第50話 傘の内側、小さな宇宙

 土曜の朝、予報どおりの雨だった。

 窓ガラスを細かい粒が絶え間なく叩いている。スマホが震え、短いメッセージ。


『駅ビル前、十一時。——雨の地図、楽しみ』


『了解。星ふたつ券、使用開始だな』


 画面の向こうで、きっと少し笑っている。そう思うだけで、外の空の灰色がやわらぐ。


 駅で待ち合わせ。改札を抜けると、彩香が星柄の傘を畳んで、手を振った。

 昨日より、いや、屋上で言葉を交わす前より、目がまっすぐだ。


「おはよう、裕樹くん」


「おはよう。——内側、ほんとに星だ」


「ひみつの宇宙、だよ。行こ?」


 エスカレーターで二階へ上がり、屋内連絡通路をつないでいく。俺が作った“雨の地図”の一行目は、大型書店。



 書店の入り口で、カゴを一つ。

「おすすめ、一冊ずつ交換しよう」のルールで、まずは新刊コーナー。俺が手に取ったのは、台詞が丁寧な短編集。彩香は、装丁の静かなエッセイを選んでいた。


「理由、三十字以内で」


「静かなのに、最後に体温が上がるから」


「……似たの、選んだかも」


 笑い合って、互いのカゴに入れる。雑誌コーナーに寄ったとき、彩香が平積みの端に手提げを引っかけ、山がぐらり。


「わ、わ、わっ……!」


「ここ持つ——よし、セーフ」


 間一髪で支え合う。店員さんに頭を下げると、彩香は耳まで赤くなって「ポンコツ禁止札ほしい……」と小声。

「禁止にしたら彩香じゃない」と言うと、なぜか少し得意げに口を尖らせた。


 レジを出ると、しおりコーナーに小さな星形のチャームがぶら下がっている。

 色違いで二つ。自然に、同時に手が伸びた。


「これさ、交換しない? 俺は青、彩香は金」


「いいね。——“星、一個分”の証」


 それぞれ買って、相手の本にそっと挟む。星がページの端で小さく揺れた。



 次の目的地は、屋内庭園のあるビル。

 ガラスの天井に雨粒が跳ねる音が、葉の上を転がって遠くへ消える。ベンチに腰をおろすと、人の声が遠く低くなって、雨だけが近い。


「ねえ、屋上で言った“最初の星”、覚えてる?」


「覚えてる。……ちゃんと、勝ち負けは引き分け」


「うん。今日の“最初の雨音”は、こっちの勝ちってことで」


「勝敗のルール、緩すぎない?」


「勝った方は、手を——繋ぐ権利」


 ほんの少しの沈黙。

 指先が、同時に半歩だけ近づいた。触れたところから、温度がじわっと広がる。


「……権利、使う?」


「使う」


 自然に、指が絡む。握りすぎない、でも離れない。息を一度合わせる。

 ガラス越しに落ちる雨が、見たことのない星座を描いているみたいだった。



 遅めの昼は、駅ビルのカフェ。

 席に座るやいなや、彩香が砂糖のスティックを勢いよく開け、粉砂糖がふわっと舞った。


「ひゃ、ご、ごめん! 甘い霧、発生……!」


「味は愛で補う、って奏斗が言ってた」


「補えません、って小桜が言うやつ」


 笑いながら、ペーパーナプキンで拭き合う。

 ココアの湯気越しに目が合って、さっきよりも長く、まっすぐになった。


「言ってなかった“いいところ”、一個だけ追加で」


「まだ出るの?」


「うん。“頼ってくれるときが好き”。——舞台のマイクも、体調のことも。弱いって言う勇気、かっこよかった」


 胸の奥が、静かに熱くなる。言われるのは慣れないけど、嬉しい。

 俺もコップを両手で包んで、言葉を探す。


「じゃあ俺は、“一緒に笑い方を作ってくれるところ”。……屋上も、今日も、二人の笑い方、増えた」


「いい勝負」


「勝敗つけないのが、今のルール」


 ちいさく、こつん。紙コップを合わせた。



 夕方、小雨になった駅前。

 傘の内側に星が浮かび、街灯の粒が混ざる。鳴り止まない雨音が、ふたりだけのBGMみたいだ。


「ねえ、駅の向こうに新しい文具屋さんできたんだって。——“星、もうひとつ分”寄ってもいい?」


「もちろん。星、いくらでも増やせる」


 横断歩道の手前。信号が赤から青へ変わる瞬間、指先をきゅっと確かめた。


 渡りきって、店のガラスに自分たちが映る。肩が触れて、傘の内側だけが明るい。

 買い物をすませて外に出ると、雨脚はさらに細くなっていた。


「今日の“星ふたつ券”、ちゃんと使えたね」


「だな。——スタンプ押す?」


「押す」


 彩香が手帳を開き、手描きの小さな星の欄に、俺がペンで×を二つ。

 並んだ印が、目に見える約束になる。


「次は……どこ行こっか」


「晴れの日に、遠回りの道。——それと、もう一回、屋上」


「先生に“使用頻度が多い”って怒られない?」


「藤崎経由で、たぶん平気」


「生徒会、つよい」


 笑って、駅までの最後の角を曲がる。

 星の傘の縁から落ちる水滴が、アスファルトで小さく弾けた。


「じゃあ——また月曜」


「また月曜。……写真、送る」


「俺も、今日の“雨の地図”、改訂版にしとく」


 改札前で手を離す。けれど、温度は離れない。

 改札の向こうで振り返った彩香が、傘の内側から小さく手を振った。


 家へ向かう電車の窓に、ぼんやりと街の灯りが流れる。胸ポケットのしおりが、歩くたびに小さく当たって音を立てた。


(傘の内側、小さな宇宙。——次の星、どこに置こう)


 考えるだけで、雨の余韻が、やさしく続いた。

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