、本当に様々なことを教えてくださる、頼れる先輩でもあるのだ。
「天野先生は、確か来月から、お休みに入られるのでしたっけ」
「そうなの。正確には十一月からね。産休と育休を合わせると、しばらく学校を離れることになるわ。七瀬先生にも、色々とご迷惑をおかけするかもしれないけれど、どうぞよろしくね」
その柔らかな笑顔に、私は少しでも心配をかけまいと、努めてはっきりと「はいっ」と頷いた。
やがて到着した電車に二人で乗り込むと、私たちは他愛もない話に花を咲かせた。天野先生からは、これから迎える出産や育児についての期待と少しの不安。私からは、最近友人に勧められて始めた、あまり気乗りしない婚活の顛末や、学生時代の淡い恋愛の思い出など。
カタン、コトンと規則的なリズムを刻む電車に揺られながら、ふと、窓の外を眺めると、いつの間にか、のんびりとした田園風景は姿を消し、ガラスと鋼鉄でできた高層ビルが林立する、都会の景色へと移り変わっていた。
目的地である会議場のエントランスに着くと、私は天野先生の分の受付を済ませる。
「久々にこちらへ来ると、人の多さに本当にびっくりしますね」
私がそう言って振り返ると、天野先生は少し肩で息をしながら、「そうね……」と額の汗をハンカチで押さえた。「ごめんなさい、七瀬先生。少しだけ、疲れてしまったみたい。あそこのソファーで、ひと休みさせてもらってもいいかしら」
エントランスには、おしゃれなソファーがいくつか並んでいた。腕時計をみると研究会の開始までは、まだ少し時間があった。
「もちろんです。無理なさらないでください」
天野先生にはソファーに座ってもらい、私はエントランス内のコンビニエンスストアで冷たい麦茶のペットボトルを二本買い求め、一本を天野先生に手渡した。彼女は「ありがとう」と小さく微笑み、ゆっくりと蓋を開けた。
私たちは、エントランスでしばらく休憩し、開会式の行われる会場に入ると、入り口すぐ横に並べられたパイプ椅子に、滑り込む。しばらくして、全体アナウンスが流れる。
「えー、皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。これより、第四十五回理科教材研究会を始めたいと思います。それではまず、開会にあたりまして、教育委員長の山田春樹先生よりご挨拶を頂戴いたします」
この理科教材研究会というのは、年に一度、この地域の小学校から大学までの理科系教員が一堂に会する大規模な催しだった。
私が楽しみにしているのは、今日の午前中にある、恩師の南雲信夫先生の講演会で、『身近な昆虫の羽ばたきに関する新たな知見とその観察法について』という演題だ。これが楽しみで、この研究会に参加したといっても過言ではない。
この後の講演に胸をときめかせながら、静かに会長の挨拶に耳を傾けた。
講演会の会場は、先ほどまでの開会式の行われたホールとは打って変わって、こぢんまりとした会議室だった。スクリーンには、南雲先生のお名前と演題が映し出されている。やがて、穏やかな拍手と共に迎えられた南雲先生の講演が始まった。
「こちらに示すように、蚊の羽音には、我々が通常認識している以上の、非常に特殊な働きがあることが近年の研究で明らかになってきました。特にこのネッタイシマカという蚊は、オスとメスが出会った際、互いに羽を震わせ、その周波数がぴたりと合ったカップルのみが交尾に至るという、大変興味深い生態を持っています。こちらの音は、この、私が自作した装置で集音いたしました」
スクリーンに大きく映し出されたのは、お世辞にも洗練されているとは言えない、しかし創意工夫に満ちた手作りの装置だった。段ボールで作られた簡素な囲いの中に、ドライアイスと特製の誘引剤が置かれ、その周囲には複数のコンデンサマイクが、まるで獲物を狙うかのように配置されている。ややあって、会議室のスピーカーから、実際に録音されたという蚊の羽音が流れ始めた。それは、耳慣れた不快な音とは異なり、どこか複雑で、微細な振動が織りなす繊細な調べのようにも聞こえた。
これこそが、南雲先生らしいご講演だ。高価な実験機材に頼るのではなく、身近な素材を使い、知恵と工夫で、ありふれた昆虫の知られざる一面を捉えようとする。その真摯な探求心に、私はいつも心を打たれてきた。
講演が終わり、会場が温かい拍手に包まれる中、私は壇上から降りてこられた南雲先生のもとへ駆け寄った。
「お久しぶりです、南雲先生」
緩やかなパーマのかかった白髪に、縁の細い眼鏡。昔と変わらない、痩身の老紳士然とした佇まいに、私は声をかけた。
「おや、これは、これは。七瀬さんではありませんか。お元気でしたか。生物の先生になられたのですね」
先生は、少し驚いたように目を見開いた後、すぐに穏やかな口調でそう応じてくださった。
「はい。お陰様で、なんとか。毎日、元気にやっております」
私は、自然と笑みがこぼれるのを感じながら答えた。
「それは何よりです。して、今は、どちらの学校で教鞭を執っていらっしゃるのですか」
「献栄学園高等学校です」
私のその答えに、南雲先生はふと何事か思い出すような表情をされた。
「ああ、そうでしたか。ところで、献栄学園といえば、犬飼誠司先生は、お元気にしていらっしゃいますか。最近、双翅目昆虫の研究会や、地方の支部会でも、とんとお見かけしないものですから、少々気になっておりまして」
南雲先生の口から、あの先生の名前が飛び出した。犬飼誠司。その名前は、亡くなられた生物の先生ではないか。
「申し訳ありません。私、就職したばかりでして、犬飼先生という方は、まだよく存じ上げなくて」
心苦しい気持ちでそう答えると、南雲先生は少し残念そうに、ふっと遠くの景色でも見るかのような眼差しをされた。
「そうでしたか。犬飼先生は、継代飼育を専門とされ、それは精力的に研究活動をなさっていた方でしてね。私もそのご姿勢には、非常に多くの刺激をいただいていたのですが」
その時、「南雲先生、そろそろお時間ですが」と、会場のスタッフらしき方が、恐縮した様子で先生に声をかけた。
「おっと、もうそんな時間ですか。いやはや、失礼いたしました。それでは七瀬さん、また機会があれば、是非大学の方へも遊びにいらしてください」
南雲先生は、にこやかにそう言うと、スタッフに促されるようにして会場から退室された。私は、「はい」と短く答えて、その背中を見送った。
午前の講演が終わり、ようやく休憩時間となった。
昼食は、天野先生と一緒に、この会議場の一階に入っているカフェテリアでとることにした。明るく開放的な店内は、同じように研究会に参加しているらしい人々で賑わっている。
「天野先生は、午後からは高校地学のグループの方へ行かれるのでしたよね」
運ばれてきたコーヒーの湯気に顔を近づけながら、私が尋ねた。
「ええ。そうなの。大学時代の友人が、久しぶりに顔を出すって連絡をくれてね。ちょっと会いに行こうかと思って。七瀬先生は、高校生物の会場よね」
天野先生は、ふわりとした前髪を指で軽く整え、優しい微笑みを私に向けた。
「ええ。そうです。ところで、恩師の南雲先生から聞いたのですが、犬飼誠司先生ってどんな先生だったんですか」
私は、ふと、犬飼誠司先生について素朴な疑問を投げかけた。
天野先生の眉毛がピクリと動く。
「あの、七瀬先生。もし、今日の午後のプログラムが全部終わったら、エントランスの前あたりで、待ち合わせをして、夕飯でも一緒にしませんか」
その提案は、どこか唐突でだった。
「ええ、別に構いませんよ」
私は、内心で何事だろうかとは感じたが、いつも通りに微笑みながら答えた。
触れてはいけない話題だったのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、私は運ばれてきた熱々のホットサンドを黙々と頬張った。とろりとしたチーズと濃厚なミートソースの味が口の中に広がった。
その後、同じ会場で「生物教師の集い」と称した情報交換会のようなものがあり、それが終わる頃には、時計の針は午後四時を大きく過ぎていた。慌てて荷物をまとめ、約束の場所であるエントランスへと小走りで向かうと、そこには既に、天野先生が穏やかな表情で待っていた。
「すみません。だいぶお待たせしてしまったようで」
私は息を切らしながら駆け寄り、遅くなったことを詫びた。
「ううん、私もちょっと前に着いたくらいだから、全然待ってないわよ」
天野先生は、いつもの柔らかな笑顔でそう答えてくれる。
「それじゃあ、一緒に行きましょうか」
そう言うと、くるりと踵を返し、ゆっくりと歩き始めた。私もその隣に並び、駅へと続く道を共に歩もうとするが、少し立ち止まって尋ねる。
「夕飯のお誘いありがとうございます。ですが、その、天野先生、本当によろしいのですか」
妊娠されている方を、あまり長時間連れ回すのは気が引ける。それに、ご主人が奥様の帰りを待ちわびているのではないか、という思いも頭をよぎった。
「あら、心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ、夫は今日から出張で数日家を空けていて。それに、たまには、こういうのもいいじゃないの」
天野先生は、悪戯が成功した子供のように、くすりと笑う。その表情は、教師の先輩後輩というよりは、気の置けない古い友人に向けられるような、砕けた親密さに満ちていた。普段の、聖母のように全てを包み込むような彼女とはまた違う、気安い一面。きっと、こちらの方が、天野先生の本来の姿に近いのかもしれない、とふと思った。
私たちは駅のロータリーを抜け、活気のある商店街のアーケードをくぐり、そこから一本脇に入った細い小路へと足を踏み入れた。提灯の灯りがぼんやりと石畳を照らすその道沿いには、古風な佇まいの居酒屋が数軒、軒を連ねていた。そのうちの一軒、藍色の暖簾に白抜きで、『寿司屋ゑにし』と、どこか懐かしい古い字体で書かれた店の前で、天野先生は足を止めた。
「天野先生、ここって」
私が言いかけると、彼女は人差し指をそっと私の唇に当て、悪戯っぽく微笑んだ。
「たまには、先輩らしいこともさせてほしいの。ね」
その言葉には、新任教師の、お世辞にも多いとは言えない私の給料を気遣ってくれているのがありありと分かり、恐縮する。
「その、それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
私は深々と頭を下げた。
引き戸を開け、暖簾をくぐると、店内はカウンター席といくつかの座敷席に分かれており、既に数組の客が食事を楽しんでいた。常連であろう、年配の男性が一人で手酌酒を楽しんでいたり、老夫婦が静かに語らいながら寿司をつまんでいたりする。まさに、知る人ぞ知る隠れ家といった風情だ。
「いらっしゃい。 おや、珠紀ちゃんじゃねえか。久しぶりだな。今日はいいのが入ったんだ、久しぶりにキュッといっとくか」
威勢のいい声と共に、カウンターの向こうから、恰幅のいい店主らしき寿司職人が顔を出し、手でくいっとお猪口をあおる仕草をして見せた。
「ご無沙汰しております、大将。お誘いは嬉しいんですが、生憎、今はこれなものですから」
天野先生は、少し照れたように微笑みながら、膨らんだお腹にそっと手を当てた。
「おやおや、そうだったのかい。はしごでも来てくれて、ありがてぇ。軽めにしておくか」
店主がそう言うと、隣にいた奥さんらしき小柄なおばあさんが肘で小突く。
「あんた、察しが悪いんだよ」と呆れたようにため息をついた。
私たちは奥の小さな座敷席に通され、おかみさんから冷たいおしぼりと手書きのメニュー表が手渡された。
「ごめんねえ、珠紀ちゃん。こんな気の利かない亭主で。あがりは、冷たい麦茶でいいかい。 それと、お連れ様も、麦茶でよろしいかしら」
「はい、ありがとうございます」と私たちは頷き、おしぼりで手を拭う。
「天野先生は、こちらの常連でいらっしゃるんですか」
私は、先ほどの店主との気安いやり取りを思い出し、尋ねてみた。
「そうなの。学生時代にね、サークルの飲み会で初めて来て以来、気に入っちゃって。多い時は月に二回くらいのペースで通っていたと思うわ。結婚して、少し遠くに引っ越してからは、なかなか来られなくなってしまったんだけど」
天野先生の声には、どこか過ぎ去った日々を懐かしむような、温かな響きが込められているように感じられた。
「ここの穴子は特に絶品でね、わざわざ遠方から、これだけを目当てに来る常連さんもいるくらいなのよ」
彼女はメニュー表の一点を指さし、楽しげな声で説明する。そこには『名物 穴子寿司セット』と書かれていた。
「それじゃあ、私もそれでお願いします」
私は、その熱心な勧めに素直に乗ってみることにした。
「何か飲む。日本酒も美味しいのがあるんだけど」
天野先生が、いたずらっぽく私に日本酒を勧めてくる。
「いえ、私はアルコールがあまり得意ではないので。こちらのソフトドリンクにします」
私はメニュー表に小さく書かれていたウーロン茶を指さした。
「そう。それじゃあ、私は、これにしようかしら」
天野先生は、ノンアルコールビールの欄を指さした。
「すみませーん」と天野先生が声をかけると、すぐにおかみさんが注文を取りに来てくれた。
しばらくして、艶やかな朱塗りの寿司桶が運ばれてきた。中には、ふっくらと煮上げられた穴子の握りが六貫、そして細く刻まれたかんぴょう巻きと、鮮やかな黄色い卵焼きが美しく盛り付けられている。穴子に塗られた甘辛い煮詰めは、まるで琥珀のように深い色合いをしており、店の温かな照明を反射して、きらきらと輝いていた。
食欲をそそる見た目と香りに、思わず喉が鳴る。
口の中でほろほろと柔らかい煮穴子が舌の上でとろけ、芳醇な甘みが広がる。その繊細な味わいに何度か舌鼓を打ち、夢中で箸を進めていたが、寿司桶の中身が残り二割ほどになったのを見計らい、私は思い切って、天野先生に切り出した。
「天野先生。お話ししにくいことをお伺いするようで恐縮なのですが、その、犬飼先生とは、どのようなご関係でいらしたのですか」
私の問いに、天野先生は、持っていた湯呑みを静かに膳に置いた。そして、少しの間、何か言葉を探すように宙を見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「えぇ、そうね。私が結婚を機に、この献栄学園に赴任してきたのが、今から四年ほど前のこと。その頃、犬飼先生は、生物の担当教員として、それは熱心に教鞭を執っていらしたわ。赴任したばかりで右も左も分からなかった私に、生徒指導のことで困っていると相談すれば、いつも懇切丁寧に、時には経験を交えながら教えてくださったの。それに、生物の研究活動を積極的にされていたみたいで、先生が顧問を務めていらっしゃった生物部は、毎年のように科学系のコンクールで素晴らしい成績を収めていて、確か、文部科学大臣賞を受賞したこともあったはずよ。でも、あれは、確か三年くらい前、だったかしら。犬飼先生の奥様が、不慮の事故で、亡くなられてしまってから。そこから、先生は少しずつ、何かがおかしくなっていったように思うの」
天野先生は、テーブルに置かれた麦茶のグラスを手に取り、一口静かに飲んだ。その憂いを帯びた横顔には、深い後悔と、どこか諦観にも似た感情が複雑に交じり合っているように見えた。
「はじめは、本当に些細なことだったのよ。そうね、例えば、生物部の生徒が、飼育当番をしていた大切な実験用の虫を、不注意から逃がしてしまったことがあって。その時、犬飼先生は、それまでからは想像もできないような剣幕でその生徒を皆の前で罵って、そして、思わず、手が出てしまったの。結局、その一件で犬飼先生は学校から厳重注意を受けて、生物部の顧問からも外されることになったわ。でも、犬飼先生ほど熱心に生物部の指導ができる後任の先生はなかなか見つからなくて、残念ながら、あれほど実績のあった生物部も、そのまま解散ということになってしまったの。それからかしら。犬飼先生は、まるで何かに取り憑かれたように、一人でますます研究にのめり込むようになっていった、と聞いているわ。そんなある日の夕方、街中で、犬飼先生が、なんだか酷く憔悴して、足元もおぼつかないような様子でふらふらと歩いているのを見かけて。心配になって、私、思わず『先生、大丈夫でいらっしゃいますか』って声をかけたの。すると、犬飼先生は、ゆっくりとこちらを振り返って、そして、笑ったのよ。私、何だか、ぞっとしてしまって。そして、先生は、こう言ったの。『ええ、私は大丈夫ですよ、天野先生。ようやく、ようやく妻に会えるんです。もう、もう少しで』って。その時の、何とも言えない、虚ろで、それでいてどこか嬉しそうな、あの表情が忘れられなくて。私は、怖くなってしまって、それ以上何も言えずに、その場から逃げるように立ち去ってしまったの。今でも時々思うわ。あの時、無理やりにでも、どこか病院にお連れするべきだったのかもしれないって。少しだけ、後悔しているの。その翌日くらいからだったかしら、犬飼先生は学校を無断で欠勤されるようになって、結局、年度の途中からは、非常勤の先生が授業を代行されるようになったのよ」
天野先生は、まるで遠い日の出来事をしみじみと語るかのように、静かな声でそう言った。その言葉の重みに、私は何と声をかければよいのか分からず、ただ黙って聞いていることしかできなかった。
「さて、と。少し湿っぽい話になってしまったわね。ごめんなさい。ここからは、本題に入りましょうか」
天野先生は、ふっと息を吐き出すと、先ほどまでの沈んだ表情を消し、努めて明るい声で微笑んだ。
「実はね、七瀬先生に一つ、頼みたいことがあって。今、私が一応担当している天文サークルの監督者をあなたに引き継いで欲しいと思っているの」
天文サークルという言葉に、私は佐藤さんの快活な笑顔と飯田君の真摯な眼差しを思い浮かべた。
「今、私が名目上の監督者ということになっているんだけど、ご存知の通り、この身重の状態で、夜間の天体観測に何度も付き合うのは、ちょっと健康上のことを考えると厳しいかと思って。それに、あと少しで産休にも入るから、遅かれ早かれ、どなたかに引き継いでいただかないといけないしね」
確かに、お腹の子のことを考えると、夜間の活動は無理があるだろう。しかし。
「なぜ、私に、そのお話が来たのでしょうか」
素朴な疑問をぶつけてみた。他にも理科の先生はいらっしゃるはずだ。
「それはね。ふふ、実は、佐藤さんと飯田君からの強い推薦があったからなのよ。私が後任をどなたにお願いしようか少し悩んでいた時に、二人揃って七瀬先生がいいですって、言ってくれて。二人は、あなたのこと、すごく信頼しているみたいよ」
「でも、私、あまり天文には詳しくありませんが」
私は、正直にそう白状した。生物のことならまだしも、星空のことは専門外だ。
「そこは心配いらないわ。顧問の先生は、別にいらっしゃるから。実は、私の義理の妹になるんだけどね」
そう言うと、天野先生はハンドバッグから深紅のケースに入ったスマートフォンを取り出し、一枚の写真を見せてくれた。そこには、朝焼けに染まる広大な雲海を背景に、ごつごつとした岩場に立つ三人の人物が写っていた。登山の装備を整えた笑顔の天野先生と、その隣で少し照れたように笑う、おそらくご主人であろう男性。そして、二人の間に挟まれるようにして、スレンダーな若い女性が立っていた。その女性の首からは、地球をモチーフにした可愛らしいストラップが付いたスマートフォンがぶら下がっている。
「この一番右の男性が、私の夫。この女性が夫の妹で美月っていうの。彼女も私と同じ地学の教師だけど、私とは専門が違って、特に天文と宇宙物理学を専門にしているわ」
そういえば、天野先生は、地学の中でも特に地層や岩石を専門に大学時代は研究されていたと以前に聞いたことがある。なるほど、そういう人選だったのかと納得がいった。
「分かりました。私でよければ、引き受けさせていただきます。ところで、その観測会のスケジュールというのは、どうなっているんですか」
「ありがとう、助かるわ。それでね、少し言いにくいんだけど、実はもう予定が決まっていて。来週の土曜日、学校のグラウンドで秋の星座の観測会を行うことになっているのよ」
唐突な話ではあったが、一度引き受けた以上、断るわけにはいかない。それに、と私は内心で思った。夜の学校、それも旧校舎に近いグラウンド。それは、あの踊り場の謎を、再び探る絶好の機会になるかもしれない。
店を出て、ひんやりとした夜風が心地よい小路を抜け、私たちは駅へと向かって再び歩き出す。
「天野先生、本当にごちそうさまでした。とても美味しかったです」
私は改めて、心からの感謝を伝えた。
「ううん、大丈夫よ。気にしないで。たまには先輩らしいことしないとね」
天野先生は、悪戯っぽく微笑んで見せた。
私たちが駅の構内に着く頃には、時計の針は午後七時半を指していた。
程なくして滑り込んできた電車に、私たちは静かに乗り込む。幸い、車内は空いており、私たちは並んで席に腰を下ろすことができた。
電車がガタンと動き出す。電車の揺れが落ち着いてから、私達は雑談で天野先生の馴れ初めの話や結婚、教師になった経緯などで盛り上がった。
天野先生が話し終え、
「お互いの趣味や好きなものが合うというのは、本当に素敵なことですね」
私は心からの感想を笑顔で伝えた。
「ええ、本当に。七瀬先生も、いつかきっと、そんな素敵なパートナーが見つかるといいわね」
天野先生は、優しく微笑んでくれる。
「そうですね。できれば、虫を怖がらない人がいいですね」
私は、思わず頭を掻きながら、少しはにかんでしまった。
やがて、電車は目的の駅に到着し、改札を出て、いよいよお別れというタイミングで、ふと、天野先生が私を呼び止めた。それまでの和やかな雰囲気とは打って変わって、その表情には真剣な色が浮かんでいた。
「七瀬先生。単刀直入にお聞きするけれど。旧校舎のことについて、色々と調べていらっしゃるそうね」
私は、そのまっすぐな視線に射抜かれ、ただ「はい」とだけ答えるのが精一杯だった。
「犬飼先生が、あんなふうにおかしくなりだしたのは、旧校舎に頻繁に出入りするようになってからだったの。天文サークルの子たちも、最近、旧校舎のことについて色々と調べているみたいだから、私、本当に心配で。もちろん、七瀬先生のことも、よ。だから、その」
天野先生は、そこで言葉を詰まらせ、何かを言おうとしては、また飲み込んでしまう。その悲しげな表情からは、深い苦悩と、言葉にできない何かに対する恐れのようなものが滲み出ていた。気まずい沈黙が、夜の駅前に重く流れる。
「ごめんなさいね、こんな話をしてしまって。兎にも角にも、絶対に、無茶だけはしないでちょうだいね」
ややあって、天野先生は、無理に作ったような、しかし心からの気遣いが込められた笑みを私に向けた。
私は、その言葉をしっかりと胸に刻みつけるように、「はいっ」と力強く頷いた。
「それじゃあ、また月曜日に、学校で」
天野先生は、小さく手を振ると、ゆっくりと夜道へと歩き去っていった。私は、その華奢な後ろ姿が見えなくなるまで、黙って手を振りながら、彼女を見送った。
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