第14話『そのブラは、まだ誰かを覚えてる』
「……あれ? なんだこれ……」
ベランダで洗濯物を干していたときのこと。
彼女のブラジャーを持ち上げた俺は、思わず眉をひそめた。
カップの表面に、くっきりと、指跡のような痕が残っていたのだ。
五本。
小さくて、細い、女の指の形。
ちょうど、カップを内側から押したような形で。
(……洗濯で変なシワでもついたか……?)
そう思って、手で伸ばそうとした。
だが、その部分だけ、濡れていた。
洗濯物全体はしっかり乾いているのに、
なぜかその“指跡”の部分だけが、ひんやりと湿っていた。
……それが、最初の違和感だった。
*
彼女――ユカは最近、新しい下着を買ったと言っていた。
淡いピンクのレース地で、どこかレトロな雰囲気のデザイン。
「古着屋で見つけたの。可愛くない? 未使用品らしいよ」
そう言って笑った彼女は、どこかいつもより嬉しそうだった。
「古着の下着って……なんか不吉だろ……」
そう言うと、ユカは少しだけ寂しそうに笑った。
「……でも、なんか……このブラ、着けると気分変わるんだよね。女っぽくなるっていうか……」
その夜、ユカはそのブラを着けたまま、俺の前に現れた。
そして、いつもより大胆だった。
肌を寄せ、唇をなぞり、耳元で囁いた。
「ねぇ……今日のあたし、変じゃない?」
「……いや、綺麗だよ」
「そっか……じゃあ、もっとしてあげる……。だって、タカシが好きだもん」
その瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
(タカシ……?)
「おい……誰だよ、それ」
「え? ……あれ?」
ユカは首をかしげて、ぽかんとした顔をした。
そして、次第に青ざめていった。
「……いま、わたし、なんて言った……?」
*
翌朝、ユカは悪夢を見たと言った。
「……真っ暗なトンネルの中で、誰かにブラを引きちぎられて、
なのに、笑ってるの。“これがあたしの最期の形だから”って……」
「……誰かの記憶、じゃねえのか、それ……」
俺の言葉に、ユカは無言で頷いた。
そして数日後。
俺は、何気なくそのブラのタグを見ることにした。
すると、ブランド名の横に、ボールペンの手書きで、
小さく名前が書かれていた。
《RINA》
その名をネットで検索してみる。
すると、地元の事故記録に、こう書かれていた。
【2019年、市内のトンネル内で発見された女性遺体】
【下着姿のまま倒れており、事故死か自死かは不明】
【死亡時に着けていた下着の特徴:淡いピンク、レース地、Rinaの名前入り】
【“彼に捨てられても、このブラだけは残しておきたい”と、友人に話していたという】
──それだった。
ユカが古着屋で買ったその下着は、
死んだ“リナ”という女が、最後まで身に着けていたものだった。
*
それ以来、ユカはときどき、俺を「タカシ」と呼ぶようになった。
行為の最中、甘えるような声で、何度も。
「タカシ……タカシ……」
それに気づいても、俺は何も言わなかった。
その声が、あまりに“愛しそう”で、ぞっとするほど甘やかだったから。
そして──ついに、俺にも“聞こえる”ようになった。
ある夜、彼女がいないはずの寝室。
洗濯カゴの中にあるはずの、あのブラのほうから──
「タカシ……私、まだ覚えてるよ……」
女の声がした。
部屋には、俺ひとりきりだった。
けれど確かに、あのブラの内側から、誰かが囁いていた。
それからというもの、
俺がユカに触れるとき、必ず聞こえる。
俺の名前ではない、「タカシ」という名を呼ぶ声が、肌の下に響く。
……彼女は、
まだ“そのブラの中で”、
誰かとの愛を、続けている。
【完】
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