第35話 文化祭二日目
文化祭二日目。
昇降口をくぐった瞬間、昨日より一段と濃い熱気が肌にまとわりついた。
放送委員のアナウンス、模擬店の呼び込み、ガムテープがちぎれる音。どれも昨日と同じなのに、体の奥で何かが鈍く重い。喉の奥に紙やすりみたいな違和感が張りついて、息を吸うたびに少しだけ咳が込み上げる。
(寝不足のせいだろ。大丈夫)
自分にそう言い聞かせて、荷物を肩に掛け直す。
「花宮ー! 客引き、午前の前半頼むー!」
小桜がエプロン姿のまま走ってきて、チラシの束を俺の胸に押しつけた。近距離で俺の顔色を覗き込む。
「……寝てない顔。水、ちゃんと飲んで」
「飲む飲む。任せろ」
笑ってごまかしたつもりだったが、小桜はまだ半眼のままだった。
「ほんとに無理しないこと。倒れたら、彩香ちゃん泣くから」
「わかってるって」
名前を出されて、胸の奥がちくりとする。わかってる。だからこそ、今日はちゃんと約束を守りたい。
廊下でチラシを配っていると、ふわりと甘い匂いが近づいた。
「……おはよう、裕樹くん」
振り向けば、制服の上に薄手のカーディガンを羽織った彩香。昨日の舞台用の巻き髪はほどけて、いつもの整った髪に戻っているけれど、目の端だけは昨日の余韻を引きずっているみたいにきらきらしていた。
「おはよう。昨日、ほんと良かったな。独白」
「ありがと。……でも今は裏方が主役だよ。はい、これ」
手渡されたのはスポドリ。差し出す手が少しだけ俺の手に触れて、ひやっとしたボトルの冷たさといっしょに脈が跳ねる。
「顔、赤い。……熱?」
「人混みで暑いだけ」
軽く笑って封を切ると、彩香はまだ心配そうに俺の額あたりをちらちら見ていた。
「無理しないでね。今日の昼、展示回る約束——覚えてる?」
「忘れるわけない。昼に、保健室前集合で」
「うん。……絶対」
“絶対”。その一言が、薄い氷みたいに胸の真ん中に静かに敷かれた。割りたくない。絶対に。
開場のチャイムが鳴る。人波がどっと押し寄せ、チラシはみるみる減っていった。声を張るたび、喉が焼けるみたいに熱い。けれど足は止まらない。
奏斗が顔を出した。「大道具、朝イチで吊り物の再調整! 花宮、手ぇ貸して!」
「了解!」
スポドリを一気に半分飲んで、体育館へ駆け出した。
*
ステージ裏は朝から戦場だった。
ワイヤのテンション、滑車の鳴き、布のシワ。確認項目は山ほどある。
「花宮、そっちのクランプ締め直す!」
「こっちはオッケー、次——」
指示を出しながら体を動かしているうちは、だるさを忘れられた。問題は、止まった瞬間だ。呼吸が浅くなり、額の内側に薄い熱がこもる。軽く咳がこぼれた。
「おい、大丈夫か?」大道具の先輩が眉をひそめる。
「平気です。……埃、吸っただけなので」
嘘半分、本当半分。とにかく手を止めない。午前の舞台が始まれば、いったん波は引く。そこまで——。
午前の部が終わった。時計はちょうど正午。
(保健室前。約束)
工具を片付けて袖を出ると、そこへ藤崎が駆け込んできた。
「花宮! ごめん、今いい!? 先生から、午後の進行で変更出た。照明キュー、台本の書き換え必要で……!」
最悪のタイミング。でも、断れない。
藤崎の額にも汗が光っていた。俺は短く頷く。
「わかった。五分でやる」
控えテーブルに身を屈め、台本の該当箇所にふせん。キュー番号をずらし、合図の入る台詞位置に赤ペンで印。指先が少し震えるのを、紙を押さえつける力で誤魔化す。
「助かる、ほんと助かる!」
「これを照明に回して——」
渡した瞬間、スマホが震いた。
画面には一行。
『保健室前で待ってるね』
約束の時間、二分過ぎ。
喉がきゅっと鳴った。
(すぐ行く……!)
「花宮、次の転換説明も頼む!」
インカム越しに飛んできた別班の声。ままならない足が、そのまま舞台裏の通路へ戻ってしまう。
(五分。五分だけだ)
そう自分に言い聞かせながら、俺は通路を走り続けた。
*
約束の場所に辿り着いたのは、結局、予定より二十五分遅れてからだった。
保健室前のベンチ。
彩香は、そこで膝の上に紙コップを乗せたまま座っていた。俺の足音に顔を上げた瞬間、安堵と、ほんの少しの寂しさが同時に浮かんで、それから小さく笑った。
「……来た」
「遅れて、ごめん」
息が上がって、声が掠れる。彩香はすぐ立ち上がり、紙コップを差し出した。
「温かいの、もらってきた。——はちみつ&ジンジャー」
両手で包むように受け取ると、湯気が喉の奥に優しくしみた。甘さと生姜の刺激で視界が少しクリアになる。
「ありがとう。……回ろう」
「うん。……でも、その前に」
彩香はそっと手を伸ばし、俺の額に触れた。指先のひんやりが一瞬で熱に飲まれていく。
「やっぱり熱ある。……昨日からそうだけど、ほんとに無理しないで」
「大丈夫。ゆっくり歩けば——」
「“ゆっくり”ね。絶対」
念を押すように言って、彼女は歩き出す。
俺はその半歩後ろで、歩幅を合わせた。
中庭の模擬店。焼きそばの匂い。金魚すくいの笑い声。
展示室の前は長蛇の列で、遠目に眺めて次へ進む。
ジンジャーの熱で一時的に軽くなった体が、少しずつまた重くなっていくのを感じた。
「ちょっと、ベンチで休もう」
彩香の提案に、素直に頷く。座った途端、背もたれの固さが気持ちいいと感じてしまうくらい、体の芯がだるかった。
「ほら」
彩香が自分のハンカチでペットボトルの水滴を拭き、タオルハンカチを折って俺の首筋に当てた。ひんやりが生き返る。
「ありがとう。……ごめん」
「謝らないで。——約束、守ってくれてる」
そう言って笑う顔に、胸がきゅっとなる。
守れているかどうか、本当のところはわからない。けれど、今はこの五分、十分を、確かに一緒に過ごしている。
遠くでブラスバンドの音が始まった。
午後の校内が、また色を増していく。
「……もう一箇所だけ、見に行こうか」
「うん」
立ち上がった瞬間、視界がふっと揺れた。
彩香の肩がすぐそばで支えになる。
「やっぱり——」
「大丈夫。行ける」
言い切って、歩き出した。
***
夕方。
最後の部の片付けに入ると、校舎の熱は少しずつ引いていった。代わりに冷たい風が廊下を抜け、汗が乾いて皮膚を冷やす。
「花宮、吊り幕のロープ、もう一回確認しよう。明日の本番で落ちたら終わりだ」
先輩の声に頷いて、脚立の最上段に上がる。
手のひらに麻ロープのざらつき。天井の鉄骨の冷たさ。
視界の端が、ほんの少し暗く沈んだ。
(……あと、これだけ)
ロープを引き、結び目の緩みを詰める。
足裏で踏んでいる段の感覚が一瞬ふっと遠のいた——と思った次の瞬間、かすかな悲鳴。
「裕樹くん!」
下から伸びた手が、俺の脛を押し戻した。
揺れた脚立がギシ、と不満を言って、元の位置に落ち着く。
「ごめん、ちょっと——」
「降りて。今すぐ」
彩香の声はいつになく強かった。逆らう気持ちが、すぐに萎んでいく。
床に降りた途端、力が抜ける。壁に背を預けると、体温が壁の冷たさで輪郭を取り戻すみたいに収まっていった。
「保健室、行こ。歩ける?」
「……行ける」
彩香は小桜に手短に伝言を頼むと、俺の腕をそっと取った。
廊下を歩く間、彼女は一度も手を離さなかった。
*
保健室。
薄いカーテンで仕切られたスペースのベッドに横になると、重力が一気に形を持って押し寄せた。額に冷却シートが貼られ、頬にひやりと風が当たる。
「体温、貸して」
彩香が体温計を差し出す。
ピピ、と短い電子音。表示は三七度九分。
「……やっぱり」
彩香の眉が心配そうに寄る。
養護の先生が解熱剤を準備してくれて、麦茶を置いていった。「今日はここで少し休みなさい。片付けは先生たちでなんとかするから」と軽く笑って。
カーテンが閉まる。
静けさが戻る。
俺は枕元のコップで薬を飲み、力が抜けていくのに身を任せた。
「手、冷たいね」
彩香の指が、俺の指をそっと包む。指先から伝わる温度が、じわじわと掌に広がって、喉のつかえが少しだけ溶けた気がした。
「……ごめん。約束、また守れないところだった」
「守ってるよ。今ここにいるじゃん」
笑っている気配。
視界はもう半分、眠りに落ちている。
「明日、朝は私が迎えに行く。無理なら無理って言って。——でも、もし行けるなら、一緒に最後まで笑おうね」
「……うん」
返事になったのかどうか、自分でもわからない。
ただ、握っている手を、少しだけ強く握り返す。
遠くで、風が校舎の角を鳴らした。
夕焼けはとっくに終わって、夜の気配が薄く漂う。
カーテンの向こうで、人の気配が忙しく行き交う音。
その全部が遠くなっていく中、唯一近いのは、手の温度だけだった。
「おやすみ、裕樹くん」
小さな声。
まぶたの奥で、その音だけが最後まで残った。
そして、暗い水の底に沈むみたいに、眠りがやってきた。
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