第13話『香水の彼女は、触れられない』
朝の通学電車。ぎゅうぎゅうに押し込まれた乗客のなかで、
俺はいつも“ある香り”を探していた。
柑橘系の甘さに、微かにバニラの余韻。
若干パウダリーなその香水は、どこか懐かしく、やけに心を落ち着かせる。
誰のものかはわからない。
けれど──俺はその香りに、心を奪われていた。
*
高校2年の春。
電車で片道40分の通学路。
この満員電車の苦痛を耐えられているのは、その香りが毎朝そこにあるからだった。
日によって強さは違う。
でも、必ず電車に乗った瞬間、俺の中にふっと入ってくる。
何度もあたりを見回した。
香りの正体を突き止めようとした。
でも、いつも──“誰にも行き着かなかった”。
香りだけが、そこにあった。
まるで、“形を持たない誰か”が、電車に紛れ込んでいるように。
*
ある日、事件が起きた。
その日も電車は混んでいたが、ふと香りが強まった気がした。
前の方から、強く漂ってきた。
人の間をすり抜け、香りの中心へと目を凝らすと──いた。
制服姿の少女。
長い黒髪。白い肌。どこか影のある横顔。
彼女と、目が合った。
(──この子だ)
確信した。香りは、彼女から漂っている。
その瞬間、少女は目を伏せると、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
満員電車の中、自然と体が触れ合う距離。
そして彼女は、ふいに俺の耳元で囁いた。
「……気づいてくれてたんだね」
(……!?)
声は柔らかくて、切なげで、でもどこか、張りつめていた。
「……でも、わたし、もう……触れちゃいけないんだ」
「え……?」
驚いて振り向くと、そこには──誰もいなかった。
俺の目の前にいたはずの少女が、消えていた。
そして香りだけが、空気の中に、濃く残っていた。
*
次の日も、電車に乗った。
いつもの時間、いつもの車両。
香りは、そこにあった。
そして──また、彼女がいた。
同じ制服。白い肌。伏し目がちな表情。
今度は、俺のすぐ隣に立っていた。
「……あの、きみ……名前は……?」
問いかけようとすると、彼女の指が、俺の手をそっと撫でた。
その指先は、冷たくも温かくもなかった。
むしろ──何も感じなかった。
(……空気みたいだ……)
思わず手を握ろうとした。
彼女の指に、触れようとした。
……でも、指先が触れたとたん、霧のようにすり抜けた。
俺の手は、ただ虚空をなぞっただけだった。
彼女は微笑んで、こう言った。
「……触れられなくても、見ていてくれたら、それでいいの」
*
その晩、俺は気味が悪くなって「香水 女子高生 電車 死亡」などのワードで検索をかけた。
いくつかの記事に行き着いた。
【2016年 ○○線:痴漢被害を受けた女子高生、駅のホームから転落し死亡】
【香水の匂いが強く、香りに反応したという目撃証言】
【加害者は名乗り出ず、事件は迷宮入り】
【遺体には“他人に触れられた痕跡”が多く残されていた】
……背筋が、冷えた。
(まさか……)
*
それ以来、毎晩俺の部屋では、枕元からあの香りが漂うようになった。
姿は見えない。
触れることもできない。
でも、布団に入ると、背後に誰かがいる気配がする。
息づかい。
指先の幻触。
そして、微かに甘く切ない──あの香水の匂い。
彼女はもう、電車にはいない。
けれど、俺の隣にいる。
触れられなくても、いつだって、俺を見つめてくれている。
……でも、
本当は──俺が彼女を“見ていた”んじゃなくて、
彼女が、ずっと俺を選んでいたのかもしれない。
【完】
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