第3話 私が今まで見たことのない表情の婚約者

 それから私は眠ってしまった。――けれど、扉が開く音がして、意識を取り戻した。

顔を上げるとランプの灯りがこちらへ近づいて来るのが見えた。


「エリス」


 名前を呼んだその声に、私は勢いよく起き上がった。


「アリエッタ様っ!」


 それは、マーティン様の婚約者のアリエッタ様の声だった。

 「助かった」と思った。

 彼女は私がこんなことをするはずがないと知っているはずだから。


「お腹も空いたでしょうし、喉も渇いたでしょう」


 優し気にそう言って、彼女は鉄格子についた小さな配膳口の扉を開けて、水差しとパンの乗ったお盆を牢内に差し入れた。ちゃぷんと水音がして、私は枷で繋がれたままの腕を水差しに勢いよく手を伸ばした。喉がカラカラに乾いていた。


 ――その瞬間、アリエッタ様の白い手は、そのお盆を牢の外へ下げた。


「えっ」


 私は前のめりになり、頭から埃の溜まった石の床に突っ込む。


「アリエッタ様……?」

 

 顔を上げると、微笑む彼女が揺れる炎に照らされていた。


「エリス、貴女がマーティン様に毒の入ったワインを飲ませたのよね」


 優しく子どもに言い聞かせるように、彼女は問いかける。


「私、そんなこと、していません!」


 首をぶんぶんと振り、お腹の奥から声を上げる。


「――じゃあ、ハウゼン侯爵が? それとも奥様が? 娘を王妃にしたくて、毒入りワインを王太子に飲ませた?」


 アリエッタ様は小首を傾げる。


「――ハウゼン家の一族を皆、処刑すれば解決かしら?」


 まるで「今日のお茶は何にしましょうか」とでもいうような、何気ない言い方。

――私は言葉を失った。


 ――あの時、マーティン様の一番傍にいたのは?


 アリエッタ様だ。

 これはどういうことなの。

 マーティン様に、何かをしたのは彼女?

 そして、私はその罪を着せられようとしているの?


 アリエッタ様は青い瞳を静かに私に向ける。


「貴女がひとりでやった、ということなら――ハウゼン家は廃爵になるでしょうけれど、一族皆さん処刑、ということにはならないと思うわ?」


「……」


 さっと血の気が引くのを感じた。

 つまりは、ハウゼン家自体を狙ってということ?


「ねえ、賢い貴女ならわかるでしょう?」


 アリエッタ様は子どもに言い聞かせるように微笑んだ。


「アリエッタ様……! どうしてなのですか! 貴女がマーティン様に毒を?」


 彼女は何も言わない。


「――貴女とマーティン様はとてもお似合いに見えたのに! あんなに仲が良くて……っ」


 しばらくの沈黙の後、アリエッタ様は綺麗な顔を憎々し気に歪めた。


「エリス、あなたから見える世界はとっても綺麗で、嫌な……汚いものなんて存在しないのでしょうね。私、貴女のそういうところがとても……憎たらしいと思っていたの」


 こんな表情の彼女を、私は今まで見たことがない。

 アリエッタ様はいつも優しい笑顔の人で……、


「オーウェン様を連れてきてください!!」


 私は叫んだ。――彼ならきっと、わかってくれるはず。そう望みをかけて。


「いいわよ」


 アリエッタ様はさらりと言う。


「オーウェン、お呼びよ」


 かつん、かつんと足音がして、暗がりから、オーウェン様が姿を現す。


「エリス、僕のためにお兄様を殺そうとしてくれたんだって? ――ありがとう」


 『に』っとさも面白そうに笑うその顔は、私が今まで見たことのない表情の婚約者だった。

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