『ひとりHは、ひとりじゃない』
“ひとり遊び”のはずだった。
だれにも見られていない、密室のはずだった。
……けれど、あの夜。
俺の手が──勝手に動いた。
しかも、それは俺の手じゃなかった。
*
週末の深夜2時。
隣室の音も消え、世界が静かに眠るころ。
ワンルームマンションのベッドに横たわり、スマホにイヤホンを差し込む。
──お気に入りのAV、女優は推しのひとり。
ここ最近、誰とも付き合ってない。触れ合っていない。
だからせめて、と思ってこうして“セルフケア”に励むわけだが──
その夜は、何かが違った。
まず、肌寒さ。
季節は初夏で、冷房も入れていないのに、首筋に冷たい風のようなものが這った。
そして、画面の女優が喘ぎはじめたそのとき──
自分の“利き手”の動きに、違和感を覚えた。
(……あれ……?)
意識よりも早く、動いている。
自分の手なのに、どこか“他人”のような感覚。
タイミングも、力加減も、自分の癖とズレていた。
(……おかしいな、疲れてるのか?)
そう思いながらも、手は止まらない。
むしろ、どんどん“ねっとり”としてきて、触れ方が妙に官能的になっていく。
「……はぁっ……」
いつのまにか、自分が漏らす声も、なぜか遠くから聞こえてくるように感じた。
そのとき──
ふと、目の前の鏡に目をやった。
……そこには、自分のベッドに横たわる姿が映っていた。
けれど。
俺の右手を握っていたのは──もう一つの白い手だった。
(……え……?)
ぞくりと背筋が凍る。
その手は、鏡の中にしか見えない。
現実の俺の腕には、なにも触れていないのに。
でも、明らかに“誰かが握ってる”感触があった。
震えながら、目を閉じた。これは夢だ、幻想だ──
そう思った矢先、イヤホンから女の声が漏れた。
「……感じてくれてるんだね、嬉しい……」
その声は──動画のものではなかった。
明らかに、生の声。耳元で囁かれるような……しかも、聴き覚えのない女の声だった。
(やばい、やばい、やばい……)
スマホを放り投げようとする。が、右手が言うことをきかない。
まるで、自分の意思ではない“何か”が、快楽を貪っているようだった。
「……もうすぐだよ。もっと深く、もっと一緒に……」
女の声が甘く囁く。
そして、鏡の中の自分が、口を開けて笑った。
──その笑顔は、自分のものじゃなかった。
どこか、女のようで、狂気じみていて、……いやらしく、歪んでいた。
俺は叫んだ。
「やめろ!! やめろ……っ!!」
だが、声はくぐもって、届かない。
そして──
「イッて……わたしと一緒に、イッて……」
鏡の中の女が、俺の肩にのしかかるように覆いかぶさり──
現実の俺の右手は、明らかに“他人の指”になっていた。
長くて細い、女の手のような指先。
白くて、どこか濡れていて、血の気がなかった。
その手が、俺を絶頂へと導こうとしていた。
(……殺される……!)
直感した。
このまま“終えたら”──何かが、体の中に入り込む。
絶頂の瞬間、意識の隙を突いて、“それ”が定着する。
「……お願い、イッて……そうすれば……もっと一緒にいられる……」
涙声のような、その声に一瞬、罪悪感すら覚えた。
だけど。
──俺は、咄嗟に手首を噛んだ。
バチン、と意識が戻る。
鏡の中の女が、消えていた。
*
あれ以来、自慰ができない。
右手を動かそうとすると、勝手にどこかへ導かれていく感覚が残っている。
あの夜噛みついた手首には、まだ薄く歯型が残っている。
けれど、鏡の前に立つとき──
たまに、目が合う。
映っているのは俺の顔なのに、唇の端だけが、勝手に笑うときがある。
(──もう、入ってるんじゃないか?)
そんな恐怖が、今も、夜ごと俺を襲う。
自慰中に気を失った友人がいたとしたら──
もしかしたら、それは“快楽死”じゃなくて、
快楽の隙に忍び込んだ“誰か”のせいだったのかもしれない。
あなたは、本当に、“一人で”やってますか?
【完】
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