『ひとりHは、ひとりじゃない』

“ひとり遊び”のはずだった。


だれにも見られていない、密室のはずだった。

……けれど、あの夜。


俺の手が──勝手に動いた。


しかも、それは俺の手じゃなかった。



週末の深夜2時。

隣室の音も消え、世界が静かに眠るころ。

ワンルームマンションのベッドに横たわり、スマホにイヤホンを差し込む。


──お気に入りのAV、女優は推しのひとり。


ここ最近、誰とも付き合ってない。触れ合っていない。

だからせめて、と思ってこうして“セルフケア”に励むわけだが──


その夜は、何かが違った。


まず、肌寒さ。


季節は初夏で、冷房も入れていないのに、首筋に冷たい風のようなものが這った。


そして、画面の女優が喘ぎはじめたそのとき──

自分の“利き手”の動きに、違和感を覚えた。


(……あれ……?)


意識よりも早く、動いている。


自分の手なのに、どこか“他人”のような感覚。

タイミングも、力加減も、自分の癖とズレていた。


(……おかしいな、疲れてるのか?)


そう思いながらも、手は止まらない。


むしろ、どんどん“ねっとり”としてきて、触れ方が妙に官能的になっていく。


「……はぁっ……」


いつのまにか、自分が漏らす声も、なぜか遠くから聞こえてくるように感じた。


そのとき──


ふと、目の前の鏡に目をやった。


……そこには、自分のベッドに横たわる姿が映っていた。


けれど。


俺の右手を握っていたのは──もう一つの白い手だった。


(……え……?)


ぞくりと背筋が凍る。


その手は、鏡の中にしか見えない。

現実の俺の腕には、なにも触れていないのに。

でも、明らかに“誰かが握ってる”感触があった。


震えながら、目を閉じた。これは夢だ、幻想だ──


そう思った矢先、イヤホンから女の声が漏れた。


「……感じてくれてるんだね、嬉しい……」


その声は──動画のものではなかった。


明らかに、生の声。耳元で囁かれるような……しかも、聴き覚えのない女の声だった。


(やばい、やばい、やばい……)


スマホを放り投げようとする。が、右手が言うことをきかない。


まるで、自分の意思ではない“何か”が、快楽を貪っているようだった。


「……もうすぐだよ。もっと深く、もっと一緒に……」


女の声が甘く囁く。


そして、鏡の中の自分が、口を開けて笑った。


──その笑顔は、自分のものじゃなかった。


どこか、女のようで、狂気じみていて、……いやらしく、歪んでいた。


俺は叫んだ。


「やめろ!! やめろ……っ!!」


だが、声はくぐもって、届かない。


そして──


「イッて……わたしと一緒に、イッて……」


鏡の中の女が、俺の肩にのしかかるように覆いかぶさり──

現実の俺の右手は、明らかに“他人の指”になっていた。


長くて細い、女の手のような指先。

白くて、どこか濡れていて、血の気がなかった。


その手が、俺を絶頂へと導こうとしていた。


(……殺される……!)


直感した。


このまま“終えたら”──何かが、体の中に入り込む。


絶頂の瞬間、意識の隙を突いて、“それ”が定着する。


「……お願い、イッて……そうすれば……もっと一緒にいられる……」


涙声のような、その声に一瞬、罪悪感すら覚えた。


だけど。


──俺は、咄嗟に手首を噛んだ。


バチン、と意識が戻る。


鏡の中の女が、消えていた。



あれ以来、自慰ができない。


右手を動かそうとすると、勝手にどこかへ導かれていく感覚が残っている。


あの夜噛みついた手首には、まだ薄く歯型が残っている。


けれど、鏡の前に立つとき──

たまに、目が合う。


映っているのは俺の顔なのに、唇の端だけが、勝手に笑うときがある。


(──もう、入ってるんじゃないか?)


そんな恐怖が、今も、夜ごと俺を襲う。


自慰中に気を失った友人がいたとしたら──

もしかしたら、それは“快楽死”じゃなくて、

快楽の隙に忍び込んだ“誰か”のせいだったのかもしれない。


あなたは、本当に、“一人で”やってますか?


【完】

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