第1話『隣の部屋の喘ぎ声』──後編

「……あなたの声が、聞きたかったの」


その声は、まるで恋人にささやきかけるように、やわらかく、甘く──だがどうしようもなく“温度がない”声だった。


そして──不意に。


ドアノブが、ガチャリと動いた。


(鍵は、かけた……はず……!)


しかしガチャ、ガチャ、とノブが二、三度回され──その音がやんだ。


……しん、と沈黙。


聞こえるのは、自分の心臓の音と、かすかな呼吸。


(……帰った……のか?)


恐る恐る、ドアの覗き穴を覗く。


そこには──誰もいなかった。


いや、「いなかった」は正確じゃない。


覗き穴が、真っ黒に染まっていた。


誰かが、ぴったりと覗き穴に“額”を押し当てている。……まるで、こちらを覗き返しているように。


うわ、と叫びかけたその瞬間。


「見つけた……」


──耳元で、そうささやかれた。


振り返る。

けれど、誰もいない。部屋の中には俺ひとり。なのに、今の声は……間違いなく、俺のすぐ後ろから聞こえた。


「見つけた……見つけた……」

「ようやく……触れられる……」


空気が変わる。背中に──冷たいものが触れた。まるで湿った手のひらが、シャツ越しに背骨をなぞってくるような感覚。


「やめろ……やめてくれ……!」


叫んだが、声は震えてかすれていた。


どんっ、と何かが背中にのしかかる。膝が砕け、床に倒れこむ。


「……もっと、触れて……」


聞こえる女の声は、もはや喘ぎに近い。だけど、その熱っぽい声とは裏腹に、体に触れる“何か”は、冷たく、重く、湿っていた。


(……なにかが……乗っている……俺の、背中に──)


ゆっくりと顔を上げる。目の前の壁に映る、テレビの画面に反射した自分の姿。


そこに映っていたのは──


俺の背中にまたがる、全裸の女の影だった。


濡れた髪が顔を隠していて表情は見えない。

ただ、その女の体は、膝から下が血でべっとりと濡れていて、肌は蒼白を通り越して、灰色だった。


「いっしょに……いようね……?」


女が、そうつぶやいた。


画面に映った“俺”の顔が、ぎょろりと上を向き──女と目が合った。


ぞわり、と全身の毛穴が開いた。


「いっしょに……してあげる……ずっと、愛して……」


そのとき──


ドンッ!


玄関のドアが激しく叩かれた音。

女の声が、一瞬、かき消された。


「おいっ! 103号室の住人か! 開けろ! 警察だ!」


……警察?


「昨晩からの通報で来た! 今朝も、同じ苦情が入ってる!」


何が起こっているのか、理解できなかった。

ただ──その声と同時に、背中に乗っていた“それ”が、すぅっと消えた。


体が軽くなる。

起き上がる。震えながらドアを開けた。そこには、制服を着た年配の警官が一人。


「お前……今、何してた? 何か聞こえなかったか?」


「……女の……声が……」


俺が震える声でそう言うと、警官の顔色が変わった。


「やっぱりか……また、か……」


「……また……?」


警官は黙った。数秒の沈黙のあと、ぽつりと言った。


「ここに住んでた女、いたんだ。四年前に、な。男に裏切られて、首吊って死んだ。……自殺だった」


「……!」


「だけど、死ぬ前に、妙なことを言ってたらしい。“この部屋にいてくれるなら、それでいい”って」


俺の喉が、凍る。


「それ以来、苦情が出るんだ。“夜中に喘ぎ声が聞こえる”ってな。けど、誰も住んでないはずなのに……って」


「……そんなの、管理会社からは……」


「言わないさ、そりゃあな。誰も借りなくなるから」


警官は溜息をついた。そして、ポケットから何かを出した。


古びた、携帯用のレコーダーだった。


「これ、聞いてみろ」


差し出されたイヤホンを受け取り、おそるおそる再生する。


──「……あっ……んんっ……好き……ずっと、そばに……」


耳元で、あの声が響く。

背筋が凍った。


──「……次は、君の番だよ……?」


そこで録音は終わっていた。


俺はその夜、実家に帰った。


翌日、引っ越しの手続きをした。部屋には、もう二度と戻っていない。


あれが“夢”だったのか、“現実”だったのか──今も、わからない。


ただ、一つだけ確かに覚えている。


あの夜の“湿った感触”。


そして、それ以来──


時々、夜中に、誰かが耳元で「気持ちいい……?」と囁いてくる。


……俺の部屋には、もう誰もいないはずなのに。


【完】

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