その愛に喝采を

 ――枯れていく花のよう。

   きっと最後には、その根すらも残らない。


 病床の彼女の姿には、毎日のようにそう思わされる。

 まるで呪いのように。その姿は、もうすぐ土の下に消えるとでも言いたげに。


「そんな顔をしないで、愛しいあなた。笑った顔を見られたほうが、わたしも癒されるのだから」


 寝台から上体を起こし、オレを見て儚げに微笑む。その姿はやはり、風に揺れる花のようで。

 細い彼女は、きっと次の冬を超えられない。

 嗚呼、おまえが本当に花ならば。

 花弁が散った後にも何かが残るというのなら、きっとそれさえ愛してみせよう。

 茎でも葉でも、根でさえも。誰に無様と詰られようと、愛し通してみせるのに。

 けれど墓石ひとつ残されたって、そんなものを愛することはできない。

 野に咲く石がどれだけ花に似ていようとも……それには愛したおまえの血など、微塵も通ってはいないのだから。


「ずっと寝台の上で退屈ではないか、なんて、何を言うの? 毎日あなたが付き添ってくれるお陰で、退屈なんてちっとも感じられませんのに」


 ――流れていく雲のよう。

   きっと最後には、涙の雨しか残さない。


 窓の外を眺める彼女の横顔は、そんな感慨をオレに抱かせる。

 そうだ、おまえは雲だった。

 人は皆愛する者を太陽に例えるけれど、オレは陽の光は嫌いだ。

 東方の血が濃く出た風体、人並み外れた上背に、弱視の右目と重瞳の左眼。周りと違って異形のオレは、いつだって陽の光の下では蔑まれたから。

 そんなオレにとって安らげる場所とは、雲が作る日陰のような。

 涼しく、優しく、安らかな……それがこの体の唯一の居場所で、つまりおまえの隣だった。

 だから、オレはこの日陰から弾き出されることに怯えている。

 おまえがくれたこの涼しい日陰が、足を取る冷たい泥濘ぬかるみに変わってしまうなんて。


「……ねえ、もっと目を見せて。わたしの霞む目が映らなくなる前に。そのまなざしでわたしを見て。あなたの三つぶんの瞳、すべてにわたしが焼き付くように……」


 ――崩れていく砂のろう

   きっと最後には、記憶の一粒さえ残らない。


 それが、オレと彼女との日々。

 何かを紡ぐこともなく。

 何かを描くこともなく。

 ただ緩やかな崩壊の中、何も出来ずに終わりを待つ、その一室でのみ許された逢瀬。


 「そんなの認めてたまるものか」!

 そう心の限りに吼えて。

 愛を諦められない愚かな男は、金銀を喰らう獣に堕ちた。

 そうして奪った財で買う――薬を、薬師を、解呪師を、聖職者を。

 金を積んでも延命が限界ならば、更なる大金で次の望みに縋るまで。

 もっと良い薬を。もっと優れた魔導士を。

 その為に必要だと言うのなら、もっと奪ってやるまでだ――。


 嗚呼、なんたる無知。なんたる愚劣。

 人里を襲う害ある魔獣など、高潔な騎士に誅殺され道半ばで斃れるもので。

 そんな獣に堕ちた時点で、誰かを愛する資格も自由も、この身は喪失していたと。

 その程度のことにも気付けないとは、我が身のなんたる蒙昧なことか。


 枯れていく花を看取ることも。

 流れていく雲を見送ることも。

 血を啜る獣には断じて赦されぬことであると、オレは騎士の剣に裁かれてやっと気づいたのだ。


 ――崩れていく砂の楼。

   獣がいくら吼えたところで、もうこの愛は届かない。


 嗚呼、それでも。

 彼女が今もあの部屋で、あの寝台の上で窓を開けて。

 秋風に体を病むことさえ厭わず、オレの帰りを待っているというのなら――。





     ◆◆◆





 ――重瞳の瞳が、開かれる。

 ひとつの眼球にふたつの瞳孔。ひとつの魂にふたつの魔眼。

 そんな瞳が決意を湛え、しかと己の敵を見る。


 それは、魔王に抗する勇者のように。

 戦場を俯瞰する俺の視線の先で……仁王立つアダマリアに対し、コーダウは唸った。


「なら――死んでも勝つしかねえだろうが、なァ?」


 言うや否や、重瞳の男は身を低くした。

 魔獣の如き四足の構え。肉体に充満した活力によって、その長髪がざわりと騒ぐ。

 びきり、ここまで届いた異音とは、その脚の力を受けた大地の悲鳴。

 嗚呼、また彼の脚が肥大している。異常の筋力により皮膚が内から盛り上がり、はち切れんばかりの力が今か今かと解放の瞬間を待ちわびている。

 前兆は無かった。

 肥大した脚が、地を蹴った。

 いつの間にやら――それこそ瞬きの間に、アダマリアの『脚力』を奪っての跳躍だった。


 轟音。

 それを伴って、反動で地面が爆散する。

 その様を表現する語彙を、俺はやはり『砲弾』しか持たない。

 軌道は直線、速度は疾風。

 今やコーダウの肉体とは、城壁を喰い破る砲弾そのもので。


 対し、アダマリアの体はがくんと緩慢に沈むだけ。

 脚力を奪われたその脚は、回避どころか防御の為に踏ん張ることさえできやしない。

 『簒奪の魔眼』。

 重瞳の魔眼によって敵の脚から一切の力を奪い、奪った力を利用して敵を蹴る。

 故に必中。故に必殺。

 肥大した脚が放つ蹴撃は死神の鎌となって、落下するアダマリアの体、自由を失ったその首を一撃の下に断つ――。


 ぐん、と。

 地に落ちる途中だったアダマリアの体が突如として持ち上がり、その掌がコーダウの蹴りを受け止める。

 脚撃と、掌底。

 衝突音はやはり爆発めいていて、衝撃は周囲の大地を捲り上げんばかりだった。余波によって発生した突風でさえ、俺と姉さんにとっては未曾有の嵐そのもので。

 嗚呼、けれど――その蹴りを受けた掌は、アダマリアは微動だにしていなかった。

 例えその脚に力が入らずとも、「そうなる」と分かってさえいれば、彼女は体を支える方法を失わない。

 尻尾。

 何故ならその尾骶の下からは、そういうものも生えていたのだから。

 竜か蛇か、ともかく爬虫類の如き彼女の尻尾が、力を奪われた脚の代わりにその肉体を支えていて。


「――」


 息つく暇もなく、続く攻防も一瞬。

 動揺も逡巡も振り切って、再度、重瞳の魔眼が瞬く。

 コーダウの腕が通常有り得ざる規模で肥大する。

 同時、アダマリアの両腕がへたりと力を失う。

 腕力を奪われた、なんて言葉を紡ぐには、次の動作は速過ぎた。

 ただでさえ獣の咢たるコーダウの五指。

 ソレは今や悪鬼の表皮さえ貫通するアダマリアの腕力を得て、指先という死牙を獲物に突き立てんと轟風を纏って襲い掛かり――。


 ばくん、と。

 銀の風が一陣舞うように。

 交差するように奔った真なる咬合が、余りに呆気なく、偽の咢を捥ぎ取った。


 最早、言葉も無かった。

 流血さえ世界は忘れた。

 たん、とアダマリアが軽やかに着地する。

 その口元が咥えているのは、枯れ木の枝にも似た……人の、腕。

 肘上から千切れ断面を晒したそれは、猛獣めいて筋肉質で大きな……コーダウの左腕、


 ぶらん、力を失ったその腕が揺れて。

 ぺっと吐き出す。

 どちゃりと落ちる。

 ごろん、と力なく地を転がる。


 それで、コーダウが永遠に左腕を失ったのだと理解した。

 咬み千切られたふたつの断面から、思い出したかのようにどっと大量の赤が噴き出し、粘性を伴って地に溢れ落ちる。


 冷然と。

 コーダウの左腕を、自身は腕さえ使わず一瞬の内に奪ってみせた人型の怪物は、黄金の瞳を細め敵を見下して。

 失血か痛みか、跪いて許しを請うが如く片膝を突いたコーダウへ、言い放つ。


「――分からんな」


 声もまた低く冷たく。

 今しがた自分の腕を食い千切った口が放つ、刹那の攻防に勝利した歓喜や安堵など微塵も感じられぬその非人間的に過ぎる声とは、一体どれだけの恐怖をコーダウの心胆に与えただろうか。


 それでも、信じられぬことに――。

 片腕を奪われ、片膝を突き。勝負あったと誰もが判断するこの状況で尚――重瞳の男は、その口の端を吊り上げてみせたのだ。


「は……これだから、女は。アンタ等には分かんねえかも、しれねえ、が……男ってのは、夢見るモンだ。妥協で満足する、なんざァ、男のすること、じゃねえ。

 男に生まれたからにはさァ、でかい夢見なきゃ嘘なんだよ、なァ」


 腕を捥がれてなお揺らがぬ、勇者そのものの信念は……けれど負傷により譫言うわごとめいた響きだったからか、先とは全く反転した印象を俺の胸中に抱かせた。

 ……まるで、呪いだ。

 彼が本来持つはずの冷静な判断力を、逃げるべきだと叫ぶ生存本能を、その信念がその場に縛りつけている。

 雁字搦めの鎖。常人のそれを遥かに超越した勇気こそが、今や男を死地にて縛る呪縛であった。


 しかし実際のところ、アダマリアの言葉とは、その信念に対してのものでは無く。

 彼女が再び、コーダウへ冷然と言う。


「それが分からんと言っておるのだ。ならば問うが、貴様、それほどの強さがありながらなぜ賊などに身をやつした。その重瞳の魔眼さえあれば、戦場で武勇を誇る事など容易かったろうに」


 指摘は、やはり正論であった。

 コーダウの魔眼の力に加え、腕を奪われて尚逃げ出さぬ程の精神力があれば、現世の戦場でなど容易く無双できたであろう。なにせ現世には、今彼を圧倒しているアダマリアは――地獄の底の怪物は居ないのだから。

 それでも……事実として、あるいは自認として、彼は賤しい賊である。彼の言う「大きな夢」とは噛み合わぬ、小悪党であると自称し自嘲している。

 果たして、その矛盾を成立させ得る、彼の生前とは何なのか。


 失血の朦朧もあったのだろう。

 或いは、観念し自白する囚人のように……ぽつり溢すように、男は語り始めた。


「あァ……そう、だなァ。だが、簡単なことさ。

 は……男が野心ゆめを捨てる理由、なんざァ、いつだってたったひとつ、だろうぜ」


 アダマリアは、それで察しが付いたようだった。

 言葉は、矢を放つように飛んだ。


「――『愛』。女か」

「は……馬鹿な話だろ、なァ」


 自嘲の声は、肯定であった。

 罪人が懺悔するように。聖人の祈りの言葉のように。

 賊は、溢す。


「男に生まれたからには、さァ、でかい夢見なきゃ、嘘だが、よぉ。惚れた女を幸せにする、その為になら……オレたち男はその時こそ、嘘なく、後悔なく、バカげた夢を捨てられるの、さァ。

 いや、違う、なァ……惚れた女を自分の手で幸せにすんのは、きっと、何よりでかい夢なんだよ、なァ」


 ふらり、コーダウが立ち上がる。

 失血と、左腕の喪失による重心の変化。それが彼の長身をふらつかせ、今にも倒れてしまいそうで。

 ――けれど、倒れない。

 幽鬼が如くふらつく脚には、しかし徐々に活力が戻って行く。

 それは魔眼の力ではない。失った血に代わるものは、既に問答の中で語られていた。

 『愛』。

 それを宿して、意志の光を取り戻し。ふたつ重なった瞳孔が、爛々と敵を――アダマリアを、しかと睨む。


「そうだ――男に生まれたからにはよぉ!

 まだ何も出来てねえんだ、病床から解き放ってやれさえ、まだッ……! なのに、アイツ独り現世に置き去りにしたまま、地獄で足踏みなんざしてられるかよ、なァ……!」


 嗚呼――それこそが、コーダウという男の目的であった。

 そうだ。理由なく悪逆非道を成す者など居ない。

 彼の手下たる亡者たちが、脅され生きるために命令に従ったように。

 俺が姉さんを、地獄の底の怪物に頼ってまで救い出そうとしたように。

 コーダウもまた、他の亡者や姉さんを踏み躙ってでも生き返り、自分の妻を救おうとしていたのだ。


 魔獣めいたその男は、けれどその実、この場の誰よりも『人間』だった。

 言葉は、最早アダマリアにさえ向けられておらず。

 きっとそれは、世界に対する魂の咆哮であった。


「賊で何が悪ぃ、なァ! 何の罪も犯さず幸せに暮らしていけるとか、テメエ等はさぞ恵まれてるんだなァ! 生憎、オレ等ァそうじゃ無かったんだよ、なァ……!

 金持ちでもねえ、貴族でもねえ! 病呪に侵され寝たきりで、大金積んで延命がやっとのアイツと、この魔眼の力以外何にもねえ莫迦なオレ……!

 なら、恵まれたテメエ等から奪ってでも、たったひとりの女を優先しなけりゃ噓じゃねえか! オレの愛が嘘だったみてえじゃねえかよ、なァ!

 奪うしかないなら、オレは奪うさ……アイツを幸せにするために! オレの愛の証明の為に! 世界から全てを奪ってやらァ――!」


 人間という名のその猛獣は、手負いとなってなお一段とその迫力を増していて。

 失った腕の一本すら、気迫で補われたと錯覚する程の咆哮だった。

 傍で見ていただけの俺は、その姿に確かに彼に気圧されて。

 そうだ。俺には現世の記憶が無いから、猶更圧倒されたのだ。

 全霊で生き、そして無念の内に死に……そしてこの地獄でさえ諦めぬ人間の、たったひとりの愛する者の為に他の全てを殺すことを覚悟した人間の、その魂の絶叫に。

 そして、アダマリアは――。


 俺は、彼女が嗤うと思った。人外にして強者たる彼女は、弱者たる人間の必死さを滑稽と感じ嘲笑するのだろうと、そう思われた。

 嗚呼、けれど。

 地獄の底の怪物は、八大罪の化身たる女は――。


 笑った。

 目を輝かせ、感動に。

 口元を綻ばせ、敬服に。

 抱擁するように両手を広げ、歓喜に。

 初めて見せた含みなき純粋なる笑顔で、アダマリアは心底から快哉を叫ぶ。


「――よく吼えた! 貴様のその無私なる我欲、昏く醜き嫉妬心は、星明りの如き輝きとして罪たる我が目を眩ませたとも!

 その欲に敬意を。悪に花束を。汝が罪に惜しみなき愛と、そして万雷の喝采を!

 大罪の化身たる我が身に残されし、唯一絶対の礼節に従い。

 我が全霊で以て、その終幕を祝福しようぞ――!」


 果たして、本当に花束でも投げ込むように。

 アダマリアが、その右腕を高々と掲げた。

 ゆるりと、ではない。機敏な、指先まで余さず気力が詰まった動きだった。伸ばしたその腕に全霊の「なにか」が込められていることは、言うまでもなく相対したコーダウには察せられたであろう。


 そして、彼もまた全霊で身構えた。拳を構えるでもなく、踏み込むため重心を沈めるでもなく。ただ目を閉じただけのその姿は、しかし、極東の剣術にあるという居合の構えを連想させる明鏡止水。

 閉ざされた瞼が開いたとき、重瞳の魔眼はかつてない力を発揮するのだと――それもまた、アダマリアには言うまでもなく伝わったに違いない。


 直感した――これが決着の一撃となる。

 『恩寵争奪』、恐らくはその初戦。

 コーダウ、対、アダマリア。

 八つある腕輪のひとつ、『無私の腕輪』を賭けた戦いが、今――。


 無風、無音。

 きっと世界すら固唾を呑んだその瞬間が、合図だった。


――」


 ぎん、と。

 迫力に幻聴さえを伴って、重瞳の魔眼が開帳する――!


 是なる視認こそ、コーダウにとっての必殺の攻撃。砲弾の蹴りなど児戯に堕する最強の技。

 速度はどんな矢よりも速く。防御も回避も決して能わず。

 視ただけで対象から力を奪う、その重瞳こそが『簒奪の魔眼』。


 だが、相対するは八大罪の化身、地獄の底を統べる怪物。

 その手が撃鉄めいて下され、次いで背後の空間が歪むのは、魔眼の発動より更に先んじた。

 瞬きの間の必勝に対するは、瞬きさえも追い越す必殺。


 けれど――それこそがコーダウの真に望んだ展開であったと、一体誰が気付けただろう。


 血涙さえ厭わぬ全霊で魔眼を見開き、男は二足隻腕の魔獣となって吼える。


「その『首腕チカラ』、貰うぞ、女ァ――!!」


 重瞳の魔眼が映すのは――アダマリア本人ではなく、その背後より現れし異形。

 『首腕』。アダマリアの持つ八つの腕にして、大罪を冠する八体の怪物たちの首。

 コーダウの真の狙いはそこに――げに恐ろしき八大罪の力を奪う事にこそあったのだ。


 見たのはたった一度だったが、それで彼は確信していた。

 その力が奪えることを。

 その力は、アダマリア自身の首にも届く必殺の反撃となることを。


 ――

   つまるところ『簒奪の魔眼』とは、ソレに特化した魔眼であった。


 数多伝説で語られる、最も有名スタンダードな怪物怪異の討伐方法。

 無敵の竜鱗と無双の竜爪を持つ竜が、その爪から削り出した剣に殺されたように。

 なぞかけを問いかける砂漠の魔人が、解けぬなぞかけに退くように。

 最強の魔眼を持つ怪物が、『魔眼返し』によって滅びたように。

 伝説は語る。人ならざりし怪物を倒す最善の方法とは、その力を逆に利用する人の知恵だと。

 ともすれば彼の魔眼とは……前人未到の偉業を成し遂げる、選ばれし英雄の力そのものだったのかもしれない。

 重瞳の魔眼、その灼熱の眼光が叫ぶ。

 アダマリアという無敵の怪物を殺すには――アダマリア自身の力を利用すればいいのだと。


 嗚呼、既に矢は放たれていた。

 首腕は顕現を止められない。空間を裂いて、その巨悪は姿を現す。

 それを待ち構えるコーダウの視線の先に、現れる。


 果たして――そのことに気付いたアダマリアは、壮絶なる笑みを一層深くした。

 そして、凄絶なほど声高に。騎士が名乗りを上げるが如く。

 喝采するように、叫ぶ。


「伝説に謳われし最初の魔眼。その威容、その栄光、その破滅を此処に示そう!

 嫉妬の賊よ、さかしまに見るがよい! 貴様を滅ぼす多きまなこを、貴様の死たる罪の姿を――!」


 ――何の因果か。

   はたまた必然の運命か。


 最初から、両者の狙いは鏡写しのように同じであったのだ。

 使

 

 ――!


 そうして、首腕は降臨した。

 それは第一首腕、『高慢』を冠する始海竜レヴィアの姿ではない。

 大蛇めいた体の作る影は酷似している。だが鰓も棘も有さないその体表は、凹凸のない、ぬらりと輝く爬虫類の鱗に覆われていて。

 何より違うのは、その面貌。

 大蛇の体の先端に突如として現れしは、怪物のそれとしては実に不気味な、巨大な人面。更に髪の代わりに生えた細い蛇の群れに囲まれていたことで、その異形はより一層醜悪なものに映る。

 そんな人面の蛇が、ぐぱりと不気味に目を開く。周囲の蛇もまた同じように。

 その瞳をらんと輝かせるのは、全ての眼球が余さず宿した、伝説に封じられし魔眼の力――!


 獣が如き覇気の咆哮に対するは、どこか演劇じみた優美明朗なる女の高声。

 主たるアダマリアが、今、その怪物の名を叫ぶ。


「嫉妬に狂い睨み殺せ、我が第四首腕――人面蛇メドゥラの百魔眼よ!!」


 八大罪が一つ、嫉妬の罪。

 象徴する種はラミア。下半身を蛇とし、種族的に魔眼を有する亜人。

 その中で最も嫉妬の罪に相応しきは、ラミアの祖にして、愛憎の果てに一国を滅ぼしたと謳われる半神。

 その体は神殿を覆う巨体。その髪は蛇の群れ。そして彼女と蛇の髪が持つ計百の瞳とは、その全てが視たものを石化させる絶対停止の魔眼である。

 そんな伝説の怪物が、人面蛇髪の魔眼使いが、アダマリアの首腕として今目の前に。


 嗚呼、一体……彼女以外の誰が、そんな考えに辿り着けようか。

 例えアダマリア自身が魔眼を有しておらずとも。

 彼女が使う首腕が――彼女が腕とした伝説の生物の首が、魔眼を有するという可能性など!


「      !」


 誰かが叫んだ、気がした。

 コーダウが恐れに克とうとしたのか。

 アダマリアが何事かを言い放ったのか。

 それとも、俺自身が眼前の光景に声にならぬ悲鳴を上げたのか。


 俺が見る、その先で。

 『簒奪の魔眼』と『石化の魔眼』。

 重瞳の魔眼と百魔眼の視線が、ぶつかった。


 ――ばちぃッッ!!!


 雷鳴じみた異音と共に、空間が、軋む。

 視線が二色の雷撃と化して激突し、刃が鍔迫り合うように互いを潰さんと荒れ狂う。

 アダマリアは首腕を奪われてはいない。コーダウの体は石化していない。

 当然だ。魔眼の力は、彼等の視線は、今まさに互いを喰い破らんとせめぎあっているのだから。


 嗚呼、眼前で繰り広げられたその現象の名を、俺は姉さんの紡ぐ英雄譚より知っていた。

 それは、ふたつの魔眼の力がぶつかり合った時に発生する現象。

 眼に、眦に、視線に込められた二種の呪い。それは両者の中間にて衝突し、より強い力が弱い力を打ち破り……そして、

 人を呪わば穴二つ。不成立の呪いとは、術者に跳ね返りその身を襲う。

 あるいは他者の瞳、他人の視線とは、己を映す鏡であることの証左なのか。


 趨勢が、傾く。

 片方の魔眼の力が、片方の魔眼の力を押していく。

 びきびきと、まるで空間に罅が入るかのような――世界そのものが砕けるような、音。

 それは均衡の崩壊が近いことを、どちらかの魔眼が敗北することを示していて。


 そして、決着は訪れる。

 伝説における百魔眼の怪物ラミア、人面蛇メドゥラの死因となったその現象の名こそ。



 ――『魔眼、返し』!!



 硝子が割れるような快音が、地獄の荒野に響き渡った。





     ◆◆◆





 一陣、風が吹いた。

 先程までの激しい衝突が嘘だったかのように、世界は動きを見せなかった。

 コーダウ。

 アダマリア。

 勝負の行方は、果たして。


 すぅ、と。

 アダマリアの背後、巨大なる人面蛇メドゥラが、百魔眼を閉じて空気に溶けるように消えていく。

 その光景に、コーダウがふっと小さく笑って。


 そして――その重瞳の魔眼が、内側から血を噴いて砕け散った。


「――」


 どしゃ、と、コーダウの体が力を失い両膝を突く。

 嗚呼、誰の目にも明らかなことに。

 その獣めいた長身からは、既に一切の気迫が、生気すらが消え失せていた。


 コーダウの魔眼と、アダマリアの魔眼。

 両者の差とは何だったのか。

 二と百の圧倒的なる数の差か。魔眼同士の激突を予期していたかどうかの、心構えの差か。

 嗚呼、けれど――懸ける思いの差でないことだけは、きっと確かなことだった。


 それでも、魔眼による激突の勝者は言うまでもなくアダマリアで。

 『魔眼返し』による己の力とアダマリアの魔眼の力、相乗した呪いに重瞳のみならず全身をずたずたに引き裂かれたコーダウ……彼が浮かべた笑みとは、自嘲と諦めの悲壮な笑みであった。


「は……まァ、そうだよ、なァ。他の全てを、捧げたんだ、奪った、んだ……オレが奪われる側になったって、まァ、因果だ。悪いのはオレの力不足、なんだから……まァ、文句は言えねえよ、なァ……」


 ごぷ、と男が口から血を吐いた。

 それはきっと、身に余る欲望の末路だった。『魔眼返し』によって、コーダウは奪おうとしたアダマリアの首腕、それに代わるだけのものをその肉体から奪われたのだから。その中には重瞳の魔眼だけでなく、重要な臓器、特に心臓の大部分も含まれていて。

 膝を突き、力を失った体は天を仰ぐように。

 その砕けた目が……ぽっかりと空いた右の眼窩が、どろりと落涙めいて血を溢す。


「あァ……オレは、結局、どうすりゃよかったんだろう、なァ……。まァ、こんなオレじゃあ、何やったって駄目だったって、そういうことなのかも、なァ――」


 虚ろな眼窩は、最早何も映さない。何も奪えない。

 そんな彼の元へ、歩み寄る者が居た。

 アダマリア。

 勝者は敗者の言葉を聴いて、そしてやはり尊大に告げる――敗者への、惜しみなき賞賛を。


「卑下するな、誇れ。その罪こそが、貴様の生の輝きである」


 圧勝した者にそこまで堂々と言い放たれて……コーダウは最期に再び、あの自嘲の笑みを溢した。


「はッ――なんだ、そりゃァ。亡者に、それももう終わるものに、輝きなんてあるもんかよ」


 左腕を失い。臓器の殆どを失い。最強の魔眼さえを失い。

 力なく膝を突くその姿とは、雨に濡れる老いた獣のよう。かつてその肉体に満ちていた猛々しい闘志、瑞々しい生命の波動も、もう永遠に失われてしまった――。

 そんな自分を、死にゆく自分の姿を自覚していたのだろう。コーダウはやはり自嘲に頬を歪めて。


 けれど、アダマリアは頑として言った。


「違うな。貴様は本当に、その眼がありながら何も見えておらん。

 貴様がどうであろうが関係ない、私が貴様に輝きを見たのだ。貴様の熱が我が心に届き、貴様という輝きが夜天の星として我が心のうちに焼き付いたのだ。何人も、我が胸に宿ったその輝きを否定することはできぬ。例え貴様であっても、な。

 憶えて逝くがよい、愛の勇者よ――生の、命の、ヒトの輝きとはそういうものだ」


 声は尊大ではあるが、それは自分の威厳のためではなく、相手の雄姿を称えるためで。

 冷徹に思われたその響きは、その実、送り火の熱を内に秘めた死者への手向けの言葉であった。

 ――そのつみに、惜しみない喝采を。

 それを受けて、コーダウは。


「……あァ、そう、かよ」


 絞り出すように、それだけを溢した。

 彼の心中を察することなどできない。今わの際――夢破れ、愛やぶれ、その果てに得た賛辞の言葉に彼が何を思ったかなど、俺には想像することさえできない。

 それでも……今彼が湛えた微笑みは、もう自嘲に歪んではいないように見えた。


 ごぷ、と再び大きく吐血して。

 とうとう時が来たのだろう。息も絶え絶えに歪んだ、力の籠らない声で男は言う。


「……悪ぃが、妻が居るんで、なァ。看取られるのは、遠慮するぜ」

「そうか」


 それが、彼等の交わした最後の言葉だった。

 アダマリアは踵を返し、コーダウは深々と礼をするように項垂れた。


 それで、戦いは終わった。

 アダマリアの勝利だった――きっと俺と姉さんにとっても、勝利と言うべき結果だった。

 だけど……だけど。

 俺はコーダウに背を向けてこちらに歩み寄って来たアダマリアを歓喜と共に迎え、その勝利に感謝と祝福とを捧げることができなくて。

 感情さえ追い付けない衝動のままに、声が口を突いて出る。


「あ、アダマリア――」

「なんだ?」

「えっと、その」


 駄目だ。呼びかけたはいいものの、何が言いたいのか俺自身全く整理がついていない。

 ぐるぐる、ぐちゃぐちゃ。

 そんな内心に翻弄されつつ、それでも何とか、言う。


「あの、男は、」

「――もう死ぬ」


 言葉は、切り裂くように鋭く。

 深々と、一言ごとに抉るように。


「いかに亡者といえど、あれではそう持つまい。なに、念を入れて止めを刺したいなら好きにするがよかろう。今なら小僧、貴様でも問題なく可能だろうさ」

「そ、そんな、ことは……」


 そんなことはしたくない、と。

 そう言い切りさえ出来なかった。言い切れない後ろめたさが、今の俺の胸中にはあったから。

 嗚呼、そんな俺の無様さを見て……気分を害したか、アダマリアが僅かに眉を顰める。


「まさか貴様。奴を哀れんでいるのか? ……ああ、そうか。思い出したぞ。

 確か、貴様はこう言っていたものなぁ――『誰かに殺されるのは間違っている』、と」


 声は、気付けば嘲りのそれに変じていた。

 俺の言葉。姉さんを助けるために、あるいは俺が諦めない為に……地獄の底でアダマリアに語った、俺の正義。

 今やアダマリアの声とは、その『正義』を嘲るためのものだった。


「今こそ己の愚かさを、その一端を知るがいい、小僧。

 あ奴は、あの愛深き男は死なぬ限り決して諦めぬ……そういう類の人間だった。それは貴様も理解していよう。そして……死なぬ限り諦めぬというのは、きっと貴様らも同じであろう?

 どちらも死ぬまで折れないというのなら――どちらかが相手を殺す、それ以外に道はなかろうよ」


 ……反論は、無かった。

 唇を嚙み締めた俺を前に、アダマリアは言葉を続ける。


「誰かを殺すのが嫌なら、姉共々黙って殺されておればよかったのだ。

 姉の心を傷付けたくないというなら、そら、姉に永遠の眠りをくれてやればよい。

 それに耐えられなかったからこそ、貴様は私に願ったのだろう。違うとは言わせんぞ。理解していなかったと言うのなら、この光景を以て理解せよ」


 アダマリアが顎で背後を示す。

 その背後に……俺は死にゆくコーダウを、見る。

 体を灰へと変じさせ、手足の先から崩れて消えていく。そんな亡者にとっての死の光景が、俺の目に強く強く焼き付く。

 あれだけ強かった男が、今、何も持たず、何も得られず……項垂れたような姿勢のまま、力なく風に攫われて消えていく。


 ――崩れていく砂のろう

   きっと最後には、記憶の一粒さえ残らない。


 彼の、コーダウのその姿こそが、俺の抱いた願いの結果。

 姉さんを救って欲しい、俺がそうアダマリアへと願ったからこそ……彼の願いは、その蘇りの夢は、永遠に叶わなくなったのだ。

 そうだ。姉さんを救うという願いの招いた果てが、これだ。


「さしもの貴様も、これで理解したであろう。

 姉を救うという事は、姉に襲い掛かるその全てを、殺してでも否定するということだ。

 それが嫌だと言うのなら、そのときは姉を見捨てる以外に道はあるまい?

 姉は救いたいが誰も殺したくない……ああ、実にご立派な高潔さであるなぁ。だが、それはあくまで貴様個人の都合であろう。そんな世迷言の理想論を、一体誰がどうして尊重せねばらなん。

 少なくとも、奴には覚悟があったぞ。己の愛の為に他の全てを犠牲とする覚悟が――他人の全てを否定してでも己の都合を押し通す、そんな覚悟が」


 ぐしゃり、俺の視界の先で、コーダウの体が終わりを迎える。

 腕が崩れる。膝が崩れる。肩が、首が、頬が。

 崩れる度に悲鳴を上げたくなるほどの罪悪感に襲われて、俺は思わず胸を押さえた。


 重瞳の魔眼を持つ賊、コーダウ。

 彼には彼の正義があった。並々ならぬ覚悟もあった。己の妻の為に、愛の証明の為に、彼は堂々と戦っていた。

 ならば、俺は。

 「誰かに殺されるなんてことは間違っている」……それを、俺の正義とするのなら。

 俺には最初から、戦う覚悟も、彼を否定する正義すらも――!


 嗚呼、間違っていた。

 間違いこそが俺で、そしてこの状況だった。

 俺は……正義も覚悟も持たぬまま、その両方を持つ者に勝利してしまったのだ。

 それを間違いと呼ばずしてなんとする。

 この間違いを、俺はなんとすればいいのだろうか――。


 ぎゅう、と、強く強く胸を押さえる。

 噛み締めた唇が破れて血が零れる。

 それでもやるせないこの虚しさは、まるで消え去る気配がなくて。

 そんな俺にとって、アダマリアの声は最早糾弾のように響いた。


「――奪い傷つける覚悟の無い者に、何かを望む資格など無い。

 『誰かに殺されるのは間違っている』――貴様が語ったそんな理想は、どうしようもなく間違っている」


 アダマリアの言葉が――地獄の底の怪物、世界を滅ぼしうる魔王の言葉が、今はどうしようもなく正しく思えて。

 だから、糾弾とはそういうことだ。

 俺の中に正しさはなく、それは今、胸に剣を突き立てられるように。

 罪を自覚しろと。殺す覚悟を持てと。勝ち取ったことに胸を張れと。

 望みを叶えたいなら強く在れ、と。

 きっと、俺はそう弾劾されたのだ。


 嗚呼、そんな正しさを突き付けられて。

 間違いを自覚させられて。

 けれど、それでも――俺は。


「でも、俺は……この悲しみが、間違いだとは思わない。

 この胸の苦しみだけは、否定、したくない」


 懺悔のように、嗚咽のように、絞り出すようにそう言った。

 例え間違いなのだとしても。

 この過ちに、罪に正面から向き合いたいと……そう、思ったから。


「は――貴様はそうであったな。大愚、滑稽、だが潔し。それでこそ、我が下に侍るに相応しき道化である。

 これからも愚直に煩悶し続けるがよい。私が『腕輪』を集め現世に蘇る、その時までな」


 言って、アダマリアは姉さんをひょいと脇に抱え歩き出した。

 ついて来い、とその背中が言っていて。


 ……そうだ、これが終わりではない。

 寧ろ、これから始まるのだ。アダマリアが復活するための、『腕輪』を八つ集める旅が。

 彼女を手伝う、そう契約したことは忘れていない。姉さんを救って貰った今、約束を破る訳にもいかないだろう。例え相手が、復活した途端現世を滅ぼす邪悪なる存在だとしても。


 一度だけ、背後を振り返って。

 先程まで彼が居た場所から、遺灰が風に乗って消えて行くのを目に焼き付けて。

 それで、俺はアダマリアを追った。

 さっき言いそびてしまった礼を言おうと、そう心に誓いながら。



 『恩寵争奪』――初戦、決着。

 『無私の腕輪』、死守。

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