第50話 傘の内側、小さな宇宙
土曜の朝、予報どおりの雨だった。
窓ガラスを細かい粒が絶え間なく叩いている。スマホが震え、短いメッセージ。
『駅ビル前、十一時。——雨の地図、楽しみ』
『了解。星ふたつ券、使用開始だな』
画面の向こうで、きっと少し笑っている。そう思うだけで、外の空の灰色がやわらぐ。
駅で待ち合わせ。改札を抜けると、彩香が星柄の傘を畳んで、手を振った。
昨日より、いや、屋上で言葉を交わす前より、目がまっすぐだ。
「おはよう、裕樹くん」
「おはよう。——内側、ほんとに星だ」
「ひみつの宇宙、だよ。行こ?」
エスカレーターで二階へ上がり、屋内連絡通路をつないでいく。俺が作った“雨の地図”の一行目は、大型書店。
*
書店の入り口で、カゴを一つ。
「おすすめ、一冊ずつ交換しよう」のルールで、まずは新刊コーナー。俺が手に取ったのは、台詞が丁寧な短編集。彩香は、装丁の静かなエッセイを選んでいた。
「理由、三十字以内で」
「静かなのに、最後に体温が上がるから」
「……似たの、選んだかも」
笑い合って、互いのカゴに入れる。雑誌コーナーに寄ったとき、彩香が平積みの端に手提げを引っかけ、山がぐらり。
「わ、わ、わっ……!」
「ここ持つ——よし、セーフ」
間一髪で支え合う。店員さんに頭を下げると、彩香は耳まで赤くなって「ポンコツ禁止札ほしい……」と小声。
「禁止にしたら彩香じゃない」と言うと、なぜか少し得意げに口を尖らせた。
レジを出ると、しおりコーナーに小さな星形のチャームがぶら下がっている。
色違いで二つ。自然に、同時に手が伸びた。
「これさ、交換しない? 俺は青、彩香は金」
「いいね。——“星、一個分”の証」
それぞれ買って、相手の本にそっと挟む。星がページの端で小さく揺れた。
*
次の目的地は、屋内庭園のあるビル。
ガラスの天井に雨粒が跳ねる音が、葉の上を転がって遠くへ消える。ベンチに腰をおろすと、人の声が遠く低くなって、雨だけが近い。
「ねえ、屋上で言った“最初の星”、覚えてる?」
「覚えてる。……ちゃんと、勝ち負けは引き分け」
「うん。今日の“最初の雨音”は、こっちの勝ちってことで」
「勝敗のルール、緩すぎない?」
「勝った方は、手を——繋ぐ権利」
ほんの少しの沈黙。
指先が、同時に半歩だけ近づいた。触れたところから、温度がじわっと広がる。
「……権利、使う?」
「使う」
自然に、指が絡む。握りすぎない、でも離れない。息を一度合わせる。
ガラス越しに落ちる雨が、見たことのない星座を描いているみたいだった。
*
遅めの昼は、駅ビルのカフェ。
席に座るやいなや、彩香が砂糖のスティックを勢いよく開け、粉砂糖がふわっと舞った。
「ひゃ、ご、ごめん! 甘い霧、発生……!」
「味は愛で補う、って奏斗が言ってた」
「補えません、って小桜が言うやつ」
笑いながら、ペーパーナプキンで拭き合う。
ココアの湯気越しに目が合って、さっきよりも長く、まっすぐになった。
「言ってなかった“いいところ”、一個だけ追加で」
「まだ出るの?」
「うん。“頼ってくれるときが好き”。——舞台のマイクも、体調のことも。弱いって言う勇気、かっこよかった」
胸の奥が、静かに熱くなる。言われるのは慣れないけど、嬉しい。
俺もコップを両手で包んで、言葉を探す。
「じゃあ俺は、“一緒に笑い方を作ってくれるところ”。……屋上も、今日も、二人の笑い方、増えた」
「いい勝負」
「勝敗つけないのが、今のルール」
ちいさく、こつん。紙コップを合わせた。
*
夕方、小雨になった駅前。
傘の内側に星が浮かび、街灯の粒が混ざる。鳴り止まない雨音が、ふたりだけのBGMみたいだ。
「ねえ、駅の向こうに新しい文具屋さんできたんだって。——“星、もうひとつ分”寄ってもいい?」
「もちろん。星、いくらでも増やせる」
横断歩道の手前。信号が赤から青へ変わる瞬間、指先をきゅっと確かめた。
渡りきって、店のガラスに自分たちが映る。肩が触れて、傘の内側だけが明るい。
買い物をすませて外に出ると、雨脚はさらに細くなっていた。
「今日の“星ふたつ券”、ちゃんと使えたね」
「だな。——スタンプ押す?」
「押す」
彩香が手帳を開き、手描きの小さな星の欄に、俺がペンで×を二つ。
並んだ印が、目に見える約束になる。
「次は……どこ行こっか」
「晴れの日に、遠回りの道。——それと、もう一回、屋上」
「先生に“使用頻度が多い”って怒られない?」
「藤崎経由で、たぶん平気」
「生徒会、つよい」
笑って、駅までの最後の角を曲がる。
星の傘の縁から落ちる水滴が、アスファルトで小さく弾けた。
「じゃあ——また月曜」
「また月曜。……写真、送る」
「俺も、今日の“雨の地図”、改訂版にしとく」
改札前で手を離す。けれど、温度は離れない。
改札の向こうで振り返った彩香が、傘の内側から小さく手を振った。
家へ向かう電車の窓に、ぼんやりと街の灯りが流れる。胸ポケットのしおりが、歩くたびに小さく当たって音を立てた。
(傘の内側、小さな宇宙。——次の星、どこに置こう)
考えるだけで、雨の余韻が、やさしく続いた。
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