第56話:魔導河の最後の奇跡
私は実に穏やかな心境にあった。
図書館での関係性に関する議論から三日が経ったその夜、私は特に目的もなく夜の散歩に出かけていた。
春の終わりの涼しい風が頬を撫で、満月が学院の石造建築を静かに照らしている。
足は自然と魔導河の方向に向かっていた。
いつの間にか、この川辺が私にとって最も心の落ち着く場所になっていたのである。
石段に腰を下ろして川面を眺めていると、背後から足音が聞こえてきた。振り返ると、意外にもアリアが立っていた。
「こんばんは」と彼女は静かに挨拶した。
「あ、こんばんは」と私は驚いて立ち上がろうとしたが、アリアは手で制した。
「そのままで結構です」と彼女は言って、私の隣に座った。
「偶然ですね」と私は言った。
「偶然でしょうか」とアリアは微笑んだ。
「私もなんとなく、この場所に来たくなったのです」
我々はしばらく黙って川の流れを見つめていた。
いつものような神秘的な現象は起こっていない。ただ、月光が水面に反射して、静かな美しさを醸し出している。
「最近、よく考えるのです」とアリアが口を開いた。
「何についてでしょうか?」
「言葉の限界について」と彼女は答えた。
「先日の図書館での会話もそうでしたが、大切なことほど言葉で表現するのが難しいものですね」
私は頷いた。確かにその通りである。
「蓋し、最も重要なことは、最も言語化困難なものなのかもしれませんね」
「そうですね」とアリアは同意した。
「でも、それで良いのだと思います」
「良い、ですか?」
「はい」とアリアは川面を見つめながら続けた。
「無理に言葉にしなくても、分かり合えることがあるのではないでしょうか」
私は彼女の横顔を見た。月光に照らされた静謐な表情が、何とも美しく見える。
「君と一緒にいると」と私は思わず呟いた。
「とても心が落ち着きます」
「私もです」とアリアは小さく微笑んだ。
「あなたと過ごす時間は、いつも特別な感じがします」
我々は再び沈黙した。
しかし、それは気まずい沈黙ではなく、むしろ心地よい静寂であった。お互いの存在を感じながら、川の音に耳を傾けている。
「実のところ」とアリアがゆっくりと話し始めた。
「最近、無理に何かを決めたり、定義したりする必要はないのではないかと思うようになりました」
「どういう意味ですか?」
「私たちの関係も、今のままで十分素晴らしいものだと思うのです」と彼女は説明した。
「こうして一緒にいるだけで、とても満足感があります」
私は深く納得した。
確かに、今この瞬間の心地よさを、これ以上の何かで置き換える必要はないのかもしれない。
「そうですね」と私は答えた。
「こうしているだけで十分ですね」
「はい」とアリアは頷いた。
「これ以上は望みません」
その時、不思議なことが起こった。
魔導河が、これまで見たことのないような優しい光を放ち始めたのである。
それは華やかな光の帯でもなく、劇的な魔法蛍の群舞でもない。
ただ、川全体がほのかに、まるで内側から温かい光が滲み出るように輝いているのだ。
「美しいですね」とアリアは感嘆した。
「ええ」と私も見とれていた。
「今まで見た中で、最も美しい光景です」
光は次第に穏やかになり、やがて元の静かな川面に戻った。
しかし、その短い間に、何か大切なことが起こったような気がする。
「今の現象は」と私は呟いた。
「感情の迷宮の制御システムによるものなのでしょうか」
「分かりません」とアリアは答えた。
「でも、演出だったとしても、この瞬間の気持ちは本物です」
私は深く同感した。
確かに、この川の現象が人工的なものだったとしても、今感じている満足感や安らぎは確実に真実である。
「畢竟」と私は思考を整理した。
「重要なのは現象の真偽ではなく、我々がどのように感じているかということですね」
「その通りです」とアリアは微笑んだ。
我々はもうしばらく川辺に座っていた。特別な会話をするわけでもなく、ただお互いの存在を確認し合うように。
時折、アリアが小さく息をついたり、私が足を組み直したりする音が聞こえるだけで、それすらも心地よく感じられる。
「そろそろ戻りましょうか」とアリアが提案した。
「そうですね」と私は立ち上がった。
寮への帰り道、我々は並んで歩いた。いつものことだが、今夜は特別な意味があるような気がする。
「今夜は」とアリアが途中で口を開いた。
「とても良い夜でした」
「私もそう思います」と私は答えた。
「何か特別なことがあったわけではないのですが、なぜか記憶に残りそうな夜です」
寮の入り口で別れる時、アリアは振り返った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」と私も答えた。
部屋に戻ってから、私は窓から魔導河を見下ろしていた。もう特別な光は見えない。ただの静かな川である。
しかし、今夜の体験は確実に私の心に刻まれている。言葉で説明できない何かが、確実にアリアとの間に生まれたのだ。
「実に興味深いことである」と私は呟いた。
机に向かって日記を書こうとしたが、今夜の出来事をどう表現すればよいのか分からない。結局、「魔導河にて、アリアと良い時間を過ごす」とだけ書いて、ペンを置いた。
ベッドに横になりながら、私は今夜の魔導河の光を思い出していた。
あの優しい輝きは、まるで我々の関係を祝福しているかのようであった。
窓の外で、魔導河が静かに流れ続けている。
明日もまた、我々は一緒に図書館で勉強し、食事をし、散歩をするだろう。表面的には何も変わらない日常である。
しかし、その日常の中に、今夜のような特別な瞬間が確実に存在している。
言葉で定義できない理解、説明不可能な安らぎ、そして何より、お互いの存在そのものが与えてくれる深い満足感。
我々は散々言葉で関係を定義しようと苦労していたが、実際には答えはもっとシンプルなところにあったのかもしれない。
つまるところ...真の理解とは言葉を必要としないものなのである。
理解し合えた瞬間に、全てが完結する。今夜の魔導河の優しい光が示してくれたのは、まさにその真実だったのだろう。
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