魔眼、対、魔王
「――アレが、私に殺して欲しいという仇敵か?」
廃教会の壁が変じた瓦礫の山の上に立ち――アダマリアが男を睨む。
その視線の先に居るのは……俺、レイワードを地獄の底に突き落とした賊にして、姉さんの『腕輪』を簒奪せんとする倒すべき仇敵。魔獣めいた長身怪力にして、重瞳の右眼を持つ男。
そんな男が……アダマリアを一目見た瞬間、激しく血相を変えたのが俺にも分かった。
「――ッ、全員、あの女ァ殺せ!」
重瞳の男が叫ぶ。
それは彼の背後、手下たる亡者たちへ向けた叫びだ。
重瞳の男とは違い、アダマリアが壁をぶち破ったときの衝撃に耐え切れなかったのだろう。教会の壁際で倒れたり膝を突いたりしている彼等は、その年齢こそまちまちだが、全員が男で……そして僅かに見覚えがあった。集落への襲撃、その惨劇を起こした重瞳の男率いる賊――その一味だ。
そんな彼等はしかし、この急な状況への戸惑いもあったのか……眼を見合わせ、殺せと命じられたアダマリアの姿を見て、それでもすぐには動けなかった様子で。
再び、重瞳の男が咆哮じみて叫ぶ。
「それかオレに殺されてえか、男ならさっさと戦えやァ!」
「――ひ、はい……っ!」
重瞳の男の顔色が憤怒の赤なら、命じられた亡者たちの顔面は恐怖によって蒼白に変わった。
彼等は慌てて立ち上がり、そしてどかどかと微妙に揃わない足並みでこちらへと――アダマリアへと向かって来る。
武器を、手に。
彼等はそれぞれが、刃の欠けた短剣や錆びた直剣など、粗雑な武器を持っていた。
それは、集落の亡者たちを殺した刃。悪政獄では手に入らない、鈍い殺傷の力を持つ凶刃。
だが……悪鬼さえ鎧袖一触に屠ったアダマリアにとって、そんなものは敵が羽虫か芋虫か程度の差でしかない。証拠に、どさりと乱暴に俺を放り捨てたアダマリアが、その細腕を構えて嗤う。
「は、雑魚が。質も量もまるで物足りぬぞ――!」
だから、最初に彼女の元に到達した若い亡者が刃を振り上げた時も、アダマリアへの心配はなかった。
俺が身を案じたのは、寧ろ――。
「アダマリア!」
「むっ」
咄嗟に叫ぶのと、振り下ろされた刃をアダマリアが細い指先で受け止めるのは同時だった。
指先一本、爪先三寸。
それで亡者が全霊で押し込む刃と容易く拮抗、否、寧ろ圧倒し押し返しながら……アダマリアはもう片腕を細い腰に当て、心底呆れたと声を出す。
「小僧、見て分からぬか? 今は道化の出番ではないぞ」
その指先が刃を弾いて軽く横一閃を描く……それで亡者の胴が両断される、そんな一秒後の光景をありありと幻視して。
ぴくり、死の指先の動く予兆に急かされるように、俺は必死に叫んだ。
「アダマリア、殺しちゃ駄目だ! たぶん、その人たちは脅されてる!」
「はぁ? 何を言うかと思えば――」
「『腕輪』の代わりに姉さんを助ける契約だ! なら、姉さんの心も守ってほしい! ……無理、か?」
そうだ、さしもの俺にも分かったのだ。
亡者たちの怯え切った顔を。その顔や手足に残る痣を。彼等と重瞳の男との関係を。
刃を振り下ろす時ですら、彼等は眼前の敵ではなく、背後の重瞳の視線ただひとつを恐れていた。
そんな彼等をアダマリアが殺すのは……何というか、散々頼った支えの杖たる正義の御旗を、自ら血の池に放り捨てるようで。きっと姉さんもそんな展開は好まぬだろうと、そう確信もできてしまって。
だが、これは我儘だと自覚もしている。
直接戦う力もない俺の意見など、どうやっても、彼女の強靭さと度量とに頼った横槍にしかならぬのだから。
だから、そういう意味で「無理か」と尋ねたのだが……どうにも意図が捻じ曲がって伝わったらしく、アダマリアは思いっきり顔を顰めた。
「無理か、だと? 貴様という奴は、いちいち癪に障る言い方をしおってからに……!」
そのままこちらに襲い掛かって来るかとさえ思わされる怒気、凶相。顰められた眉は、一瞬死さえ覚悟させられる迫力を放っていたが……果たして、地獄の怪物は溜息を吐いた。
「……はぁ、まあよい。これも気紛れだ。矜持なく暴れるのも芸が無いしな……望外の幸運に噎べよ、小僧。貴様の姉を救うまでは、その罪深き愚かしさにせいぜい付き合ってやろうではないか」
きっと辛うじて、だが……アダマリアの中の天秤は、欲と品とで後者に傾いたようだった。
しかし、まあ。それは俺の言うことを聞いてくれたというよりは、彼女自身がその制約に一種の愉しみを見出したから、といった風情で。
「とはいえ、手加減は苦手ゆえな。死んでも恨むなよ、木っ端共!」
改めて嗜虐に嗤い、アダマリアはゆるりと――そう見えるだけで極めて俊敏に、動いた。
べちん、と。軽く爪弾くだけで亡者のひとりを壁まで吹き飛ばし、その後の震脚で建物ごと地面を蹴り砕いて。
そうしてアダマリアは、彼女の主観からすると実に優しく――そして俺達亡者から見れば正しく怪物そのものの規格外さで、重瞳の男の部下たちの蹂躙を始めたのだった。
石組みの廃墟が激しく崩落する中、アダマリアの高笑いだけが響く。
そんな彼女の大暴れに対し……俺は崩れる瓦礫の雨の中、ただ一点を目指して走る。
「――姉さん!」
この騒ぎの中、しかし地面に倒れたままの彼女に、俺は慌てて覆い被さった。
どすん、背中に重い瓦礫が数度激突するが、俺の中にあったのは再会の歓喜と彼女を庇えた安堵だけ。
姉さん――ネルヴィ姉さん。
見紛うはずもない灰色の髪の彼女は、息も絶え絶えで、ぼんやりと焦点の合わぬ目でこちらを見た。
「レイ、ワード……?」
「姉さん、俺だ! 助けに来た、一緒に逃げよう!」
声は弱弱しく、反応も鈍い……姉さんはかなり衰弱している。
悪政獄の赤土で全身を汚していてよく分からないが、とりあえず命に関わる外傷や出血は無いように思えた。
とにかく、アダマリアが気を賊の引いているうちに、姉さんを安全な場所へ――。
だが、俺が彼女に肩を貸すのと、その襲来は同時であった。
「なァ、オマエ、あんときのガキだよなァ?」
ぬう、と。
視界に差した影とは、廃教会が崩れる中で一切の動揺を見せない、獣じみた巨躯の男の影であった。見上げればその重瞳が、忘れられぬ恐怖の眼光が、俺たちをじっと覗き込んでいて。
獲物を品定めするように更に顔を寄せて、男はあの唸るような声で言う。
「やっぱりそうだ……なァ、オマエ一体、どうやってここまで戻って来た? オレは確かに、オマエを地獄の底に墜としたよなァ」
「う――重瞳の、男……!」
「あァ、名乗ってなかったかァ? オレはコー・ダウだ、よろしくなァ、勇気ある男。
で、質問に答えてくれると嬉しいんだが、なァ。地獄の底から戻って来た奴なぞ、噂にも聞いたことがねえ。オマエ、一体どういう奇跡を起こしたんだよ、なァ?」
男の声には、態度には、やはり羽根のように軽い殺意が見え隠れしていて。
確かに、地獄の底から帰還したことは無二の奇跡だったのかもしれないが……それでも、俺は理解してしまう。俺自身には、この男――コーダウに対抗する力など、何一つ宿っていないことを。
そんな俺の恐怖を感じ取ったのか。
肩で触れた姉さんの体が、ぎゅっと強張ったのが分かった。
俺と同じように男の声に恐怖したのか、それとも朧気ながら現状を把握したのか……彼女は俺から離れるように、俺の背を押すように体重をかけながら喘ぐように叫ぶ。
「レイワードっ、どうして……! 早く、逃げ、て……」
「姉さん、しっかり……!」
「あァ?」
されど、嗚呼、それは失言だったのだろう。
それを聞いたコーダウはこの状況下にあって、それでも僥倖と頷いたのだから。
「なんだ、オマエこの女の親類か? ならオマエが戻って来たのは、オレにとっても奇跡だなァ。やっぱり質問に答えなくてもいいぜ……まァ、答えたくても答えられなくするんだが、なァ」
俺を睨む瞳、その重瞳の眼が光ったように錯覚し――。
瞬間、異変は起こった。
「――!? ぁ、息、が……!?」
俺は思わず胸を押さえる。
息が、吸えない。否、吸った空気が活力として還元されない。
混乱と窒息で、体から力が奪われる。地面に倒れた俺の名を姉さんが悲壮に呼ぶ、その声すら、遠い。
そんな俺を見下ろしながら、重瞳の持ち主は無情に告げる。
「さて、女。後は言わずとも分かってくれるよなァ。アンタには普通の拷問は通じなかったが、これならどうだって話だ。
さァ、家族を殺されたくなけりゃァ、さっさと腕輪の場所を教え――ッ!」
脅迫は、けれど言い終わる前に驚愕へと変じた。
轟、と。
コーダウの顔面があった場所を、白い脚が轟風を纏って通過する。
その飛び蹴りは、正しく死神の鎌であった。咄嗟に飛びのき躱したコーダウ……その頬に奔った一筋の切り傷は、間一髪で躱した脚が真空刃さえ生み出していた証。
その表情が、大きく飛び退いた先で重心低く身構えた姿勢が何よりも雄弁に語っている――今の一撃が当たっていれば、その顔面は重瞳ごと破裂し跡形もなく爆散していたと。
そんな蹴りを放った、威力に見合わぬ細く美しい脚が――たん、と軽やかに地を踏む。丁度、俺たちとコーダウとの間に立ちはだかるような立ち位置で。
いつの間にか俺は、正常な呼吸を取り戻していた。
見上げた先。その華奢で美しい背は、今は何よりも頼もしく見えて。
そうだ、俺は、無策でここに舞い戻った訳ではない。
あるいは、それよりも破滅的で絶望的な選択だったかもしれないが。
それでも――彼女が俺の味方で居る限り、無力な訳では断じてない――!
そして、彼女は振り向いた。金の瞳が俺を、その傍らの姉さんを見やる。
「ふむ、やはりソレが貴様の姉で相違ないな。ならばそら、さっさとそやつを連れて離れておれ。
貴様には『腕輪』の在処を喋って貰わねばならんからな……貴様も姉も、巻き込んで潰さぬ保証はないぞ」
そう傲岸に嗤うアダマリアこそ、俺の策。俺の奇跡。
地獄の底で出逢い、そしてここまでを連れ立った怪物は、遂に仇敵コーダウと相対して。
そんな異形にして異様なる彼女の乱入に、さしもの大男も動揺を見せる。
「あァ!? アイツ等ァ何やって……まさか、もう手下共を……!」
「ふ、はは――あの程度の亡者共で私の足止めをしたつもりとは、笑わせる。蟻を殺すも抓んで投げるも、大して手間は変わらぬぞ?」
果たして、背後を振り返れば……コーダウの命令でアダマリアに襲い掛かった亡者たちは、全員もれなく倒れ伏していた。
戦闘開始からまだ1分と経っていないだろうに……亡者たちの武器は全てがへし折られ、意識を喪失させられており。けれど呻き声や痙攣する体を見るに、命までは奪われていないようだった。
どうやらアダマリアは、俺の願いをきちんと聞き届けてくれたらしい――勿論、俺が報酬として提示した『腕輪』の為ではあろうが。
正しく無双。正しく鎧袖一触。
そんな美女の姿をしているだけの怪物は、次は貴様だと嗜虐に嗤う。
「知らなかったのなら、そうさな、その脆い体に教えてやろう。私の足止めがしたいなら、せめて大兵団くらいは動かすべきだとな――」
嗚呼、その背に俺は、アダマリアがコーダウに土を付けると確信した。
地獄の底の怪物、八大罪の化身たる彼女に勝てる人間など存在しない、と。
けれど――次の瞬間に起こったことは、その真逆の展開であった。
がくん、と。
何の予兆もなく、アダマリアが地面に片膝を突いた。
「!? アダマリア――」
「おっと。どうやら兵団どころか、オレひとりで充分だったみてえだなァ」
アダマリアが胸を押さえている。コーダウの重瞳が燐光を帯びているように見える。
余りに見覚えがある状況――これは、まさか。
「まァ、オレも一応教えといてやらァ。アンタがどんだけ強かろうが、『中身』がどれだけ悍ましかろうが関係ねえ……オレの魔眼は、あらゆる防御を貫通するのさ」
コーダウの言葉に……俺は思い出す。先の窒息の苦しみを。原因不明の呼吸困難を。
アレがコーダウの重瞳によるものだとするのならば――嗚呼、それでは。
彼に視られただけで呼吸を奪われると言うのなら……ならば例え何者であっても、どれだけの強者であろうとも、彼を打倒することなど出来ぬではないか……!
そんな絶望に、思わず姉さんの体をぎゅっと抱きしめ。
けれど。無知な俺が抱いた予想は、再び裏切られることとなる。
「――ふむ、成程な」
「……なァ!?」
すっく、と。
まるで何事もなかったかのように、アダマリアが平然と立ち上がった。自分の両手、胸に順に視線を向け、再びふむと短く呟く。
「これは、呼吸が不可能になっておるな」
袖が
黄金の眼が、重瞳の魔眼を改めて爛と凝視する。それは下手人への糾弾、怨恨の視線ではない。何故ならその口元は、希少な宝石でも見つけたかのように、欲望によって醜く歪んでいたのだから。
「そも魔眼とは珍しいが、重瞳の魔眼とは初めて見るな……希少性に見合った効果でもある。
気に入った。その眼は私が、手ずから抉り出してやろう」
「馬鹿な……何故平然と動けてんだァ、アンタ。ちゃんと『呼吸』は奪ってんだがなァ……!」
「不敬よな、わざわざ私に言わせる気か? その眼で視たなら分かるであろう……我が身は八大罪の化身、即ち八つの大罪を冠する生物それぞれの特性を合わせ持つ。
その中のひとつ、『倦怠』の罪を背負わされし種は、息をせぬまま動き続ける
とはいえ、呼吸が封じられたままではそれなりに力は落ちるが……貴様を縊り殺すのに何の支障もない」
それは。
何でもないようにそう語るその存在は、余りに非常識で、余りに無茶苦茶で、そして余りにも頼もしく。
恐るべき、と。そう形容することさえ、今の守られる立場の俺には出来なかった。
だが。無敵にも思えるアダマリアだが――敵にそこまで詳しく己の能力を語ったことだけは、失策であると言わざるを得ない。
あるいは彼女を雄弁にした『高慢』さとは、その強大な力と決して切り離せぬ一要素だったのかもしれないが……それでも彼女は、決着を前に語り過ぎではあったのだ。
何故なら彼女の敵――コーダウもまた、無敵に近い魔眼の力を有している強者なのだから。
「ならまァ、しょうがねえなァ」
瞬きを挟み、重瞳の眼が再び光を帯びてアダマリアを直視した。
嗚呼、それは魔力の色だ。悍ましき呪いの輝きだ。
速度は無限。射程も無限。
直視のみで発動する二重に重なった魔眼の力が、再度アダマリアの姿を捉え――。
かくん、再びアダマリアの腰が落ちる。
だが、今回は先とは様子が違った。片膝を突いた、なんてものではない。
へたり込んでいる、と言うのか。その両脚からは完全に力が失われているのが分かる。
「む、これは――」
今度は何が起こっているのか。
その答えは、アダマリアが分析するまでもなく、何でもないように告げられた。
「『呼吸』を奪っても無駄らしいからなァ、代わりに『脚力』を奪った。これでアンタは立つ事すらできねえ」
実に淡々と、実にあっさりと。
そんなコーダウの言葉は、その実、途方もなく恐ろしい宣言であった。
『呼吸』を奪う。それが駄目なら『脚力』を奪う。
英雄譚の主人公でさえ持っていないだろう、強力過ぎる魔法――魔眼。
だが俺はその真偽を疑うより前に、その現象の既視感に気付いてしまって。
「あ、まさか……俺が転んだ、あの時の――!」
『脚力』を奪う――それもまた、覚えがあったのだ。
あれは地獄の底に落とされる直前、賊の襲撃から逃げる時のこと。俺は急に足に力が入らなくなって転び、そして立ち上がれないままコーダウに追いつかれた。
あの時は、自分の身に何が起きたかまるで理解できなかった。余りの恐怖に腰が抜けたのかとも思ったが。
だが、今なら分かる――あれはコーダウの、その恐るべき魔眼の仕業であったのだと!
『呼吸』のみならず『脚力』も……あるいはもっと多彩なものを封じれるのかもしれぬ重瞳の魔眼は、それのみでアダマリアに、悪鬼に圧勝した桁違いの強者にさえ通じる恐るべき武器で。
だから、想像だにしなかったのだ。
その真の力が発揮されるのは、まだこれからであった、などと。
「そして」
びきり、空気を割ったその音は、猛獣が身を沈めた音であった。
コーダウが、魔獣めいた風貌の男が、本当の猛獣のように四足を地に着け身構える。その脚部、皮膚の下で人間離れして蠕動する筋肉の力とは、地面に亀裂さえ奔らせる人外のもので。
否、それは間違いなく尋常ならざる変貌であった。その脚部の膨張とは、明らかに元の倍以上の太さをコーダウの腿に与え、びきびきと内部から異音が響く。
異常、異様、異形。
元々有していた脚力、というよりは、まるで今手に入れた力のような――。
『脚力』。
それで気付く。
あるいは、コーダウは直視した相手の力を封じたのではなく……そうだ、彼はずっと言っていたではないか。「封じる」ではなく「奪う」と、そう正確に。
ならば、この現象とは、つまり。
答え合わせのように、コーダウが叫んだ。
「奪ったアンタの『脚力』で、直接アンタを蹴り殺す――!」
それは咆哮。肉食獣が獲物に飛び掛かり牙を突き立てる、その歓喜に濡れた殺戮への喝采。
――コーダウが蹴った。
地面を蹴って、砲弾となり。
砲弾の勢いで、アダマリアを蹴った。
俺の眼では辛うじてそれだけが分かって。
脚力を奪われたままで躱せるはずも無く、アダマリアが蹴撃を喰らい吹き飛んだ。
遅れて爆裂の音、衝撃波が轟く。
ただの蹴りでは絶対に生まれぬ、それこそ砲弾の直撃・爆発並みの威力が炸裂したのだと直感で理解させられる衝撃。
俺は反射で顔を覆いながら、視界に残った残影に、思う。
死神の鎌を思わせる蹴り。人の身では決して再現できぬだろう威力。今アダマリアの身を襲った蹴りは、まるで彼女の――。
やはり、俺が導き出せる結論はひとつだった。
「あれは、まさか……アダマリアの脚力を得た、のか……!?」
たん、と元の幅に戻った剛脚が地を踏んで。
振り向いた男、その重瞳の瞳が、魔力を帯びて妖しく瞬く。
「あァ、御名答。オレの魔眼の片方は『簒奪の魔眼』……直視した相手の視力や魔力を奪い、奪っている間は自分の力に上乗せする魔眼だ……本来は、なァ」
その眼の力は、視たものを「封じて」いたのではない。やはり言葉通り「奪って」いたのだ。
勝ち誇るような言葉は、しかしアダマリアのものと違い、高慢さによる油断ではない。
なにせコーダウからすれば、アダマリアの足元にも及ばぬほど弱い俺と姉さんなど、それこそ視線ひとつで殺せる相手なのだから。羽虫を前に、立場の逆転を恐れる者など居ない。
「そんで、オレの魔眼のもう片方が――」
「――透視、超知覚の類であろう」
嗚呼、だが――コーダウは、そして俺は、もっと早く気付くべきだったのかもしれない。
玉を転がすような声は、足音と共に凛と響いた。
ざり、と。
彼方まで吹き飛ばされたはずの怪物が、実に優雅にそこに立っていた。
その艶やかでさえある姿に、気付く。
そうだ、彼女が自分の能力を語ったのは、その高慢さによる油断でなく。
逆転を恐れる必要が無い程彼我の、アダマリアとコーダウの実力差が開いていたからかもしれない、と――。
「貴様は『簒奪の魔眼』と言ったが。呼吸、脚力……どちらも通常の『
くく――まったく不敬よな。苛立たしいことこの上ない。その眼球、是が非でも我が
――魔王。
邪悪なる言動、絶対的強者の表情に、そんな月並みな言葉さえ頭をよぎる。
凄まじい蹴りを受けても全くの無傷で、矮小な人間をただ獲物と睥睨するその姿とは、ともすれば彼女を味方につけた俺すらをも絶望させかねない、桁違いの恐ろしさを放っていて。
つう、と。
コーダウの頬に冷や汗が流れたのが、見えた。
「……驚いたなァ。まさか、アレで死んでねえとは」
「当然であろう。自分の力を逆利用され殺される――確かにそういう怪物の類は、英雄譚の中にはありふれておるがな。私はそこらの端役とは格が違うぞ? 当然、貴様ともな。
その
「は……言ってくれるぜ。
ざり、アダマリアが一歩を踏み出す。
じり、コーダウが一歩
それが両者の関係を、心情を、戦いの趨勢を、何よりも如実に表していて。
悠々と、重瞳の魔眼さえまるで恐れず、アダマリアが更に一歩。
「さて、今度はこっちの番よな? ――よく視ろよ」
手の届かぬと思われたその距離は、その実魔王の間合いであった。
舞踏会の如く優雅に踏み出し。
白魚の指がつうと虚空をなぞる。
アダマリアのその構え、それこそ間違いなく、俺が忘れたことはない。
気負いなくゆるりと腕を水平に構え、踊るように横に一閃。
嗚呼、罪なるかな。
あれこそは地獄の悪鬼を一撃で屠った、アダマリアの第一首腕――!
――瞬間、
海竜の咆哮を、確かに聴いた。
顕現は一瞬。
鮮血は高く。
コーダウの肩口、その肉が、奔った死の竜牙に抉られて――。
「が、あァ……!」
ぼたた、と地面に血が零れる。
血と共に零れた呻きには、咆哮の猛々しさはまるでなかった。
呻きは押し殺した悲鳴。
コーダウの右の肩口……そこの皮膚と肉とがごっそりと削られ、掌ひとつでは抑えきれぬ量の血を溢していた。ともすれば骨まで見えてしまいそうな、深い傷だ。
まるで目で追えなかったが……どうやらアダマリアの第一首腕、始海竜レヴィアの
ぺろり、アダマリアが指先に付いた鮮血を妖艶に舐めとる。
相手の攻撃を受けても無傷で終わったアダマリアと、防ぎきれず浅くない手傷を負ったコーダウ。
きっと誰もが、両者の格をそのまま表すものだと見るだろう光景。
だが、俺と、恐らくアダマリアだけは別のことを思った。
――躱した。悪鬼さえ一撃で屠った技を。
「……ふむ。それなりに殺すつもりで首腕を振るったのだが、やるな、貴様。魔眼のみならず、肉体の力も中々とは。
人間全ての罪を集約した我が身、その足元に及ぶ程度の力はあったということは……生前はさぞ名のある武人であったのだろう。どれ、名を聞かせてみよ」
やはり高慢に過ぎる物言いは、けれど実際、コーダウを高く評価しての事だったのだろう。声には初めて聴く感情、恐らく関心の色が混ざっていて。
対しコーダウの返答は、流血の痛みで震えているとはいえ、それでも実に自嘲的であった。
「……
ぴくり、アダマリアが片眉を吊り上げる。
「賊、だと? 冗談が下手だな、道化の才は無いと見える。
ならば問うが、貴様は何故逃げん。強者に立ち向かうのは武人の本能であろう。逆に賊とは、強者相手には逃げ媚び諂う連中だ。私には、貴様が後者には見えんがな」
確かに、正論だ。
武人とは、戦いそのものに意味を見出す人種だと言う。ならば強者との戦いは、彼等にとって死して本望の、痛快にして誉れあるものだろう。
対し、賊とは己の利益のみを追求する人種だろう。彼等にとって強敵と戦うというのは、落命という損失の危険が大きいだけの愚行であり、その刃は常に弱者へ向かうはず。
だがコーダウは、アダマリアと相対することから決して逃げようとはしない。右肩を抉られた今も、悲鳴を上げて逃げ出すことなく、獣のように身構えたまま強い目でアダマリアを睨んでいる。その姿を武人か賊かで表すなら、やはり前者が相応しいだろう。
ならば、彼が賊を自称するのは何故か。
じっと疑念の視線を受けて……重瞳の男は、呆れたような失笑を漏らした。
「はッ、これだから女は困るなァ。どれだけ強かろうが、賢かろうが、アンタ等はまるで分かっちゃいねえ。
武人も賊も関係ねえ。男に生まれたからにはよぉ……デカい夢見なきゃ嘘じゃねえか。妥協で満足するなんて男じゃねえよ。人質、情報、『腕輪』……戦って勝ちゃァ全取りなんだぜ?
なら――死んでも勝つしかねえだろうが、なァ?」
ともすれば青い理想と失笑を呼びかねない彼の持論は、しかし猛虎の迫力と餓狼の潔さとを伴って、強烈に俺の耳朶に響いて。
嗚呼、けれど……それが虚勢の蛮勇であることなど、最早誰の眼にも明らかであり。
視線が、ぶつかる。
アダマリアとコーダウ。
強者と弱者。王者と挑戦者。
魔王と、勇者。
ここに両者の関係性は、その運命は確定した。
――どちらかが、死ぬ。
つまるところ、それがこの戦いの果てに許される、唯一絶対の結末であった。
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