第14話『そのブラは、まだ誰かを覚えてる』

「……あれ? なんだこれ……」


ベランダで洗濯物を干していたときのこと。

彼女のブラジャーを持ち上げた俺は、思わず眉をひそめた。


カップの表面に、くっきりと、指跡のような痕が残っていたのだ。


五本。

小さくて、細い、女の指の形。

ちょうど、カップを内側から押したような形で。


(……洗濯で変なシワでもついたか……?)


そう思って、手で伸ばそうとした。

だが、その部分だけ、濡れていた。


洗濯物全体はしっかり乾いているのに、

なぜかその“指跡”の部分だけが、ひんやりと湿っていた。


……それが、最初の違和感だった。



彼女――ユカは最近、新しい下着を買ったと言っていた。

淡いピンクのレース地で、どこかレトロな雰囲気のデザイン。


「古着屋で見つけたの。可愛くない? 未使用品らしいよ」

そう言って笑った彼女は、どこかいつもより嬉しそうだった。


「古着の下着って……なんか不吉だろ……」

そう言うと、ユカは少しだけ寂しそうに笑った。


「……でも、なんか……このブラ、着けると気分変わるんだよね。女っぽくなるっていうか……」


その夜、ユカはそのブラを着けたまま、俺の前に現れた。


そして、いつもより大胆だった。

肌を寄せ、唇をなぞり、耳元で囁いた。


「ねぇ……今日のあたし、変じゃない?」


「……いや、綺麗だよ」


「そっか……じゃあ、もっとしてあげる……。だって、タカシが好きだもん」


その瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。


(タカシ……?)


「おい……誰だよ、それ」


「え? ……あれ?」


ユカは首をかしげて、ぽかんとした顔をした。

そして、次第に青ざめていった。


「……いま、わたし、なんて言った……?」



翌朝、ユカは悪夢を見たと言った。


「……真っ暗なトンネルの中で、誰かにブラを引きちぎられて、

なのに、笑ってるの。“これがあたしの最期の形だから”って……」


「……誰かの記憶、じゃねえのか、それ……」


俺の言葉に、ユカは無言で頷いた。


そして数日後。

俺は、何気なくそのブラのタグを見ることにした。


すると、ブランド名の横に、ボールペンの手書きで、

小さく名前が書かれていた。


《RINA》


その名をネットで検索してみる。


すると、地元の事故記録に、こう書かれていた。


【2019年、市内のトンネル内で発見された女性遺体】

【下着姿のまま倒れており、事故死か自死かは不明】

【死亡時に着けていた下着の特徴:淡いピンク、レース地、Rinaの名前入り】

【“彼に捨てられても、このブラだけは残しておきたい”と、友人に話していたという】


──それだった。


ユカが古着屋で買ったその下着は、

死んだ“リナ”という女が、最後まで身に着けていたものだった。



それ以来、ユカはときどき、俺を「タカシ」と呼ぶようになった。


行為の最中、甘えるような声で、何度も。


「タカシ……タカシ……」


それに気づいても、俺は何も言わなかった。

その声が、あまりに“愛しそう”で、ぞっとするほど甘やかだったから。


そして──ついに、俺にも“聞こえる”ようになった。


ある夜、彼女がいないはずの寝室。

洗濯カゴの中にあるはずの、あのブラのほうから──


「タカシ……私、まだ覚えてるよ……」


女の声がした。


部屋には、俺ひとりきりだった。


けれど確かに、あのブラの内側から、誰かが囁いていた。


それからというもの、

俺がユカに触れるとき、必ず聞こえる。


俺の名前ではない、「タカシ」という名を呼ぶ声が、肌の下に響く。


……彼女は、

まだ“そのブラの中で”、

誰かとの愛を、続けている。


【完】

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