虫眼鏡さん

文鳥

虫眼鏡さん

 いつかの話をしよう。現実と言い切るには掴みどころがなくて、夢というには鮮やかな一ヶ月間の話を。




 ジリジリと日差しが肌を刺して、じっとりと湿気を含んだぬるい空気が頬を撫でた。家では涼し気に見えた半袖のシャツと短パンも汗で体に張り付いて暑苦しい。中身なんてほとんど入っていないリュックがやけに重くて、蒸れて濡れた背中が気持ち悪かった。直接日に晒されるうなじが痛いくらいで、帽子を被ってこなかった己の失敗をひどく恨んだ。重い足を引きずりながら進む。

 ふと立ち止まって、歩道からガードレール下を眺めやった。高台の途中にいるおかげで、遥か彼方で混ざりあう淡く深い青色まで見晴るかせた。ぼんやりと視線をずらすと四角い灰色の建物が目に入る。小学校だ。普段と違い子どものいないその建物は寒々しいほど活気がない。なぜだか目が離せなくて、ぼうっと突っ立っていた。汗が蟀谷を伝って流れ、足元に暗灰色の染みを作る。

 僕の育った町は、旅立ちの迫る世界の中心は、こんなにも小さいものなのか。だとしたら、きっと。その瞬間、にわかに風が吹き抜けて、思考が断ち切られた。冷えた汗に我に返る。頭を左右に振った後、立ち止まる前よりも速度を上げて登っていく。こんなにも暑いのに、冷たい風が胸にも吹き込んで、体のどこかで渦巻いているような気分だった。流れる汗もそのままに走る。水滴が夏の陽光に光って散った。空の青さと汗が目に沁みた。さっき頭に浮かんだ考えも汗と一緒に散ってしまえと願っていた。


 僕の育った町が、旅立ちの迫る世界の中心が、こんなにも小さいものだとしたら、きっと僕自身は、もっとずっとちっぽけだ。




 しばらく走ると緑が増え始め、青々とした葉が頭上でさらさらと風に鳴った。木漏れ日で斑に染められながら走り、視界の左隅に目的地を認めると、徐々に速度を落とした。左右を見渡してから、駆け足で道路を渡る。置き去りにされたまま忘れられたようなそこはベンチと自動販売機とゴミ箱が一つずつあるだけの、小さな、とても小さな公園のなりそこないだった。もつれるように数歩進んで木陰に足を踏み入れると、どっと汗が噴き出してくる。肩で息をしながら少し落ち着くのを待って、入ってすぐのところの自動販売機でペットボトルのサイダーを買う。逸る気持ちを抑えて慎重にキャップを開けて、一気に半分近くを喉に流し込む。冷たいサイダーが身体を通る感覚も、炭酸が喉で弾けるのさえ心地よかった。キャップを閉め、敷地の奥に向かい、ベンチにふらふらと腰かけた。何というわけでもなく木の葉が揺れるのを見上げる。

 この場所で自分以外の人間を見かけたことはない。高台の中腹にあるうえに駐車場がないため車では入れないし、自転車や徒歩だとここまで来るためにそれなりに体力がいる。憩いの場にはあまりに不向き。そういった意味でもここは公園のなりそこないなのだ。どのくらいぼんやりしていただろうか、

 ふと視線を 正面に戻して、目を見開いた。いつの間にか目の前に人が立っていた。女の人だ。顎より少し下あたりまでの髪は薄い灰色で風に揺れ、触れたら冷たそうな白い肌をしている。眼鏡のレンズの奥の眠たげな瞳を縁取る睫毛は長く、高い鼻と小ぶりな唇が小さな顔の中にバランスよく収まっている。けれど、その花の顔には表情らしい表情は浮かんでおらず、髪より少しだけ濃い灰色の瞳からも何も読み取ることはできない。この暑いのになぜだか白衣を纏っていることと、全体的に色素が薄いこともあって、妙に浮世離れした雰囲気の女性だった。 誰だろう。いつの間に。疑問はいくつも湧いてくるのに一つも声にならず、不思議なことに恐怖は欠片もなかった。白い人影が暗緑色の中に浮かび上がる様は、あまりに異様で、瞬きを厭うほどに美しい。


「少年」


 抑揚の欠けたアルトが鼓膜を揺らした。小さいのに、よく響く声だった。うるさいはずの蝉の声が、他のすべての音が、磨り硝子越しのように遠かった。


「君は何ゆえここに来たんだい」




 「ここに人が来ることはあまりないものだから、気になってしまったんだ。不躾にすまないね」

 耳慣れない言い回しを理解するのに少しの時間を要した。ぽかんと呆けていたことに気がつき、慌てて首をぶんぶんと横に振る。

「あ、いえ……ここに来たのは、なんとなく……です」

 理由を訊かれた瞬間に跳ねた心臓がいまだ荒く脈を打っていた。ないわけではないのだ。でも、きっと大人にはそんなことかと笑い飛ばされてしまうだろうくらいに幼い動機を話すには、僕は少し見栄っ張りだった。けれどなぜだか少しもやもやとした澱が胃の底で蜷局を巻く。幸いにもその人はそれ以上何も尋ねてはこなかった。ただ澄みすぎて光を透過する硝子玉のような目で僕を見つめただけだった。

 そうかと思えば白衣の横のポケットから小さな紙の包みを取り出す。その後に胸ポケットに手を伸ばし、何かを取り出した。それは木漏れ日に触れて銀色に光った。

 ――ルーペだ。


「見てごらん」


 包みの中に入っていたのはどこにでもありそうな全体的に白く一部分だけが黒い小石だった。拍子抜けする僕を気にも留めず、その人はルーペを小石にかざした。促されるままに顔を近づけてレンズを覗き、息をのんだ。視界いっぱいに星が瞬いていた。ただ見ていた時には黒いだけだった部分が、ルーペのレンズを通すと夜そのものが煌めいているみたいだった。


「黒雲母だ、白い部分は石英と長石だな、どうだ」


 美しいだろうと囁く声が鼓膜を、体の奥を揺らした。ただの石だと思っていたからこそ、無機質な夜の美しさが衝撃さえ伴って目の奥に焼き付いた。花火のように爆発的ではないが、ちりちりと火花が舞うように静かで確かな高揚感。


「……綺麗」


 思いもがけずころりと零れた言葉に、その人は僅かに唇の端を持ち上げた。夢現のまま僕は丸硝子の中の夜空に釘付けになっていた。微睡んでいるような心地で明日もここへ来るかと問うても応えはなく、名前を尋ねることも名乗ることもない、それでも確かにそこに在った。他の誰も知らない始まりだった。




 出会いの日の翌日は、居てもたってもいられなくて、朝食を食べるや否や家から飛び出した。慌てた母の声には小さな嘘で返して、脇目も振らずに夏空の下を駆けた。あの人は今日も来るだろうか。それとも。

 よぎる不安を振り払い、辿り着いた場所にその人影を見つけた時の喜びといったら!

 次の日も、そのまた次の日も、公園のなりそこないに通い詰めるにつれて彼女の不在への不安や焦燥感は鳴りを潜めて、期待と高揚ばかりが風船のように膨れていく。だっていつも彼女はそこにいた。今まで遭遇しなかったことの方がいっそ奇妙なくらいに。どんなに早い時間に行っても、反対に遅い時間に行っても、眉をひそめることも顔色一つ変えることもなく、美しい世界の欠片を見せてくれた。

 道の途中で小学校を視界にいれてしまった時の言いようのない感情も、あの飲まれそうなほどに透明な灰色とレンズの中の世界を見ている間は砂粒ほども思い出さずに済んだ。


「ルーペと虫眼鏡は結論を行ってしまえば同じものだよ。まあレンズが小さくて倍率が高いものをルーペ、そうでないものを虫眼鏡ということが多いがね」


 そうなるとこれはルーペということになるかなと両者の違いを尋ねた僕にこちらを見もせずに彼女は答えた。愛想の欠けた様子に反して説明は丁寧だった。僕の疑問に答えることを彼女は厭わず、そのたびに煌めく欠片が頭と胸に降り積もるような心地になった。

 明日の約束はしなかったし、何日たっても僕たちは互いの名前を知らなかった。そういうものだった。それでよかった。彼女は時折、心地いいアルトで僕を少年と呼んだし、僕はこの問いかけのあと、いつしか彼女を虫眼鏡さんと呼ぶようになった。ルーペさんだと言いにくかったし、彼女は眼鏡をかけていたからだった。彼女は虫眼鏡さんと呼ばれることを否定も肯定もしなかった。ただ相も変わらずに読めない声音と表情で、少年と呼んだだけだった。




「だってこんなにも美しいものを見落としたくはないからね。ただ眺めているだけじゃあ気がつけまい」


 なぜルーペを持ち歩くのかと尋ねた僕に、虫眼鏡さんは淡々と答えた。彼女自身の事を尋ねて答えが返ってくるのは稀だった。大抵はちらりと視線を寄こすだけだった。彼女はルーペを使って花弁を見ていた。名前も知らない花だった。出会った時のように彼女が何かを持ってきてくれることもあれば、生えている草花や落ちている小石を観察することもあった。

 虫眼鏡さんと出会って、レンズ越しの夜に魅了されてから、世界は少しだけ色を変えた。今まで気にも留めなかった路傍の花や石ころも、あの日の光を孕んだ黒のように鮮烈な小世界を抱えているのかもしれない。そう思うだけで世界は少し明度を上げた。そして、それを虫眼鏡さんに伝えた時の彼女の表情を僕はずっと覚えている。僅かに目を見開いてから眦を下げたあの顔が、今まで見たものの中で頭抜けて一等美しかった。




 「最初は独り占めしようとしていたんだがね。誰かに伝えたくなってしまったのさ。美しさというものは一人では到底抱えきれるものではないのだろうな」


 なぜあの日、黒雲母を見せてくれたのかと尋ねた僕に、虫眼鏡さんはルーペを差し出しながら答えた。彼女は遠くを見るように少しだけ目を細めていた。


「たとえ泥の中だろうが蓮は咲くし、夜空が暗いからこそ星が輝く。どんな世の中であろうと、美しいものに目を留め、拾い上げるように生きられたならばそれほどの幸福はあるまい」


 僕はそれを聞いて少しの間目を閉じて、瞼の裏に虫眼鏡さんを思い描いた。彼女は暗い闇の中を怯えることなく歩いている。小さくて色とりどりに光る欠片がぽつりぽつりと落ちていて、彼女はそれを拾い上げるとルーペを通して隅から隅まで眺めてから、白衣の横ポケットに入れる。欠片を見つけるたびに繰り返すからしばらくするとポケットは両方とも満杯になってしまう。胸ポケットにはルーペを入れるから欠片を入れることは出来ない。万が一にでもレンズに傷をつけるわけにはいかないからだ。仕方なくルーペを持っていない方の手で抱えて歩き始めるがすぐに限界がきて、腕の隙間から星屑みたいに零れ落ちてしまう。彼女はわずかに眉間に皺を寄せて、立ったまま考え込んでいる。そこへ誰かが近づいてくる。

 僕だ。初めの日に来ていた半袖と短パンでリュックを背負っている。虫眼鏡さんは僕に気が付くとこちらに来てリュックを開けるように言う。僕が従うと、彼女は腕に抱えていた光を明け渡すように注ぎ込む。僕はリュックの中を埋めていく煌めきに目を奪われて、底でカサリと鳴った音に気が付かないふりをするのだ。




「少年」


 虫眼鏡さんが正面から僕を見据えていた。いつもどおりの声音で、表情だって何ら変わりはなかった。灰色の髪と白衣の裾が風になびく。木々の緑とのコントラストに既視感を覚えた。


「君は何ゆえここに来たんだい」


 僕は黙ってベンチの上に置いてあったリュックを取ってくると、中からくしゃくしゃになった一枚の紙を取り出して、虫眼鏡さんに見せた。今日こうなるであろうことはなんとなくわかっていた。思ったよりも自分が落ち着いていることに驚いていた。


「夏休みの宿題……将来の夢」


 虫眼鏡さんがプリントの題名を読み上げるのを聞きながら、僕の心はひどく凪いでいた。彼女が僕を見つめたのを合図に、口を開く。


「わからなかったんです。……自分が、どうなりたいか」


 他の大人であれば意地でも話さなかっただろう内容だった。それこそ出会ったあの日のように。今の僕にとっての世界の中心にいる資格を半年後に僕は失う。あの教室や校庭が僕らの場所でなくなるなんて、想像もできなかった。足元が揺らぐような、崩れていくような錯覚。


「それで、思ったんです。僕はいったい何になれるんだろうって。考えれば考えるほどわからなくなって、誰もいない場所に行きたくてここに来たんです」


 ずっと昔、車に乗っていた時に偶然この場所を見かけて以来、ここは僕だけの秘密基地だった。まあ実際は僕だけの場所ではなかったが、それを残念だとは思わなかった。


「なあ少年」


 初めにあった時に嘘を吐いた後ろめたさとすべてを吐露した清々しさを包むように虫眼鏡さんが僕を呼んだ。


「人はどこまで行っても自分以外のものにはなれんよ」


 差し込んだ光に透き通った彼女の髪がきらきらと光る。


「どれだけ小さかろうが気が付く人はちゃんといる。自分が光ろうとすることをやめない限りは。だから」


 こちらを見つめるその目は今日も怖いくらいに澄んでいた。


「あんたはあんたのままで、どこへだって行ってやれ」


 その瞬間、視界が開けたような気分になった。世界の全てに光を砕いて散らしたようだった。出会った日と違って、もう体のどこにも隙間風なんて吹いていなかったし、胃の底に感じていた澱はどこかへ行ってしまった。

 その日、僕は明日もここへ来るかと彼女に問わなかったし、彼女も何も言わなかった。僕は彼女の名前を知らなかったし、彼女も僕の名前を知らなかった。

 そういうものだった。入学すればいつか卒業するように、始まりがあったからには終わりがなくてはならなかった。明日になれば夢は覚めるし、その前にプリントを書かなくてはいけない。けれど、世界は美しい。僕はそう知っていた。だからそれでよかったのだ。



 結局あれ以来、虫眼鏡さんに会ったことはない。それでも目に映る全てのものが美しさを抱えているのだと知ったあの日から、僕の世界は色褪せない。高校までの道を歩きながら、いろいろなものに視線を投げる。青に映える入道雲、塀の上で丸まる猫に、太陽の光を吸い込んで咲くひまわり。鮮やかに視界を染める世界の隅でいつかの銀色が煌めいた気がした。



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虫眼鏡さん 文鳥 @ayatori5101

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