第四十七話
ノトの部屋を出ると、廊下にはひんやりとした空気が漂っていた。
つい先ほどまでの温かな空気とは打って変わり、肌に触れる冷たさが妙に鮮やかに感じられる。
もう夏の終わりが近いのだろう。
気づけば日が落ちるのも早くなり、夕闇が屋敷を包むのが日に日に速まっているような気がする。
少し寂しい気もするが、どこか安堵もあった。
この世界に空調など存在しない。
あの蒸し暑い夜を思えば、心地よい冷え込みが訪れる方がよほどありがたい。
夕暮れに近い時間の昼より少しだけ涼しい気温の中、先ほどノトの部屋の窓から見えた、リーネの元へと歩みを進める。
真面目に巡回を続ける彼女の背中が脳裏に浮かぶ。
勤務中とはいえ、少しぐらいなら言葉を交わしてもいいだろ。
軽い足取りで少し歩く。
夕暮れの庭は静まり返り、遠くで虫の声がかすかに響いている。
やがて、先ほど窓から見下ろしたあたりに辿り着く。
しかしそこにリーネの姿はなく、代わりに見覚えのない若い騎士が立っている。
どこに行ったのだろうか。
辺りを見渡しても、凛とした立ち姿は影も形もなく、庭に漂うのは夕風と花の匂いだけ。
「どうかされましたか?」
俺の様子が気になったのか、若い騎士が声をかけてきた。
真っ直ぐな視線と、規律を重んじた口調。
「リーネを探している」
俺の言葉に、若い騎士はすぐに頷いた。
「ああ、リーネさんなら……先ほど勤務が終わりましたよ」
軽く告げられたその一言に、思わず小さく息をつく。
入れ違いか。
ほんの少しでも言葉を交わせればと思っていたのだが、どうやら間が悪かったらしい。
その落胆を、俺の表情から読み取ったのか。
騎士は少し言葉を選ぶようにして続けた。
「……もし、ご用事がおありでしたら。屋敷の門の前でお待ちになるとよいかと。帰りがけにお会いできるはずです」
なるほどな、悪くない提案だ。
「そうか、ありがとうな」
騎士に礼を告げ、門の方へ歩を向ける。
何を話そうか――ただ顔を見るだけで十分満たされる気もする。
歩く間にも、そんな考えが頭を巡る。
やがて、門の近くに辿り着くと、そこには騎士が数名立っている。
彼らの視線が一瞬こちらをかすめたが、軽く敬礼を交わすだけで、特に言葉をかけてくる者はいない。
しばらくは、風の音と靴音だけが耳に届く。
やがて通りの向こうから、見慣れた姿がゆっくりと近づいてくるのが目に入った。
規律正しい足取りのまま、勤務を終えて屋敷を後にしようとしている。
リーネは俺に気づくと、少しだけ歩幅を速めて近づいてくる。
その動きは慌てているわけではなく、落ち着いた姿勢のまま、自然に距離を詰めてきた。
「ミズキ様、こんばんは」
穏やかで澄んだ声。
背筋を伸ばし、視線は礼儀正しくこちらを捉えている。
俺も軽く会釈し、挨拶を返す。
「ああ。ご苦労だったな、リーネ」
穏やかに労う言葉を投げかけると、リーネの目元にわずかな喜びが浮かぶ。
その瞳は冷静でありながら、わずかな柔らかさを帯びている。
「ありがとうございます」
「どうして、ここにいらっしゃるのですか?」
問いかける声はいつも通り落ち着いているが、ほんのわずかな戸惑いが混ざっている。
「少し、お前と話したくてな」
自然に、しかし落ち着いた口調で返す。
リーネの瞳が一瞬だけ揺れ、わずかに目を見開く。
「それは……お待たせしてしまい、申し訳ありません」
声には丁寧さと控えめな申し訳なさが混ざる。
しかしその裏には、俺が自分のためにここで待っていてくれた――という、ほんの少しの喜びも垣間見える。
彼女の姿勢や表情からは、いつもの冷静さが崩れることはない。
それでも、微かに見せる感情の揺らぎを感じ取ることが出来た。
「気にするな、勝手に待っていただけだ」
「ところで……この後、何か用事はあるのか?」
長々と話して迷惑をかけてしまわないか、軽く確認するように問いかける。
リーネは一瞬視線を下げ、腰にある剣にそっと手を添える。
「ええ……鍛冶屋に行き、手入れをしてもらおうと思いまして」
淡々とした口調だが、自然な所作から武具への真剣さが伝わる。
その様子を見て、俺は少し興味を惹かれた。
鍛冶屋か、俺も行ってみたいな。
脳裏には無骨な武器や防具のイメージに加え、魔剣や特殊な防具の幻影がちらりと浮かぶ。
もちろん、この世界にそんな代物は存在しないことは分かっている。
自分の考えに少し呆れながらも、心の奥底でくすぐられる好奇心を、どうにも抑えきれなかった。
「興味がある、俺も一緒に行ってもいいか?」
夕暮れに近い時間帯ではあるが、まだ空は十分に明るい。
心配するほどでもないだろう――そんな楽観的な考えが、自然に口をついて出る。
リーネは一瞬視線を下げ、腰に添えた手を軽く動かす。
その動きには、少し驚きの色が含まれていた。
どうやら、俺が同行するとは思っていなかったようだ。
「ええ、大丈夫です……」
落ち着いた声で答えるものの、目元にはわずかに驚きが残る。
「ですが、時間は大丈夫ですか?」
リーネは少し眉を寄せ、落ち着いた声で問いかけてくる。
俺は軽く肩をすくめて答える。
「まあ、大丈夫だろ」
自分でも少し、貴族らしくない適当な考えだと思う。
その返答に、リーネの表情がわずかに柔らぎ、安堵の色が見える。
目元の緊張が解け、少し微笑むような仕草を見せるのがわかる。
「それでは向かいましょう」
「行き先は小さなの村です。街に比べ少し田舎になるのですが、ここの鍛冶屋は信頼でき、武具の手入れも安心です」
冷静沈着な口調のまま、しかしどこか穏やかな光を帯びた声で説明する。
その言葉に、俺の好奇心が再びくすぐられる。
屋敷を離れ、俺たちは歩き出す。
街へ向かう道から少し逸れた、見慣れぬ小道を進む。
足元には枯葉や小石が散らばり、踏むたびにかすかな音を立てる。
日差しはまだ柔らかく、木々の間から漏れる光が地面に揺れる。
風が通り抜けるたび、草や土の匂いが鼻をくすぐり、遠くで小川のせせらぎがかすかに聞こえる。
思えば、街に続く道は何度か通ったことがあるが、この小道は初めてだ。見知らぬ場所を歩くということには、ほんの少しの緊張と、高揚感が混ざる。
旅行をしているかのような気分――日常から少し離れ、未知の景色を楽しむ特別な時間だ。
隣のリーネも、静かに歩を進めている。足取りは落ち着いているが、時折木々の揺れや風の匂いに反応する仕草が見え、普段とは違った自然な表情が垣間見える。
並んで歩く道すがら、草の匂いを運ぶ風がふっと通り抜ける。
その静けさの中で、リーネがちらりとこちらに視線を寄せてきた。
「ミズキ様。先ほど……鍛冶屋に興味がおありだと言われてましたが、武具について、でしょうか?」
問いかける声はいつも通り落ち着いているが、わずかに探るような響きがある。
「ああ。剣や防具は、形状そのものに機能美が宿っている。鋭さや、堅牢さ、素人目から見ても心惹かれるものがある」
言葉にすると、胸の奥に隠れていた少年じみた憧れがそのまま零れ落ちるようだった。
どれだけ年をとっても、男の本質は変わらないのだ。
「……理解できます。鍛え抜かれた一振りには、確かに美しさが宿っていますから」
リーネは前を向いたまま、静かに言葉を結んだ。
「ミズキ様は、ご自身で剣を振ってみたいとお考えですか?」
問いかけは穏やかだが、その奥には好奇心と、ほんのわずかな期待の響きが潜んでいる。
「いつかはな。そのために今、体を鍛えている」
「今の体で剣を振っても、剣に振り回されるだけだと思ってな」
リーネは一瞬、目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「以前、体を鍛えたいと言われてましたが、剣を振るためだったとは」
結構前に話したことだ。
リーネは軽い雑談の内容まで覚えていたようだ。
肩をすくめながら軽く笑う。
「よく覚えているな」
「まあ……剣というか、少し強さに憧れただけだ。お前ら騎士の姿を見ていてな」
リーネは少し視線を落とし、頬にわずかな赤みを帯びさせる。
その表情は普段の落ち着いた彼女とは違い、ほんのわずかな動揺を含んでいた。
「そう言っていただけますと、嬉しいです」
小さく微笑みを浮かべた後、少し間を置き、声を柔らかく落とす。
「……あと、ミズキ様との会話は、忘れることができませんので」
普段の冷静さとは違う、ほんのわずかな照れが滲んでいた。
その真っ直ぐな視線に、こちらも少し顔が熱くなる。
「そうか」
短い返事をして、視線を少し逸らす。
真剣な言葉をさりげなく受け止めつつも、照れを隠せない。
夕暮れの柔らかな光が二人の影を長く伸ばし、森の匂いや風と混ざり合う。
以前交わした些細な会話が、今の時間を彩る。
同じように、今日交わした会話が未来を彩るのだろうなと思える。
まだ、村は見えない。
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