第35話 エイミー日記――名前のない想い

 今日も夜明け前から、街はまだ眠っている。

 冬の朝の空気は冷たく、吐く息が白い。

 パンの香ばしい匂いと、桶の水がこぼれる音。

 湯気に混じって、子どもたちの笑い声が風に散る。

 その音が、かつての祈りよりも確かなものに思えた。


 ラジェールを勇者として認めてから、私たちは広場での炊き出しと学校の手伝いを始めた。

 大鍋の中で湯気が立ちのぼり、笑い声があふれる。

 かつての私なら、これを「施し」と呼んでいたはずだ。

 でも今は、それが少し違うものに思える。


 ラジェールの行動を見ているうちに、わかってきた。

 彼のそれは施しじゃない。

 救いとも、また違う。

 ――救いじゃない“何か”。


 口にしかけて、やめた。

 その“何か”に名前をつけた瞬間、壊れてしまいそうで。


 施すことを否定はしない。

 でも、それがすべてじゃない。

 “そうじゃない道”があってもいいのだと、思えるようになってきた。

 この変化をどう呼べばいいのか、まだわからないけれど。



 ラジェールとは、お互いに相容れない――そう思っていた。

 でも最近、私はその“違い”を受け入れ始めている気がする。


 彼の言葉は不器用で、時に信仰を揺さぶる。

 けれど、それでも私の心は拒めなかった。

 たぶん、彼の中の“正しさ”が、私の信じてきたものとどこかで似ているから。


 教会の教えとは少し違う。

 それでも、これもまた答えなのだと思う。


 私はもう、完璧な神官ではいられない。

 でも、悪い神官でいい。


 それでも、誰かの幸せを願う手を止めることはできない。


 祈りとは、誰かの幸せを願うこと。

 ――けれど、彼の幸せを願うたびに、胸が少し痛む。

 風が冷たいのに、指先だけが熱を帯びていた。

 その理由を考えるのは、やめておいた。



 今日、エマに聞かれた。

 「最近、アイツのこと“ラジェール”って呼びますよね? いつから仲良くなったんですか?」


 ……言われて、気づいた。

 いつのまにか、“ラジェール殿”から“ラジェール”に変わっていた。


 思い返せば、ある日、思わず呼んでしまったことがあった。

 「ラジェ……」と口にした瞬間、息が詰まって、言葉を飲み込んだ。

 その一音が空気の中に溶けて、心臓が妙に早く打った。


 エミリオ様は、今も“エミリオ様”のままなのに。

 どうしてだろう。

 名前を呼ぶたび、少しだけ胸の奥が温かくなる。

 けれど、それが何を意味するのかは、まだわからない。


 ラジェールのことは、私の勇者様として敬意を持っている。

 ……ただ、それだけ。

 ――の、はず。



 エレノワがラジェールに近づくと、なんだか胸の奥がチリッと痛む。

 エミリオ様が“エミリヤ”の顔をラジェールに見せているのを見ると、落ち着かない。

 ヨル様に一緒に住まないかと聞かれた時、考えるより先に口から言葉が出ていた。


 なぜだろう。

 よくわからない自分が、私の中にいる。


 深呼吸しても、このざわめきは消えない。

 指先が少し震えて、日記の文字が滲む。


 ほんの一瞬だけ、名前を呼びたくなった。

 でも、やめた。


 この気持ちが何かは、わからない。

 ただ、名前をつけてしまうのが怖い。


 祈りに名前はいらない。

 それが、今の私の正直な気持ちだと思う。


祈りはいつしか、いつか読んだ恋愛小説のような形をしてた。

……これは、気づかないフリをしよう。



 寝る前に難しいことを考えるのは、悪い癖だ。

 そろそろ寝よう。


 きっと明日には、忘れているだろう。

 そうじゃないと――

 この気持ちに、名前がついてしまいそうだから。


 ラジェールは、私の勇者様。

 ただそれだけ……。

 それ以上ではない……はず。

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