第47話 星と栞

 放課後の図書室は、文化祭前の喧噪が嘘みたいに静かだった。

 貸出カウンターの奥でプリンターが一度だけ低く唸り、すぐ止む。窓際の席に、彩香はもう座っていた。


「おつかれ、裕樹くん」


「おつかれ。……席、とっといてくれた?」


「うん。ここ、ふたりぶん」


 隣に腰を下ろすと、木の椅子が小さく軋む。互いに鞄を足元へ置いて、ほんの短い沈黙。けれど、重くはない。


「じゃ、先に…渡してもいい?」


 彩香が胸ポケットから、小さな封筒を出した。星柄のマスキングテープで口が留めてある。


「“星ひとつ分”のやつ?」


「うん。開けてみて」


 封をそっと剥がす。中から出てきたのは、薄い布地で作られた手作りの栞だった。端に小さな金色の星のチャーム。紙の間に挟むと、要らないほど目印になる。


「……すご。器用だな」


「布はね、家庭科室の端切れ。縫ったのは……ちょっと曲がっちゃったけど」


「曲がってるのも、いい」


 そう言うと、彩香は耳まで赤くして、もうひとつ、小さく折られた紙を差し出した。表にはちょんと「しおりの使い方(任意)」と書かれている。


「“使い方”?」


「開けても……いいけど、笑わない?」


「笑わない」


 折り目を広げる。中は箇条書きになっていた。


 — 本を返す前に、必ず栞を探す(置き忘れ防止)

 — 勇気がいるページを読むときは、星のチャームを触る(深呼吸の合図)

 — ひとりで頑張らない。誰かに「ここ、難しい」って言ってもいい(※特に私)


 最後の行だけ、少し字が丸い。


 — これは“好きの手前の言葉”でできてます。続きは、また今度。


 喉の奥で、息がひとつ止まった。視界の端が、わずかに滲む。

 彩香は机の角を見つめたまま、指先で星のチャームを軽く揺らした。


「……その、“使い方”っていうか、注意書きというか……。この前、裕樹くんが言ってくれた“止まるときは止まる”って、私、うまく言葉にできなくて。だから、こういうのなら、置いておけるかなって」


「置いておく、って、悪くないな」


「うん。置いといたら、あとで拾えるから」


 その理屈が、妙に今の自分たちに合っている気がした。


「じゃあ俺の番。“雨の地図”、持ってきた」


 カバンから二つ折りの紙を出す。手描きの簡単なマップだ。駅から伸びる道に、印がいくつか。吹き出し付きのメモも添えてある。


「本屋(二階が座れる。雨でも明るい)/プラネタリウム(小さめだけど静か。投映時間メモ)/喫茶店(星形クッキー有り)」


「ほんとに“星”だらけ」


「“星ふたつ券”の系列店、みたいな」


「ふふっ」


 彩香が地図に顔を寄せる。ふわりとシャンプーの匂いがして、心臓が一回り速くなる。指先で印を辿り、少し考えてから、ある場所に小さく丸をつけた。


「ここ……最初に行きたいかも」


「プラネタリウム」


「暗いから、咳したら目立つかなって心配だったけど、もう大丈夫そうだし」


「もう大丈夫。——でも、もし途中で辛くなったら、星のチャーム触って合図して」


「うん。……ね、合図、決めとこ? お互いのために」


 手のひらを差し出す。俺も重ねる。

 小さく握って、離す。ただそれだけの約束。



「ちょっと、聴く?」


 彩香がイヤホンを取り出した。例の、ふたりで分けたあのイヤホン。

 片方ずつ耳に入れると、あの日と同じ“図書館の環境音”が流れ始めた。紙をめくる音、遠い時計、靴底の小さな音。


「……落ち着くな」


「うん。ここでこれ聴くの、ちょっと変だけど」


「本物の音に、少しだけ重ねる感じ」


「そうそう。——ね、栞、挟んでみて?」


 貸し出し予定の新刊を手に取って、ぱらぱらとめくる。

 今日の気分で選んだページに、彩香の栞をそっと滑り入れた。星のチャームが外で小さく揺れる。


「似合う」


「本に?」


「裕樹くんに」


 指先がほんの少しだけ触れた。

 胸の奥が、静かに跳ねる。



 少し勉強して、少し話して、また黙って。

 時間の粒が、机の上で均等に並んでいく。


「そういえば……この前、言ってなかった」

 彩香が、机の縁を見ながら囁く。


「なにを?」


「その、私が思う“いいところ”、の具体例。……今は全部は言えないけど、ひとつだけ」


 息が浅くなる。

 彩香は視線を上げて、まっすぐ言った。


「約束に、遅れそうな時に『今むかってる』ってちゃんと言えるところ。黙って来ないより、ずっと好き——いや、良い、って思う」


 言い直すところが、らしくて可笑しい。けれど、胸の真ん中にまっすぐ刺さる。


「俺も、言っていい?」


「うん」


「“見てしまっても、決めつけないで、話を聞こうとするところ”。……あの、廊下で踵返した日のあと、こうしてまた席を並べてるの、彩香のその力のせいだと思ってる」


 彩香は少しだけ目を見開いて、それからチャームを指でつまんだ。


「……それ、たぶん栞に書き足しとく」


「“使い方”の欄、枠増やさないとな」


「増やす。いくらでも」


 笑って、また黙る。

 静けさに、さっきより温度がある。



 閉館のチャイムが、柔らかく鳴った。


「——じゃ、今日はこのへんで」


「うん。地図、もう少し練るよ。プランBも作っとく」


「頼りにしてる」


 席を立つとき、彩香のペンケースが机の端からするっと滑り、床に落ちた。

 中身が散らばる——と思った次の瞬間、見事な角度で椅子の脚にひっかかって留まる。


「おお……奇跡のセーフ」


「セーフ、なのかこれは……」


「“ポンコツ回避”成功ってことで」


「回避できてないような……。でも、ありがと」


 ふたりで小さく笑って、ペンケースを拾う。

 出口で貸出処理を済ませ、廊下に出ると、夕方の風が頬を撫でた。


「週末、雨、降るといいね」


「珍しい願い」


「“星ふたつ券”の出番だもん」


「たしかに」


 校舎の影が長く伸びる。その端っこで、彩香がふと立ち止まった。


「——続きは、また今度」


 栞の紙片の最後の一行みたいに。

 頷いて、俺たちは同じ方向へ歩き出した。

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