第3話 二人きりの図書室

「……マジか」


昼休み、俺は、図書室の扉の前で立ち尽くしていた。


職員室で先生に呼ばれ、「昼休みに図書カードを棚に戻しておいてくれ」と頼まれたのはいい。

それ自体は、まあ普通のことだ。図書委員だし。


問題はその場所に、すでに彼女がいるということだった。


窓際の席で、本をめくっている横顔。

白雪彩香。


完璧美少女――のはずなのに、俺の前では、なぜかポンコツを発動する不思議な人。


俺が立ち止まっていることに気づいたのか、彼女がこちらを振り返る。


「――あっ」


そして、まただ。


「あ、あのっ……! ゆ、裕樹く……じゃなくて、花、花宮くんっ」


なぜか舌を噛みながら、机に足をぶつけて立ち上がる白雪さん。

椅子がぎいいっと不快な音を立て、周囲の空気が一瞬だけ静かになる。


「……図書室、静かに」


俺が思わず注意すると、白雪さんは「あ、うう、ご、ごめんなさいっ」と、小動物のようにしゅんとした。


さっきまで“文芸部の完璧な副部長”だったはずなのに。

なんなんだ、その急激な変化は。


「本、戻しに来ただけだから。続き、読んでていいよ」


俺がそう言って棚に近づくと、白雪さんは「あ、うん……」と返して椅子に座り直した。でも、その背筋はピンと伸びすぎていて、まるで竹のようだった。


俺が背後でカードの整理をしていると――


「……ね、ねえ、花宮くんって」


いきなり話しかけられた。


「ん?」


「図書室、好き……なの?」


「うーん……まあ、落ち着くよな。静かだし、本もあるし」


「……うん、だよね……」


そのまま沈黙が流れる。


普通の会話なのに、どうしてだろう。

話しかけた本人が一番そわそわしてるように見える。


「……裕樹くんってさ」


「ん?」


「――あ、いや、なんでもないの!」


まただ。

なんか言いかけてやめるパターン。

もしかして俺、気まずいことでもしたんだろうか。


「……白雪さんって、俺のこと、苦手?」


「えっ!?」


「なんか、話すときぎこちないというか、いつもどこか挙動不審というか」


いまでも俺の呼び方が苗字と名前が混ざってるし。


「ちがっ……!」


白雪さんが慌てて立ち上がりかけたが、今度は椅子の脚がカーペットに引っかかって、ぐらりと揺れる。


「あっ、あああっ――!」


「危なっ!」


倒れかけた彼女を、咄嗟に俺が支える形になった。

手が、腕に触れる。

ぐっと引き寄せる。

至近距離。

……近い。


あれ? この距離、やばくない?


白雪さんの瞳が、大きく見える。

恥ずかしそうに目をそらしながら、小さく震えてる。


「ご、ごめん……! 大丈夫、だいじょぶだからっ!」


真っ赤になりながら、彼女は距離を取って、深くお辞儀した。


「うん……そっか。よかった」


俺もなんだかドキドキしてる。

何もしてないのに、胸の奥が変にざわざわする。


倒れそうになっただけだろ?

ちょっと距離が近かっただけだろ?


でも、なぜかその瞬間の彼女の顔が――頭から離れない。


ほんの一瞬、俺の目の前で、完璧だった彼女の仮面が外れた気がした。


頼りなさそうに揺れるまつげ。

照れくさそうにこわばった口元。

ぎこちなくも俺を信頼してるような視線。


……なんだよ、あれ。


「な、なんでそんな優しくしてくれるの……?」


突然、白雪さんが呟いた。


「え?」


「いつも……変なとこ見せてばっかりで、足引っ張ってばかりで……それなのに」


「……変なとこ、って」


「掃除でバケツぶちまけたり、転んだり、プリント逆に配ったり……今日も、プリント二周したし……っ」


「はは、あれは俺もびっくりした」


「笑わないで……!」


そう言いつつ、白雪さんは口元を少しだけほころばせた。

怒ってない。むしろちょっと安心したように見える。


「俺さ」


「……うん?」


「白雪さんのそういうとこ、嫌いじゃないよ」


「――っ!?」


また顔を真っ赤にして、今度は目を伏せたまま、両手で頬を押さえる白雪さん。


そのまましばらく固まって、まるでフリーズしたみたいだった。


なんだこれ。

この反応、俺、なんか……すごいこと言った?


……いや、言ったか。

わりとストレートに言ったな。


「ご、ごめん、変なこと言った」


「い、いいのっ!! もう、今日はこれで失礼しますっ!」


席から立ち上がり、軽くお辞儀して――また教室の時と同じように、逃げるように走り去っていった。


静まり返る図書室。

俺は一人、残された図書カードを片付けながら、さっきの彼女の顔を思い返していた。


完璧な白雪彩香。

その裏にある、ポンコツで、人間くさくて、可愛らしい素顔。


それを俺だけが知っている、ってことが――なぜだか、胸をくすぐる。


あいつ、ほんと不思議だよな。


でも、その“不思議”が、なんだかちょっとだけ。


愛しいと思ってしまった俺は――やっぱり、変態なんだろうか。


***


図書室を飛び出した彩香は、誰もいない廊下を走り抜けて、人気のない階段の踊り場でようやく足を止めた。


(……なに、今の……!?)


頬に手を当てる。

熱い。いや、焼けるほど熱い。

今の、絶対、顔真っ赤だった。というか、真っ赤どころじゃなかった。


「白雪さんのそういうとこ、嫌いじゃないよ」

――その言葉が、何度も頭の中でループしてる。


(なにそれ、ずるい……っ)


声に出せば崩れ落ちそうで、口をぎゅっと閉じる。

胸の中が、ぐるぐる、ぐるぐる渦を巻いて止まらない。


しかも、あんな距離で支えられて、顔、近すぎて……

手も……ちゃんと、あったかかった。


(……バカ……ばかばかばか……っ)


額を壁に押しつけて、彩香は小さく呻いた。

「好きです」なんて言ってない。

なのに、それに限りなく近い言葉を、あんな真顔で、あんな優しい声で。


反則だよ、それ。

ずるいよ、それ。


(だって……本当に“嫌われたくない”って思ってたのに……)


彩香はそっと胸に手を当てた。


トクン、トクンと跳ねる心臓の音。

それがまるで、"恋してます"って大声で叫んでるみたいで、恥ずかしい。


もうダメ。今日は無理。

このまま誰にも会えずに、一生布団の中で暮らしたい――。


そんな願いが叶うわけもなく、しばらく壁にもたれて膝を抱えていた彼女は、

誰にも見られないことを確認して、そっと立ち上がった。


(……明日からどう顔を合わせればいいの?)


わからない。

でも、心のどこかで。


またあの図書室で、あの人に会えたら――

そう思ってしまう自分がいる。


ほんと、もう。

これは完全に恋だよね。

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