第2話『浴室の鏡に映る女』

風呂場の鏡は、曇るものだと思っていた。


だが──その夜は違った。


まるで“誰かが、内側から息を吹きかけた”みたいに、鏡の真ん中にだけ、曇っていない部分があったのだ。


俺はそこに、見知らぬ女の顔を見た。



夜十一時過ぎ。アルバイトから帰ってきて、夕飯も食わずにシャワーを浴びる。ユニットバスの灯りは、相変わらずオレンジ色で暗く、少し古びたタイルが湿気でぬめっていた。


シャワーを頭から浴びながら、ぼんやりと目を閉じる。


(……はぁ、疲れた……)


けれど、気づいたら、そのときすでに──鏡は、俺を見ていなかった。


最初は、ただの気のせいだった。鏡に映る自分の動きが、わずかにズレているような。


シャワーを止めて、濡れた髪を指でかき上げながら、鏡を見た。


そして──息が止まった。


曇った鏡の中央。

俺の顔の“すぐ後ろ”に、女がいた。


長い髪で顔の半分を隠し、裸の肩がしっとりと濡れている。

それなのに、鏡には映っているのに、実際には──後ろに誰もいない。


俺は慌てて振り返った。


けど、誰もいない。壁とカーテン、シャワーヘッドだけ。


ゆっくりと視線を戻す。

鏡の中──女はまだ、いた。


「……ど、どちらさま……?」


そう言った自分の声は、震えていた。


女は微動だにせず、ただ俺をじっと見ていた。

いや──正確には、“鏡の中から”見ていた。


その肌は異様なまでに白く、冷たそうで、首から鎖骨にかけて、水滴がいく筋も流れている。

女の顔は、どこか笑っているように見えた。


だが──その口が、ゆっくりと開いた。


「……いっしょに……入っていい?」


瞬間、体中の毛穴が凍りついた。


(聞こえた……? 耳元で……)


いや、違う。鏡の中の女の口は確かに“動いて”いた。

まるで、そこが“もう一つの浴室”であるかのように、別の空間で。


「ちがう……出ていけ……!」


俺は思わずシャワーヘッドを振りかざし、鏡に水をぶちまけた。


瞬間、ぶわっと鏡が曇り──女の姿は消えた。


(……なんだったんだ……?)


心臓はバクバク鳴り続けていた。

それでも、自分を落ち着けるように、再びシャワーを浴びはじめる。


けれど、次の瞬間。


「カラ……ン……」


風呂場の、シャンプーボトルが倒れた音。


見ていない方向から。しかも、触れていないのに。


──そして。


もう一度、曇った鏡を見たとき。


曇りの中に、指でなぞったような線が浮かび上がっていた。


「イ ッ シ ョ ニ ヌ レ ヨ ウ ?」


それは、くっきりと──人間の指跡だった。


「やめろ……やめろ……!」


俺は叫んだ。タオルを取って、無理やり体を拭き、風呂場から飛び出すように逃げ出した。



その夜、俺は風呂場の前にタオルでバリケードを作り、リビングで寝ることにした。


寝ている間も、何度も“気配”を感じた。

風呂のドアが、軋んで開いたような音。

濡れた足音が、廊下をぺたぺたと進む音。


(夢だ……これは全部、夢だ……)


けれど──朝になって、バリケードのタオルは、水浸しになっていた。


それから三日間、俺は風呂に入れなかった。



四日目の夜、意を決して銭湯へ行こうとした矢先、アパートの管理人と出くわした。


「ああ、そういや君、新しい入居者さんだったね。……103号室、大丈夫だった?」


「……大丈夫って、何がですか?」


「……いや、その部屋、昔事故があったんだよ」


事故。


「前の住人、女の子でね。深夜に風呂で倒れて、そのまま……」


「……え?」


「心臓発作だったって言われてるけど、あの子、なんか言ってたんだよね。“誰かに見られてる”って。風呂の鏡が、誰かの顔を映すって」


俺の喉が凍りついた。


「その子、全裸で、鏡の前に倒れてたんだって」


その瞬間、あの鏡の中の女の姿が、頭の中で鮮明に甦った。


濡れた髪。白い肌。開いた口。そして──俺に語りかけるような、あの目。


「……いっしょに、濡れよう……?」


それ以来、風呂場の鏡にはタオルを貼ってある。


それでも、夜中になると。


タオルの上から──誰かが内側からなぞる音が、聞こえてくる。

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