第四十六話
妹が帰ってきたからと俺の生活に変化が起きることはない。
ノトは基本的に部屋に籠って本を読むか、母と出かけたり会話したりするのが行動範囲だ。
俺と関わる場面は殆どない。
ましてや、今日からまた、部屋で夕食を済ますつもりだしな。
いつもと変わらず日課の走り込みをしていたら、鮮やかな羽を持つ鳥が近くの枝に止まるのが目に入った。
白い羽に薄い青が混じり、陽光を受けてかすかに光っている。
少し興味が湧き、歩を緩めて近づく。
だが鳥はすぐに羽を広げ、森の奥へと飛び去ってしまった。
その鳥が消えた森は、以前から目に入っていた場所だ。
鬱蒼と茂る木々は、屋敷の敷地の境に沿うように広がっている。
――森林浴という程大層なことはしない。
ただ、中に入り、少しの散歩をしてみたいと思っていた。
一人で森の中に入るのは良くないよな――頭では分かっている。
だが、あの鳥が消えていった方向を見やると、胸の奥で妙な好奇心が疼く。
周りでは騎士が警備で歩き回っている。
屋敷から見える範囲なら問題はないだろう。
森の縁に足を踏み入れると、葉のざわめきと湿った土の匂いが漂う。
庭とは違うひんやりとした空気が肌を撫で、木々の影がゆらゆらと揺れていた。
木の陰に入ると、急に気温がすっと下がった気がした。
普段感じることのない自然の心地よさに、体の力がすっと抜ける。
少し森の中に入ったところで、太い木の幹に腰を下ろした。
落ち着いた空気の中、深く呼吸をした後、周囲を見回す。
先程の鳥はどこに行ったのだろうか。
周囲では小鳥たちのさえずりが絶え間なく響き渡っているが、視界には一羽も入らない。
――やはり、俺を警戒しているのだろう。
枝先に目を凝らしながら、森の空気の中でその影を探していると、屋敷の方から小さな足音が聞こえてくる。
ノトが本を両手に抱え、足取りはぎこちなく、必死にこちらに向かって走ってくる。
走り慣れていないのか、無理に早く進もうとする様子が伝わり、肩を少し揺らしながら前へ前へと体を傾けている。
森の静けさと自然の心地よさの中、彼女の小さな慌てぶりが、どこか微笑ましくも感じられた。
「ふー……はぁ……」
俺の前に立ち、両手で抱えた本を軽く揺らしながら、荒い呼吸を整えているのが分かる。
「どうした、急ぎの用か?」
柔らかく声をかけると、ノトの眉間に少し力が入る。
森の静謐な空気の中、彼女の焦った息遣いだけが、ぽつりと響いた。
「ミズキ君が、一人で森に歩いていくのが見えたから……」
どうやら、俺が心配をかけてしまったらしい。
慌てた様子を見て、少し肩をすくめながら答える。
「悪いな、目に入る範囲にいるつもりだ。そんなに心配しなくても大丈夫だぞ」
その言葉に、ノトは眉をひそめつつも、少しだけ目を伏せる。
心配しながらも、どこか拗ねたような反応。
「……それでも、一人は駄目だよ」
小さな声が森の空気に溶け込む。
震えた声だが、真剣な眼差しがこちらに向けられており、軽々しく返事をできないことを思い知らせる。
「これからは気を付ける」
俺がそう答えると、空気が少し柔らかくなる。
森の木漏れ日が、いつもより優しく差し込むように感じられた。
ノトもそれを察したのか、口元にわずかな笑みを浮かべると、息を整えながら立ち上がった。
「うん、それじゃあ戻ろ」
森の出口へ向かって歩き出すノトの背中は、まだ少し緊張しているように見える。
踏みしめる土の感触、枯れ葉を踏む音、木々の間を抜ける風――普段気に留めない自然の小さな音が、彼女の足音と混ざり合う。
俺はその背を追うように隣に立ち、歩幅を合わせながらふと疑問が口をつく。
「どこから俺の姿が見えたんだ?」
「こんな、あまり目立つ場所じゃないだろ」
ノトは足を止めず、しかし少し息を整えながら答える。
「私の部屋の窓から見えるよ」
その言葉に、俺は一瞬立ち止まる。
ノトの部屋から森の一角までが見渡せるとは、考えたこともなかった。
小さな高窓から、森の緑と自分の位置がどう映っているのか、少し興味が湧く。
「そうだったのか」
「だから、森が見たかったら私の部屋から見ていいよ」
ノトの声は軽やかだが、どこか誇らしげな響きがある。
普段は物静かで控えめな彼女が俺に、こうして小さな提案をしてくれるのは珍しいことだ。
俺に対して、まだ少し緊張しているのが歩幅や肩の動きから伝わる。
それでも、こうして歩み寄ってくれる、そのささやかな勇気に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「せっかくならこの後、行かせてもらうか」
思いつくままに言った俺の言葉に、ノトは小さく肩を揺らし、瞬きを繰り返した。
「え……? い、いいよ。片付いてないけど……」
声がかすかに揺れている。
どこか照れくさそうに頬を染め、視線を逸らす仕草が、いかにもノトらしい。
とはいえ、今の俺は汗臭い。
自分の部屋に汗臭い男が来たら嫌だろう。
「風呂に入ってからいく」
少し肩をすくめて告げると、ノトの目がわずかに丸くなる。
「その間に恥ずかしい物は片付けておけ」
軽く茶化すように付け加えると、ノトは一瞬きょとんとした後、慌てて唇を結びぶ。
「わ、わかった……」
屋敷の入り口でノトと別れ、風呂場に身を沈め、汗を流す。
熱すぎない湯が程よく体をほぐし、走り込みで張った筋肉の疲れを吸い取っていくようだ。
石鹸を手に取り、ざっと体を洗うと、ほのかな香りが湯気と混ざり合う。
いい匂いだな。
さっきまで土と汗の匂いがまとわりついていたのが嘘のようだ。
これならノトも嫌がらないだろう。
湯から上がり、軽く髪を拭きながら廊下を歩く。
体が軽くなったのを実感しつつ、気づけば足取りも自然と早まっていた。
日々、暇を持て余しているところにちょうどいい約束ができた。
そう思い、足取りも軽くノトの部屋の前に着いた後、扉を軽く叩く。
「入っていいか」
小さな間を置いてから、内側で控えめな返事が返る。
「……どうぞ」
扉を開けると、ほんの少しの甘い香りに、紙や本のような香り。
整えられているようでいて、机の上には読みかけの本が数冊、置かれている。
淡い色合いで描かれた男女が見つめ合う、いかにもな女性向けの恋愛小説が目に入る。
――こういうの、好きそうだよな。
そういえばエリルも同じ類を読んでいるらしい。
前世に比べ、娯楽の少ないこの世界では、こうした物語が人気なのかもしれない。
俺の視線に気付いたノトが、わずかに肩を揺らし、頬に赤みを差す。
本を隠そうとはせず、しかし恥ずかしさを隠しきれない表情が浮かんでいた。
「……こういう見た目の男が好みなのか?」
少し口角を上げて揶揄うと、ノトは一瞬きょとんとした後、慌てて首を横に振る。
「ち、ちが……! そういうんじゃなくて……」
恥ずかしがることではない。
実際、格好よく書かれている。
現実にはそうそう出会わない理想像だからこそ、人を惹きつける魅力があるのだと思う。
「そうか」
まあ、恥ずかしそうにしている妹をからかい続けるのも良くない。
窓辺に歩み寄り、森を見やる。
「いい景色だな」
実に目に優しい。
一面に広がる森は、太陽の光を受けて葉の一枚一枚が淡く輝いている。
木漏れ日が地面を斑に染め、風に揺れる枝葉がささやくような音を立てる。
普段、走り込みに使っている場所も遠くから見渡せる。
自分がこうして上から見下ろされる立場になるとは、少し不思議な気分だ。
ノトはこの窓から、俺の姿を見ていたのだろう。
ふと、森の一角に見知った者の姿を捉える。
姿勢を崩さず、周囲に目を配りながら律儀に見回りを続ける騎士――リーネだ。
規則正しい歩幅と静かな足音。勤勉さが身に染み付いているのがよく分かる。
真面目に働いているな。
後で声を掛けに行くか。
そう考えていると、背後から控えめな声が落ちてきた。
「ミ、ミズキ君はさ……好きな人とか……いる?」
思わず振り返ると、ノトがこちらを見上げている。
わずかに肩を揺らし、頬を赤く染めながらも、視線は逸らさない。
その小さな緊張感が、少女らしい初々しさを強く感じさせる。
恋愛に興味を示すお年頃か――
そう思うと、自然に口元が緩んでいた。
「急にどうした」
軽く笑いながら返すと、ノトは唇を結び、ますます赤くなる。
「ちょっと……気になっただけ……」
ノトは唇をわずかに噛み、視線をそらしたまま、耳元でかすかに呟く。
その声は弱く頼りなげでありながら、どこか強い好奇心を帯びている。
普段は大人しいノトも、こうして自分に素直な気持ちを見せる瞬間がある。
それは以前の俺だと知りえなかった事なのだろう。
「どうだろうな」
少し間を置いて、肩をすくめる。
「あまり考えたことはないな」
今まで嫌われていたからな。
まずは友達作りからで、恋愛感情にまで持ち込めていない。
「そうなんだ……」
ノトの声は少し落ち込み気味で、しかしどこか期待を含んでいる。
恋愛話を楽しみたかったのだろう、その残念そうな表情が、妙に愛おしく映る。
「……お前はどうなんだ?」
ノトは一瞬目を見開いたが、恥ずかしがる様子もなく、はっきりと答えた。
「私はいないよ」
言葉の後、少し間を置き、続ける。
「男の子と関わることないし、話したこともあまりないから」
そのさっぱりとした口調には嘘はなく、ありのままを伝えているのが感じ取れる。
さらに、少し沈んだ声でノトは続ける。
「多分、恋愛が出来る子って、男の子か、すごく可愛い子だけでさ」
「私みたいな普通の子は男の子に憧れはしても、手に入ることはないから、どこか諦めが出てきちゃって恋愛が出来ないと思うんだ」
その言葉に、ミズキの胸の奥が少し痛む。
けれど同時に、彼女の率直さと現実を受け入れる冷静さが、どこか清々しくもある。
男性が少ない弊害だな。
少し悲観的すぎる気もするが、確かにこの世界の現状を考えれば、無理もない。
「まあ……ノトは可愛いから大丈夫だろ」
言葉は軽く冗談めいた響きだが、その中には本心も含まれている。
ノトは驚いたように目を大きくし、頬を赤く染めて肩を揺らす。
「え……可愛くないよ……」
恥ずかしそうに顔を伏せさせている。
見た目だけではなく、この素直に感情が漏れ出すところも、彼女の魅力の一つだと感じる。
ノトは頬の赤みを拭うように、わずかに肩を揺らした。
そして、恥ずかしさを振り払うかのように、少し大きめの声で言う。
「座って……いいよ」
ノトが指さしたのはベッドだった。
躊躇うことなく、その場所に腰を下ろす。
――俺が使っているのと同じベッドか。
体に触れる感触でわかる。柔らかくも、適度に沈む感覚が心地いい。
ノトも、少し間を置いて隣に腰掛ける。
以前は控えめで距離のある関係だったが、今は隣同士で座ることが出来る、兄妹としての距離感が少しずつ縮まったのを実感する。
「……ミズキ君、なんかいい匂いするね」
ノトがぽつりと言う。
声には少し恥ずかしさが混じり、言っていいのか迷っている様子がうかがえる。
頬を赤らめ、目を少し逸らしながらも、好奇心に抗えず口にしてしまったのだろう。
「さっき風呂に入ったばかりだからな。石鹸の匂いだろ」
軽く答えると、ノトは少し顔を赤らめながらも、ふふっと笑った。
その笑い声が、静かな部屋の中に柔らかく響く。
「ミズキ君……凄く変わったね」
ぽつりとノトが言う声には、感嘆の混じった温かさが含まれていた。
ただの言葉以上に、彼女が感じた安心や、心の距離が縮まったことへの喜びが、言葉の端々から溢れている。
「一緒にいて、楽しいよ」
さらに小さな間を置き、続ける。
「お母さんとも、仲直り出来てよかったね」
少しほっとしたような笑みと、心からの安堵が混じった表情。
口元にわずかに柔らかい力が抜け、瞳は優しく光る。
胸の奥が、温かくなるのを感じながら小さく息をつく。
「……今まで、迷惑かけて悪かったな」
言葉は控えめだが、心からの謝意が込められている。
ノトは一瞬目を細め、優しく微笑んだ。
「いいよ」
その笑顔には、許しの温かさと、変わらない穏やかさがあった。
声も柔らかく、安心感を伴っている。
「でも、昨日はびっくりしたよ。お母さんとすごく距離が近かったから」
少しの冗談の様な口調に、普段の控えめな彼女とはまた違う一面を感じる。
軽く目を細め、肩をすくめながら呆れたように返す。
「あれは、母さんが近づいてくるからだ」
ノトは一瞬、唇を噛むようにして言葉を選んでいる。
「……二人の時は……ずっとあんな感じなの?」
ここまで踏み込んで聞いていいのか――その迷いが声や仕草から伝わってくる。
でも、目を見ると、少しだけ決意も混じっている。
声にはわずかな緊張と、ほんの少しの好奇心が混ざっている。
母さんと俺の距離を想像して、少し背徳的な気持ちも含まれているのかもしれない。
二人の時か。
もっと距離は近いし、口付けもしたな。
……言わないがな。
ノトに余計な想像をさせる必要はないだろう。
「いや……昨日ほどではない」
軽く答えると、ノトの眉が少し下がり、目を細めて疑うような表情になる。
その瞳には、まだ納得できないという好奇心と、少しだけ遊び心の混ざった光が宿っている。
「お母さんにも……聞いていい?」
少し息を飲むようにして問いかける声。
どうしても確かめたいという真剣さも滲んでいる。
俺は軽く肩をすくめ、微笑む。
まあ、母もはぐらかすだろ。
「ああ」
ノトは小さくうなずき、少し顔を赤らめながらも、目に決意を宿して笑った。
柔らかな光が部屋に差し込む中で、彼女の笑顔がゆらりと揺れる。
――こうして、俺たちの間には、少しずつだが確かな信頼の距離が生まれつつある。
隣に座るノトの存在が、妙に心地よく感じられる。
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