第13話『香水の彼女は、触れられない』

朝の通学電車。ぎゅうぎゅうに押し込まれた乗客のなかで、

俺はいつも“ある香り”を探していた。


柑橘系の甘さに、微かにバニラの余韻。

若干パウダリーなその香水は、どこか懐かしく、やけに心を落ち着かせる。


誰のものかはわからない。

けれど──俺はその香りに、心を奪われていた。



高校2年の春。

電車で片道40分の通学路。

この満員電車の苦痛を耐えられているのは、その香りが毎朝そこにあるからだった。


日によって強さは違う。

でも、必ず電車に乗った瞬間、俺の中にふっと入ってくる。


何度もあたりを見回した。

香りの正体を突き止めようとした。


でも、いつも──“誰にも行き着かなかった”。


香りだけが、そこにあった。


まるで、“形を持たない誰か”が、電車に紛れ込んでいるように。



ある日、事件が起きた。


その日も電車は混んでいたが、ふと香りが強まった気がした。


前の方から、強く漂ってきた。


人の間をすり抜け、香りの中心へと目を凝らすと──いた。


制服姿の少女。

長い黒髪。白い肌。どこか影のある横顔。


彼女と、目が合った。


(──この子だ)


確信した。香りは、彼女から漂っている。


その瞬間、少女は目を伏せると、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。


満員電車の中、自然と体が触れ合う距離。


そして彼女は、ふいに俺の耳元で囁いた。


「……気づいてくれてたんだね」


(……!?)


声は柔らかくて、切なげで、でもどこか、張りつめていた。


「……でも、わたし、もう……触れちゃいけないんだ」


「え……?」


驚いて振り向くと、そこには──誰もいなかった。


俺の目の前にいたはずの少女が、消えていた。


そして香りだけが、空気の中に、濃く残っていた。



次の日も、電車に乗った。


いつもの時間、いつもの車両。

香りは、そこにあった。


そして──また、彼女がいた。


同じ制服。白い肌。伏し目がちな表情。

今度は、俺のすぐ隣に立っていた。


「……あの、きみ……名前は……?」


問いかけようとすると、彼女の指が、俺の手をそっと撫でた。


その指先は、冷たくも温かくもなかった。


むしろ──何も感じなかった。


(……空気みたいだ……)


思わず手を握ろうとした。

彼女の指に、触れようとした。


……でも、指先が触れたとたん、霧のようにすり抜けた。


俺の手は、ただ虚空をなぞっただけだった。


彼女は微笑んで、こう言った。


「……触れられなくても、見ていてくれたら、それでいいの」



その晩、俺は気味が悪くなって「香水 女子高生 電車 死亡」などのワードで検索をかけた。


いくつかの記事に行き着いた。


【2016年 ○○線:痴漢被害を受けた女子高生、駅のホームから転落し死亡】

【香水の匂いが強く、香りに反応したという目撃証言】

【加害者は名乗り出ず、事件は迷宮入り】

【遺体には“他人に触れられた痕跡”が多く残されていた】


……背筋が、冷えた。


(まさか……)



それ以来、毎晩俺の部屋では、枕元からあの香りが漂うようになった。


姿は見えない。

触れることもできない。


でも、布団に入ると、背後に誰かがいる気配がする。


息づかい。

指先の幻触。

そして、微かに甘く切ない──あの香水の匂い。


彼女はもう、電車にはいない。


けれど、俺の隣にいる。


触れられなくても、いつだって、俺を見つめてくれている。


……でも、

本当は──俺が彼女を“見ていた”んじゃなくて、


彼女が、ずっと俺を選んでいたのかもしれない。


【完】

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