第四十五話

重い空気の中、母が部屋の扉をゆっくりと開く。

室内には柔らかい光が差し込み、静かで落ち着いた空気が漂っていた。


母は俺の手をそっと離す。

自由になった俺は、自然に三人掛けのソファーに腰を下ろした。


ノトはまだ俺の存在に緊張した様子で、落ち着きなく室内を歩き回る。

視線は床や机の上に落ち、時折小さくため息をつく。


母は手際よく三人分の紅茶を入れている。


「ノト、座りなさい」


母の柔らかな声に、ノトはハッとしたように立ち止まり、少し戸惑いながらもテーブルをはさんで俺の向かいに腰を下ろす。


母は静かに紅茶の入ったカップを、まず俺とノトの前に置いた。

湯気が立ち上り、心地よい香りが部屋の空気を満たす。


続けて、自分のカップを手に取り、俺の隣に腰を下ろす。

ノトの隣に行けよ。


「ノトも、遠慮せずに隣に来ていいのよ」


母の声には柔らかさと安心感があり、少し優しく背中を押すような響きがある。

ノトは一瞬躊躇して視線を俺に向け、手元を見つめながら小さく首を振る。


「わ、私は……いいよ」


言葉は小さく、少し震えている。

少し俺の方を見るその視線には、遠慮と緊張が、入り混じっている。


「そう」

「学校は順調にやっているの?」


「まあ、なんとか。試験は難しいけど、楽しいよ」


「一人暮らしはどう?困っていることはないかしら」


母の声は自然で、強く詰め寄るようなところはない。

ノトは一瞬考え込み、目を伏せたまま答える。


「特にないかなぁ」


「そう。無理せず、何かあったら言ってね」


母の言葉には安心感があり、肩の力をすっと抜かせるような響きがある。

ノトも少しだけ顔を上げ、母を見つめて微かに笑みを浮かべている。


その様子を、俺は苦い紅茶を口に含みながら眺める。

二人の会話は自然で、空気は柔らかく穏やかだ。


俺、いる意味あるか……?


ノトも母と二人きりの方が、ずっと気が休まるだろう。

俺はただ、漂う紅茶の香りと、温かい光の中で、傍観者のように座っている。


「お母さんはどう……何かあった?」


ノトの声は、少しだけ緊張混じりで、でも関心が滲む響きがある。


母は柔らかく微笑み、肩を軽くすくめながら答えた。


「私は、いつも通りかしら」


その声には自然な落ち着きと安心感があり、ノトの問いにさりげなく応えていた。

しかし、言葉の端々から母は俺に体を少し寄せ、そっと肩や腕を触れ合わせる。

小さな距離感でありながら、その仕草は「私とミズキはもう大丈夫よ」と静かに伝えているようだった。


実際、母との間にあったぎこちなさは、もうほとんどなくなっている。

少しだけ距離を縮めすぎたかもしれないが。


ノトはその様子に少し驚きながらも、母の表情と俺の姿を見比べて、ぽつりと笑みを漏らす。


「ミ、ミズキ君……少し雰囲気が変わったもんね」


俺の雰囲気、変わっていたのか。

微かに苦い紅茶の味を感じながらも、その言葉の奥にある肯定的な意味を感じ取る。


「考え方が変わっただけだ」


前世の記憶を思い出しただけ。

結構大ごとだけど。


ノトはカップの縁にそっと口をつけ、温かな紅茶を一口含んだ。

それだけで少し気持ちを落ち着けようとしているのが分かる。


「……そっか。考え方が」


ぽつりと呟く声は弱々しいが、そこにはほんのわずかな興味も滲んでいた。


「自分で言うのもなんだが、前より穏やかになったぞ」


冗談めかしたつもりはなかったが、言ってみれば自嘲のようにも聞こえた。

ノトは小さく目を丸くし、ほんの少しだけ口元を緩める。


「……うん、そうかも。なんか、前より話しやすい……気がする」


視線はまだ机の上のカップに落ちたままだが、言葉にはかすかな安心感が混じっていた。


「今みたいに母さんに体を触られても怒らなくなったしな」


茶化すように口にした途端、母の指先がわずかに硬直する。

次の瞬間、彼女は少しだけ頬を染め、気恥ずかしそうに手を引っ込めた。


「悪いな、茶化しすぎた」


そう言って、離れていった手を取り、握り返す。

自分から触れたのは初めてかもしれない。

母は驚いたように瞬きをし、やがて目元を緩めて繋がれた手を見つめる。


「いいのよ。私は……幸せ者ね」


小さな囁きとともに、母は俺の腕を抱きかかえ、柔らかな胸の間へと引き寄せる。

温もりと甘い香りが強く近づく。


その光景を目にしたノトは、手にしていたカップを口元で止め、ぽたりと一滴紅茶を零しそうになる。

半開きの口は言葉を失い、目は大きく見開かれたまま固まっている。


「す、すごく、仲良くなったんだ……」


掠れた声が落ちるのを聞き、ようやく自覚した。

いつもの距離感が出すぎた。

二人きりの時ならまだしも、妹の前でやることじゃない。


「……悪いな」


小さく呟き、わずかに母から身を離す。

胸の奥に、照れくささと気恥ずかしさがじわりと広がる。


同じように、母もはっと我に返ったように目を瞬かせ、頬に赤みを差した。


「……そうね、ノトの前でこんな……」


母は小さく笑みを浮かべつつも、視線を逸らす。

指先がそっと膝の上で組まれ、珍しく落ち着きのない仕草を見せている。


「……うん、いいんだけどね」


ノトの声はか細く、消えていく。


母は指先を膝の上で揃えたまま、わずかに俯く。

俺も紅茶に口をつけ、苦味と温かさで気まずさを誤魔化した。


ノトもまた、手元のカップを見つめ、紅茶の表面をじっと眺めている。

見てはいけないものを見てしまった後の空気。


沈黙が数拍、部屋を満たした。

母はそっと紅茶を口に含み、場の空気を変えるように話し出す。


「今日の夕食は家族みんなで食べましょう」


以前、俺に話してきた内容だ。

ノトの返答次第だと答えたもの。


「う、うん……いいよ」


ノトは少し俯き、まだ気まずさを引きずったまま答える。

その声は小さく震え、紅茶の湯気に紛れるように消え入りそうだった。


俺が食卓で食べることが決まった。

まあ、ノトがいいなら俺は何でもいい。


母はにこりと微笑み、軽く手を差し伸べるように話を続ける。


「みんなで食べるの、久しぶりね」


ノトは少しだけ口元を緩め、頷く。


「そうだね……」


視線は少しずつ上がり、俺と母を見ている。

かつての気まずさは消え、部屋の空気は少しずつ温かさを帯びていく。


「そ、そういえば……お土産、買ってきたよ」


ノトは小さな手提げ袋を取り出し、指先で袋の口をそっと開け、恥ずかしそうに中身を見せる。

袋から取り出したのは、小さなガラス瓶に入ったプリン。

控えめな可愛らしさを感じさせる形だ。


「これ、学校で話題になってたお店のなんだ」


ノトは少し誇らしげに胸を張る。

母は目を細め、柔らかく微笑みながら頷く。


「可愛いわね。ありがとう」


俺は傍観しながらカップを持つ手を少し休め、紅茶の湯気を眺める。

ノトの小さな誇らしげな表情と、母の柔らかい笑みを見ると、心が休まる。


「夕食の後で食べてもいい?」


母がそう言うと、ノトは手提げ袋をそっと抱え込み、小さくうなずく。

その顔には、少し照れたような色が差している。


「うん」

「ミ、ミズキ君も……食べてね」


声は小さく、紅茶の湯気に溶け込むかのようにかすかだ。

目を伏せたまま、指先で袋の端を軽く握る仕草が、遠慮と優しさを同時に伝えていた。


俺は軽く笑みを返し、うなずく。


「ああ、楽しみにしておく」


ノトは俺の言葉を聞き、少し嬉しそうにしている。


紅茶を飲み終えると、部屋にはほどよい静けさが戻る。

ノトは手提げ袋をそっと膝の上に置き、母と会話を交わしている。

母は穏やかな笑みを浮かべ、ノトの話に相槌を打つ。


やがて、窓の外の光が少し傾き、夕食の時間が近づいていることを告げる。

俺はカップを机の上に置き、立ち上がる。


「そろそろ、食卓に行くか」


母は笑顔でうなずき、ノトも小さく応じる。

俺達はゆっくりと立ち上がり、部屋を出る。

廊下を歩く足音が、屋敷の静けさに軽やかに響く。


食卓に着くと、机の上には、既に料理が並べられている。

香ばしい肉の匂い、焼き立てのパンの香り、そして野菜の温かな色彩が食欲を誘う。


母が先に席に着き、ノトもその隣に腰を下ろす。

俺は少し遅れて椅子を引き、向かい側に座った。


「いただきましょうか」


母の一言で、食事が始まる。


俺は静かに肉を切り分け、口に運ぶ。

柔らかな味わいと温かさが広がり、思わず顔が綻ぶ。

旨い飯を食ってる時が一番幸せかもしれない。


母やノトも、パンやスープを口に運ぶと、表情が和らいでいる。


「どう? お口に合うかしら」


母の何気なく問いかけに、ノトは小さく頷き、咀嚼してから、言葉を返す。


「……うん、美味しい」


その素直な反応に、母の瞳がやわらかに細められる。

俺はフォークを持つ手を休め、二人の様子を眺める。


夕食を食べ進めていると、ふと視線の先で母がノトの口元をそっと拭っているのが目に入った。

ノトは恥ずかしそうに身を引きつつも、されるがままにしている。


やがて皿が片付けられ、温かな食卓の香りが落ち着いていく。

俺は背もたれに軽く身を預ける。


そのとき、ノトが小さく椅子を引く音がした。

手提げ袋を膝の上に置いていた彼女は、そっと中から瓶詰めのプリンを取り出し、俺と母の前に置いた後、自分の前にも置く。

柔らかな照明に透けるカラメル色が、ほんのりと輝いている。


母は小さく目を細め、優しく微笑んだ。


「ありがとう、ノト。嬉しいわ」


その言葉に、ノトはこくりと小さく頷いた。


俺は瓶を手に取り、軽く傾けながら口を開く。


「ありがとう。食わせてもらうぞ」


封を取り、スプーンを入れると、柔らかな感触が手に伝わる。

ひと口すくい、口に運ぶと、滑らかな甘さとほろ苦いカラメルが舌に広がる。


「……旨いな」


自然と零れた言葉に、ノトの肩がぴくりと震える。

まるで期待していた返答をもらった子どものように、目を瞬かせてから、こっそり息を吐き出した。


母もまた小さく頷き、柔らかな笑みを浮かべた。


「ほんとうに、美味しいわね」


落ち着いた声音に柔らかな笑みが添えられ、食卓にあたたかな空気が広がる。


ノトは視線を伏せつつも、口元にかすかな笑みを浮かべ、どこか誇らしげに呟いた。


「……話題の商品だからね」


その声には少しだけ上ずった響きが混じっている。

自慢しながらも照れているのが、見て取れる。


「ノト、選び方も上手になったのね」


「う、うん……ありがとう」


そのやり取りを、そっと盗み見る。

会話に混ざらずとも、褒められて嬉しそうにしているノトの姿を、そっと心に留めておくだけで満足できる。


やがて、瓶の中身が空になり、食卓の上にはほんのり残ったカラメルの香りだけが漂っている。


皿や瓶を使用人が手際よく片付けてくれる間、俺は静かに紅茶の湯気を眺め、ノトと母の様子を目に焼き付ける。

ノトは少し照れくさそうに手提げ袋を抱え直し、母は柔らかく笑みを浮かべてそれを見守る。


「そろそろお片付けも済みそうね」


母がそう言うと、椅子を引いて立ち上がる。

俺とノトも立ち上がる。


「美味しかったわ、ありがとう」


母が食卓から立ち去る前に、料理人に向かって感謝を告げる。ノトも母の言葉に続き、小さく手を振りながら「ありがとう」と声を添える。

俺は片手を軽く上げ、無言で感謝を示す。


立ち上がった三人は、ほのかな温かさと満足感に包まれつつ、静かに食堂を後にする。


「俺は部屋に戻るぞ」


その声に、ノトが少し間を置いて言った。


「私も……馬車で疲れたし、部屋に戻るね」


母は軽く頷き、少し寂しそうな笑みを浮かべながら答える。


「分かったわ。それぞれゆっくり休みましょう」


それぞれが静かに部屋へと向かう。

廊下を歩く足音が、屋敷の落ち着いた静けさに溶け込む。


俺は自室の扉を閉め、ベッドに腰を下ろす。

今日の出来事や、紅茶やプリンの温かさ、母とノトの柔らかな表情を思い返しながら、少し体を休める。

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