第34話 文化祭開幕!

張り切りすぎて文字数が多くなってます。

===================================================


文化祭の朝。

 校門をくぐった瞬間、普段の学校とはまるで別世界のような賑やかさに包まれた。


 昇降口からすでに色とりどりの装飾が視界に飛び込んでくる。廊下の壁は色紙や写真で埋め尽くされ、クラスごとのポスターが所狭しと貼られていた。

 遠くからは放送委員の軽快なアナウンスが流れ、誰かが笑い声をあげながら走り抜けていく。


(……始まったんだな)


 昨日までの慌ただしい準備の日々が、ようやく形になっていく瞬間。

 胸の奥で高揚感がじわじわと広がっていく。


「花宮ー!」


 呼ばれて振り返ると、朝から元気いっぱいの小桜が駆け寄ってきた。制服の上にエプロンを着込み、手にはチラシの束を抱えている。


「おはよ。あんた、今日うちのクラスの客引きもやるでしょ? ほら、これ配って」

「……おはよ。まだ着いて早々なんだけど」

「いいのいいの。朝から気合入れてかないと!」


 強引にチラシを渡され、半ば押し出されるように廊下へ向かう。

 途中で、飾りつけの前で写真を撮る生徒たちや、開店準備に追われる模擬店の人たちが見えた。

 そんな景色を横目に歩いていると――


「……おはよう、裕樹くん」


 背後から、控えめな声。振り向けば、制服姿の上に白いワンピース風の衣装を羽織った彩香が立っていた。

 劇のヒロイン役の衣装。髪は軽く巻かれていて、普段よりも柔らかい雰囲気をまとっている。


「お、おはよう……すごい似合ってるな」

「そ、そう……? ありがと」


 頬をほんのり赤くしながら、彩香は視線をそらす。

 それだけの仕草なのに、やけに胸がざわついた。


「今日、よろしくね」

「ああ。……あとで、ちょっと抜けられそうだったら、昨日の約束もな」

「……うん」


 短いやり取りのあと、彩香はクラスの控え室へと向かっていった。

 その背中を見送りながら、自然と表情が緩んでしまう。



 ホームルームが終わると、いよいよ開場時間。

 廊下のざわめきが一段と増し、外からは来場者の足音や話し声が近づいてくるのがわかる。


「開場します!」

 放送委員の声と同時に、玄関の扉が開かれた。

 一気に押し寄せる人の波。子ども連れの家族、他校から来たらしい制服姿の生徒、近所の人……さまざまな顔ぶれが廊下を埋め尽くす。


 俺もチラシを手に、客引きの列に加わる。

 笑顔で配りながら声をかけるのは意外と体力を使うが、驚くほど足は軽かった。

 彩香の「うん」が頭の中で何度もリピートしているせいかもしれない。


 やがて、廊下の端から奏斗がひょいと顔を出した。

「おーい裕樹! 本番前に大道具の最終チェックするって!」

「わかった!」


 チラシを後輩に託し、急いで体育館裏の物置へ向かう。

 舞台袖では、すでにクラスメイトたちが動き回っていた。

 昨日運んだ看板も、衣装も、すべてが所定の位置に揃っている。


 俺が参加するのは裏方の補助だが、緊張感は演者と変わらない。

 全員の動きが舞台の成否を左右するのだ。


「おい、こっちの布ずれてるぞ!」

「ライトの角度、もうちょい右!」


 飛び交う指示を聞きながら、俺は大道具の固定を手伝った。

 ペンキの乾き具合、布のシワ、照明の位置――細かい部分を一つずつ確認していく。


(……大丈夫、これなら)


 気づけば、残り時間はあと三十分。

 舞台袖に戻ると、そこに彩香の姿があった。控え室でメイクを済ませたばかりらしく、衣装と相まってまるで別人のように見える。


 だけど、その瞳の奥には、いつもと同じ――いや、それ以上に強い意志が宿っていた。


「……頑張ろうな」

「……うん、頑張ろう」


 ほんの短い言葉でも、その温度が全身に広がっていく。

 そして、鐘の音が――本番の始まりを告げた。

開演ベルが鳴る。

 舞台袖の空気が、きゅっと一段締まった。


 暗転の中、裏方が蜘蛛の子みたいに走る。大道具のパネルを静かに滑らせ、固定金具を足で踏み込む。俺は最後列の幕に手をかけ、合図用のインカムに耳を寄せた。


『プロローグ、暗転明け、三、二、一——』


 客席側から、ざわめきがふっと吸い込まれる。

 照明がゆっくり上がっていき、描き割りの“町角”が色を取り戻す。オープニング曲のピアノが体育館の高い天井にすべるように広がった。


 袖のすぐ前、初登場を待つ彩香が、胸の前でそっと手を握り合わせた。

 目が合う。

 息で「大丈夫」とだけ形を作って、俺は顎で小さく合図する。彩香は唇の端をきゅっと上げて、正面を向いた。


 最初の一歩が、舞台上に落ちる。

 足音は——聞こえない。良い意味で、物語の“住人”の歩き方になっている。


(……いける)


 台詞が流れる。返しが飛ぶ。呼吸が合う。

 袖の暗がりから見守る俺の方が、たぶん緊張していた。


 ——二場、転換。


 俺は小桜と視線を交わし、パネルを持ち上げる。車輪がわずかに軋む音。客席の笑いがひと呼吸遅れて波のように押し寄せ、すぐ引いていった。


「次、吊り幕二番、半分だけ——」


 インカムの声に、ロープをゆっくり引く。

 袖に戻ると、奏斗が酸素不足みたいな顔で駆け寄ってきた。


「やばい、ワイヤレス一本、バッテリー一目盛り!」

「誰の?」

「ヒロインの予備。次の独白で使う方」


 最悪なタイミング。

 俺はケースから充電済みの電池を掴むと、舞台裏の暗い廊下を走った。曲がり角で大道具の角に肩をぶつけ、鈍い痛みが走る。そんなの、今はどうでもいい。


 メイク前の小卓で、彩香が小道具を確認していた。

 気づいた彼女が、少し目を丸くする。


「裕樹くん?」

「マイクの電池、替える。すぐ終わるから」


 胸元のパックを素早く外し、カチ、カチ、と入れ替える。テストの点灯が緑に変わる。

 胸の高さで親指を立てると、彩香は安堵の息を一つ漏らした。


「ありがと……まさかの“ポンコツ回避”」

「舞台上ではな。——袖では転ぶなよ」

「が、がんばる……!」


 ふっと笑い合った瞬間、呼び出しのチャイムが鳴った。

 俺はケーブルを整え、彼女の肩にほんの一瞬だけ手を置く。


「行ってこい」

「行ってきます」


 戻る背中が、さっきよりまっすぐだった。



 独白の明かりが、舞台中央にまるい光を落とす。

 彩香が一人、そこに立つ。客席は水を打ったように静まり返った。


「——わたし、ずっと同じ場所にいるつもりだった。

  でも、あなたに会って、はじめて知ったんだ。

  “歩く”って、前に進むことなんだって——」


 透明な声が天井でほどけ、また客席に降りていく。

 袖で聞いているだけなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。リハーサルでは出なかった熱量だ。きっと、今日この場でしか出ないもの。


 拍手が、いつもより早く、いつもより長く続いた。


(……よし)


 その後も細かい山はあった。小道具の杯が転がりかけ、俺がスニーカーの先でそっと受け止める。背景幕の端が照明に噛みそうになり、小桜が一瞬で角度を直す。

 それでも、物語は一本の糸のように綺麗に引かれていった。


 ラストシーン。

 群像の最後の台詞が重なって、音楽がふっと消える。

 暗転。

 そして——ブレイクの白。客席の景色が一瞬だけ見えるほどの明るさ。


 割れる拍手。

 歓声。

 誰かの「すご……」という素の声。

 カーテンコール。舞台袖から押し出されるように、全員で一礼したとき、彩香と目が合った。

 彼女は小さく頷いて、ほんの一瞬だけ、指先をこちらに向けた。


(よく、やった)


 声にならない会話が、それだけで通じる気がした。



 幕が下りると同時に、緊張の糸が切れる。

 舞台袖は安堵と興奮の渦だった。ハイタッチ、抱き合う女子、泣き笑いの顔。俺も何度も背中を叩かれ、笑いながら叩き返した。


「おつかれ! 照明よかった!」

「大道具、神だったわ!」


 彩香が衣装の裾を押さえながら近づいてくる。

 汗で少しだけ乱れた前髪。頬は高揚で赤い。


「裕樹くん——ありがとう。電池、ほんとに助かった」

「いや、こっちこそ。……すげー良かったよ、独白」

「ふふ、緊張で足震えてたけどね」

「まじかよ、全然見えなかった」


 近くで見ると、彼女の手が微かに震えている。

 俺は一呼吸置いて、軽く拳を突き出した。


「——ナイス」

「——ナイス」


 こつん、と小さな音が鳴る。

 それだけで、また胸が温かくなった。


「このあとさ、着替えたら——」

「うん。昨日の約束、だよね」


 言葉を重ねる。

 その時、インカムが耳を叩いた。


『大道具班、至急体育館へ! 次のクラスの背面パネルが外れかけ! 人手、可能な限り!』


「……うわ」

「行ってきて。——大丈夫、終わったら連絡して」


 彩香が、先に言った。笑って、背中を押すみたいに。

 俺は頷き、走り出す。



 体育館の裏側は、また別の戦場だった。

 ビスが一本ナメていて、パネルがほんの少しずつ沈んでいる。応急で当て木を噛ませ、固定用のクランプを三点に増やす。汗が目に落ちて、視界がにじむ。

 気づけば、喉の奥が少し痛い。昨日の冷え込みで身体が消耗していたのかもしれない。そんな自覚が、疲労の底からじわじわと浮かんでくる。


「花宮、これ持って! あ、手、血出てる!」

「平気。ガムテで巻くから……次、締め直すぞ」


 作業を終えると、時計はすでに午後の後半戦を告げていた。

 インカムを外し、深呼吸をひとつ。スマホを見ると、通知がひとつ点いている。


『着替え終わったよ。保健室前のベンチにいるね』


 彩香からだ。

 返信を打とうとして、咳がひとつ漏れた。喉がざらついている。

 無理は、しない。いや、今日は——少しだけなら、走れる。



 階段を降り、保健室前のベンチへ向かう。

 角を曲がったところで、風に揺れる白いワンピースが見えた。制服に着替え直した彩香が、膝の上で紙コップを両手で包んでいる。

 俺を見つけると、嬉しそうに立ち上がった——が、次の瞬間、眉を寄せた。


「……裕樹くん、顔、赤いよ?」

「え、まじ? 照明焼けじゃね?」

「違う、そういう赤さじゃない」


 彩香は保健室のドアを軽く叩き、養護の先生から冷却シートと水をもらうと、戻ってきた。

 ふいに、額にひんやりした感触。


「ちょ、ちょっと……」

「動かないで。——はい、冷やす」


 距離が近い。

 けれど、逃げたい気持ちはどこにも湧かなかった。むしろ、少し呼吸が楽になる。


「無理、してない?」

「……ちょっと、走りすぎたかも」

「じゃあ、今日は“ゆっくり回る”。約束は守るけど、ペースは私に合わせて」


 “守る”。

 その言い方に、胸のどこかが緩む。


「了解。ガイドさん、お願いします」

「任せて」


 彩香は、いつもの少し頑張った笑顔で言った。



 中庭の模擬店をひとつ、ふたつ。

 人気のクラス展示は列が長くて、遠くから覗くだけにした。

 紙コップのココアを半分こして飲むと、喉のざらつきが少し和らぐ。代わりに、身体の芯の疲れが正直に顔を出してきた。


「……ちょっとベンチで休もうか」

「悪い。少しだけ」


 ベンチに腰を下ろすと、肩にふっと温かい重み。

 見ると、彩香が持っていた薄手のカーディガンを俺の肩にかけてくれていた。


「風、冷たくなってきたから」

「サンキュ……って、彩香は?」

「私は……平気」

「平気じゃない顔」


 言うと、彩香は少し困ったように笑って、素直に自分の腕をさすった。


「じゃあ、半分こ」

「カーディガン、半分こってどうやるの」

「ほら、こう」


 肩を寄せ合うみたいにして、布を互いの肩に渡す。

 おかしくて、二人で小さく笑った。


 遠くで吹奏楽の音。模擬店の呼び込み。子どもたちのはしゃぎ声。

 学校中の音が、少し遠くで混ざっていた。


「——明日も、頑張ろうね」

「……ああ。明日も」


 言葉は短いのに、そこにはいろんな意味が詰まっている。

 守りたいもの、守らなきゃいけないもの。

 そして、守れなかったら二度と同じ間違いを繰り返さないっていう、小さな決意。


 夕焼けが校舎の壁に伸びて、影が長くなっていく。

 その影の中で、俺たちはしばらく、同じ温度の沈黙を共有した。



 解散の時間。

 それぞれの持ち場へ戻る前、彩香がふと立ち止まってこちらを見た。


「——約束、ありがと」

「こっちこそ。明日、朝からまた走るけど……」

「走るときは、ちゃんと水飲んで」

「はいはい」


 手を振って別れる。

 廊下の角を曲がるとき、背中に軽い咳がひとつ残った。

 それが、ただの疲れで終わるのか——そうでないのか。

 その答えは、きっと、明日わかる。


 文化祭一日目の空は、暮れかけの色で、やさしく、少しだけ不穏だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る