第一部:虎の目覚めと無血国家の礎
第1話:覚醒の刻
永正十八年(一五二一年)の冬は、甲斐の国を深く閉ざした。
白い雪が山々を覆い、凍てつく風が吹き荒れる中、
甲府の武田館では、一つの奇妙な変化が起きていた。
武田信虎は、うなされていた。
夜ごと見る悪夢は、彼の過去を責め立てる。
己が拷問にかけた男の呻き声。
焼き払った村から立ち上る炎。
その記憶が、転生した現代の記憶と混じり合い、
彼の意識を激しく揺さぶる。
「……飢え、させぬ」
彼は、己の体に刻まれた罪の記憶を、
二度と繰り返させぬと心に誓った。
朝餉の席。
信虎は、いつものように荒々しい声を出すことなく、
静かに膳に向かった。
正室である大井夫人が、その様子を心配そうに見つめる。
長男である幼き晴信も、父の異変を感じ取っているのか、
普段より大人しく、椀の米粒を見つめていた。
この日から、信虎は変わった。
家臣たちへの詰問は、怒声ではなく、
理を問う静かな言葉に変わった。
無理な要求は減り、代わりに、
彼の口から出るのは、農具の改良や、
荒れた水路の修復計画といった、
現実的で、しかし誰も考えつかなかった策ばかりだった。
家臣たちは困惑した。
「殿が、ご乱心されたのではないか」
そんな陰口も、彼の耳には届いているようだった。
だが、信虎は意に介さなかった。
彼は、己がすべきことを知っていた。
この時代を、この国を、この人々を、
未来の知識で救うのだ。
信虎は、人目を忍び、躑躅ヶ崎館の奥深く、
誰にも知られぬ蔵を密かに書院へと改めた。
そこで彼は、現代の知識を古びた紙に記し始めた。
その壁の一角には、後世に「情報操作」の象徴となる、
風見鶏の絵がそっと描かれていた。
ここが、彼の「戦わぬ天下」の青写真が描かれる、
秘密の場所となるだろう。
奥日記:転生の夜の余韻
永正十八年(一五二一年)、師走二十五日 雪深き夜
奥にも、静かな変化がございます。
殿が、今朝よりまるで別人のようになられました。
かつては怒声が響き、家臣を恐れさせておられた御方が、
今では静かに、ただ静かに、膳に向かわれました。
その眼差しは、鋭さを失ったわけではございませんけれど、
どこか遠いものを見るようで、そして、
深く優しい光を宿しておられます。
わたくしには、時折、殿が遠い世界から来た御方のように感じられることがございます。
あの人の背中には、わたくしには見えぬ、
広大で、しかし静かなる景色が広がっているように思えてなりません。
ただの狂気などではございません。
あの方の胸の内には、きっと、この国を変える、
とてつもない力が宿っているのでしょう。
わたくしは、ただ、その背を静かに見守るのみでございます。
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