第2話『浴室の鏡に映る女』
風呂場の鏡は、曇るものだと思っていた。
だが──その夜は違った。
まるで“誰かが、内側から息を吹きかけた”みたいに、鏡の真ん中にだけ、曇っていない部分があったのだ。
俺はそこに、見知らぬ女の顔を見た。
*
夜十一時過ぎ。アルバイトから帰ってきて、夕飯も食わずにシャワーを浴びる。ユニットバスの灯りは、相変わらずオレンジ色で暗く、少し古びたタイルが湿気でぬめっていた。
シャワーを頭から浴びながら、ぼんやりと目を閉じる。
(……はぁ、疲れた……)
けれど、気づいたら、そのときすでに──鏡は、俺を見ていなかった。
最初は、ただの気のせいだった。鏡に映る自分の動きが、わずかにズレているような。
シャワーを止めて、濡れた髪を指でかき上げながら、鏡を見た。
そして──息が止まった。
曇った鏡の中央。
俺の顔の“すぐ後ろ”に、女がいた。
長い髪で顔の半分を隠し、裸の肩がしっとりと濡れている。
それなのに、鏡には映っているのに、実際には──後ろに誰もいない。
俺は慌てて振り返った。
けど、誰もいない。壁とカーテン、シャワーヘッドだけ。
ゆっくりと視線を戻す。
鏡の中──女はまだ、いた。
「……ど、どちらさま……?」
そう言った自分の声は、震えていた。
女は微動だにせず、ただ俺をじっと見ていた。
いや──正確には、“鏡の中から”見ていた。
その肌は異様なまでに白く、冷たそうで、首から鎖骨にかけて、水滴がいく筋も流れている。
女の顔は、どこか笑っているように見えた。
だが──その口が、ゆっくりと開いた。
「……いっしょに……入っていい?」
瞬間、体中の毛穴が凍りついた。
(聞こえた……? 耳元で……)
いや、違う。鏡の中の女の口は確かに“動いて”いた。
まるで、そこが“もう一つの浴室”であるかのように、別の空間で。
「ちがう……出ていけ……!」
俺は思わずシャワーヘッドを振りかざし、鏡に水をぶちまけた。
瞬間、ぶわっと鏡が曇り──女の姿は消えた。
(……なんだったんだ……?)
心臓はバクバク鳴り続けていた。
それでも、自分を落ち着けるように、再びシャワーを浴びはじめる。
けれど、次の瞬間。
「カラ……ン……」
風呂場の、シャンプーボトルが倒れた音。
見ていない方向から。しかも、触れていないのに。
──そして。
もう一度、曇った鏡を見たとき。
曇りの中に、指でなぞったような線が浮かび上がっていた。
「イ ッ シ ョ ニ ヌ レ ヨ ウ ?」
それは、くっきりと──人間の指跡だった。
「やめろ……やめろ……!」
俺は叫んだ。タオルを取って、無理やり体を拭き、風呂場から飛び出すように逃げ出した。
*
その夜、俺は風呂場の前にタオルでバリケードを作り、リビングで寝ることにした。
寝ている間も、何度も“気配”を感じた。
風呂のドアが、軋んで開いたような音。
濡れた足音が、廊下をぺたぺたと進む音。
(夢だ……これは全部、夢だ……)
けれど──朝になって、バリケードのタオルは、水浸しになっていた。
それから三日間、俺は風呂に入れなかった。
*
四日目の夜、意を決して銭湯へ行こうとした矢先、アパートの管理人と出くわした。
「ああ、そういや君、新しい入居者さんだったね。……103号室、大丈夫だった?」
「……大丈夫って、何がですか?」
「……いや、その部屋、昔事故があったんだよ」
事故。
「前の住人、女の子でね。深夜に風呂で倒れて、そのまま……」
「……え?」
「心臓発作だったって言われてるけど、あの子、なんか言ってたんだよね。“誰かに見られてる”って。風呂の鏡が、誰かの顔を映すって」
俺の喉が凍りついた。
「その子、全裸で、鏡の前に倒れてたんだって」
その瞬間、あの鏡の中の女の姿が、頭の中で鮮明に甦った。
濡れた髪。白い肌。開いた口。そして──俺に語りかけるような、あの目。
「……いっしょに、濡れよう……?」
それ以来、風呂場の鏡にはタオルを貼ってある。
それでも、夜中になると。
タオルの上から──誰かが内側からなぞる音が、聞こえてくる。
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