第3話:理想と現実の華麗なる乖離

その夜、私は机に向かって古代魔法語の動詞活用表と格闘していた。


「『燃やす』という動詞の現在形第三人称単数は『イグネイト』、過去完了形第二人称複数は『イナベトリス』...」


動詞一つにつき147通りの活用があるというのは誇張ではなかった。しかも、魔法の威力は活用の正確性に比例するため、一文字でも間違えると魔法が暴発するという。


「これでは語学の授業ではないか」と私は嘆いた。


窓の外を見ると、月光に照らされた美しい川が流れている。石造りの建物群も幻想的で、確かにファンタジー世界の風景である。


しかし、やっていることは現実世界の受験勉強と何ら変わりがないのだ。


翌日の「古代魔法語」の授業では、さらなる絶望が待っていた。


「今日は基本的な挨拶から始めよう」と教授が言った。


「『おはようございます』は古代魔法語で『サルヴェ・マトゥティヌム・テンプス・ベネディクトゥム...』だ。覚えたかね?」


「サルヴェ・マトゥティヌム・テンプス・ベネディクトゥム...」とクラス全員で復唱する。まるで宗教的な儀式のようであった。


「ちなみに」と教授は続けた。


「この挨拶を間違えると、『呪いあれ朝の時間』という意味になってしまう。実際、昨年それで一年生が全員呪いにかかる事件があった」


私は震え上がった。挨拶すらままならないこの世界で、果たして生きていけるのであろうか。


昼休み、私は食堂でマルクスと昼食を取りながら現状を嘆いていた。


「僕の想像していた魔法学院は違っていました」と正直に告白した。


「もっとこう...杖を振って『ファイアボール!』と叫べば火球が飛んでいくような...」


マルクスは苦笑いした。


「そんな魔法使いは童話の中にしかいませんよ。現実の魔法は科学です。正確な計算と精密な発音、それに完璧な魔法陣が必要なんです」


「では、卒業生は皆すごい魔法使いになるのですか?」


「いえ」とマルクスは首を振った。


「多くは魔法関連の事務職に就きます。魔法省の計算係とか、魔法道具メーカーの設計部とか」


私の夢がまた一つ崩れ去った。


その時、食堂の入口から一人の少女が入ってきた。


銀髪が陽光に輝き、淡い紫の瞳が印象的な美少女である。彼女だけは他の学生と違って、どこか生き生きとした雰囲気を纏っていた。


「あの方は?」と私は尋ねた。


「アリア・ルーンヒルデです。魔法理論学科の優等生で、学年首席の天才です」とマルクスは説明した。


「彼女だけは本当に魔法が好きみたいですね」


「魔法が好き...」


私は興味を抱いた。この殺伐とした計算地獄の中で、なぜ彼女だけが輝いて見えるのであろうか。


その時、アリアが持っている本のタイトルが目に入った。


「異世界転生譚集 第三巻」と書かれている。


私は目を疑った。まさか、この世界にも異世界転生小説があるのだろうか。しかも、魔法理論の天才が読んでいるとは。


「あの本は...」と私はマルクスに尋ねた。


「ああ、あれですか」とマルクスは苦笑いした。


「最近流行りの娯楽小説ですね。


『現実の魔法世界は退屈だから、もっと面白い異世界に転生したい』という内容らしいです」


私は愕然とした。


異世界に転生した私が、その異世界で「さらなる異世界転生小説」を読んでいる少女に出会うとは。これぞまさに皮肉の極致ではないか。


「つまるところ...彼女も現実に満足していないということですか」と私は呟いた。


「そういうことになりますね。つまるところ、隣の芝生は青いということでしょう」とマルクスは頷いた。


私は深い溜息をついた。異世界転生の現実とは、かくも複雑で皮肉に満ちたものだったのである。



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